SEPT.4,2021

 朝起きて視界がぐにゃぐにゃするなと思っていたらメガネが歪んでいた。ベッドの上でうとうとしていたときにむにゅっとやってしまったんだろう。左右のレンズの向きが少しずれていたのでその場でぐいっとやって、視界をなんとか正常に戻す。近いうちに眼鏡屋に調整出さないとなと思う。怒られるな、いやだな、と思う。

 午後、アーキペラゴさんの「河童の家」の見学会に参加させていただいた。オープンハウスはいつも勉強になるけれど、河童の家は検討段階の模型も見ていたからよけいに勉強になった。外観を見て「やば!」となったのは久しぶりだ。それくらい見たことのないテクスチュアをもった建物だった。金属のような、岩の表面ような。どちらかというと後者が近いかもしれない。でも、どんなに荒々しい表面をしていても、岩のテクスチュアというのは奇異ではない。原始時代なんかそこらじゅう岩だらけだから、いちいち岩の表面の手触りや模様に驚いていたら大変だっただろう。そういう記憶が私たちにも残っているのかもしれない。それはともかく、「河童の家」の外観も、ずっと眺めていると不思議と目になじんでくる感じがあった。

 なかに入ると、外壁と同じテクスチュアの、遊具のような家具のような階段が家の中心を陣取っている。目に馴染んだ外観の手触りを踏む。開口をあけるのとはまた別の仕方で、視覚と触覚と運動感覚を結びつけながら、なかとそとが結び付けられていた。小さいけれどいたるところに座所があり、大人が10人いても各々にくつろげるスペースがあって、心地よい場所だとおもった。階段からちらっと横を見ると、床に立っている人の身体の一部が切り取られるようにして見えてくるのだけど、これがけっこうドキッとする。サヴォア邸のスロープでも同じようなことがあったように思う。

 そこあと事務所で少し打ち合わせをして、WHITEHOUSEとデカメロンへ秋山さんの展示を見に行った。雨が予想以上に強く、気がつくとびしょびしょだった。秋山さんの展示はお昼に二回ほど来ているのだけど、3Dプリンターが動いている時間ではなかったので、今日しっかり見ることができて本当によかった。WHITEHOUSEには、以前ご挨拶をした方っぽいな…でもマスクをしているから確証がもてないぞ……!!という方がいた。また会えたらいいなと思っていた方だったのだけど、けっきょく声をかけられなかった。こういうときマスクはもどかしい。

 海老名につくと雨がやんでいた。

SEPT.1,2021_シン・マサキキネンカンの写真

 もうずいぶん前のことになりますが、東京藝術大学青木淳研究室による展示「シン・マサキキネンカン」の記録写真を担当したので、ブログにもアップしました。久しぶりに写真をひと通り見たけれど、どんな空間だったのか、まだまだ鮮明に覚えているから不思議だ。記録写真を自分で撮ると空間そのものが身体に刻み込まれるような感触がある。この現象、なんか学術的な名称とかないのかな。

 いつかまた、写真を撮る仕事ができたらいいなと思う。建物の写真もっと撮ってみたい〜という強い気持ちがある(いつでもお待ちしております!)。写真、とても難しいけれど、誰かが一生懸命つくり上げたものを撮影するのは好きだし、楽しいし、とても光栄なことだなと思う。

 シン・マサキキネンカンの記録写真は、既存の状況からどう変化したかを撮るわけでもなく、設計者の意図そのものに注目するのでもなく、介入(らしき行為)によって促された既存への視線、みたいなものを残そうと思って撮ったのだったと思う。自分の身体が感受した感覚を、混ぜたり混ぜなかったりして撮っている。

www.ohmura-takahiro.com

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 もともとは、写真が仕上がったら研究室に伺って、写真を撮った身として展示の感想を共有しようという話だったのだけど、ちょうど緊急事態宣言が発出されたタイミングで、宣言が解除されたら伺いますと先延ばしにしていたらけっきょく解除されずに半年以上が過ぎてしまった。シン・マサキキネンカンはとてもおもしろい展示で、作品をレイアウトするということではなく、建物に何らかの仕方で介入する手付きそれ自体を見せる、という狙いのインスタレーションだったと思う(より正確には、建築家の介入を既存の環境と完璧に識別することの不可能性を経験させる、ということかもしれない)。「テンポラリーなリノベーションとしての展覧会」という位置づけがされていて(明確だ)、建築を専門としている人々がおこなう展覧会としての必然性があった。

 建築家の既存への介入の仕方には、経験する側が明確に感受できるものもあれば、多くの人々が見過ごしてしまうたぐいのものもある。あるいは、一回の経験じゃ見過ごしてしまうけれど、1年住めば見えてくる改変の痕跡もありうる。その介入の強弱のようなものは、たんに建築家の個性ということで片付けてしまえるものではなく、一種の技術として非常に重要だと思うのだけど、実際に議論されることは少ない。ましてや、ひとつの建物に強い介入と弱い介入が混合することなど稀だ(これはすごく高度なことだと思う)。展示という枠組みは「注意深く見る」態勢を見る側にもたらす。シン・マサキキネンカンは展覧会というフォーマットを借りたリノベーションという制度の上演・実験だったと思う。建築空間の改変は、もちろんストレートに知覚の問題だけれども、同時に芳醇な意味のネットワークへの(移動や付加といった物的な動作による)介入でもある。たしかそんなようなことを展示を通して感じて、青木研で話を聞いてからまとまったテキストにしようかなと考えていた。そんなことを、これらの写真と、断片的なメモを読んで思い出している。

AUG.26,2021

 岡本太郎記念館でライブ・ドローイングしている画家の弓指寛治さんの壁画(4メートル×4メートルくらいある)の支持体の設計・施工管理をGROUPが担当していて、その追加工事で朝から現場へいく。図面はひいたものの、施工は博論と丸かぶりしていたせいでほとんど関われなかったから、追加工事で入ることができて嬉しい。施工といっても、ずっとお世話になっている稲永さんの補助をしているだけなのだけど。

 お昼過ぎ、友人の板坂さんをホワイトハウスに案内する。新大久保は平日もお昼も夜も関係なく若者が一定数いてすごい。展示室におられた個展開催中の秋山さんと、展示をサポートしておられる写真家の藤田さんともお話する。世間話をするなかで、板坂さんにおもしろそうな小説や音楽などを教えてもらって嬉しい。小説を集中して読む時間をなんとしても確保したいと思う。寝る前とかにちゃんと時間を取ろう。論文をずっとやっていたせいか、小説を読むコツみたいなものをすっかり忘れてしまっているようで、なかなか読み進めることができない。没入するまでに時間がかかるし、変な登場人物が出てくると思考停止してしまう。この人、変!!この行動、変!!その返し、変!!…て普通に思っちゃって、手が止まっちゃう*1

 現場に戻り、支持体の最後の仕上げをおこなう。うすくて、おおきくて、ぺろっとしてる。場所にダイレクトに反応した大きな絵が庭に置かれている。絵の完成が楽しみだ。

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○本日のタブ

www.humboldtbooks.com

どういう経緯でたどりついたのかはわからないけれど、Humboldt Books。どの本もすごくかわいくて、ページの作り方もおもしろい。ああこの本いい……この本もいい……とつい長居してしまう。

*1:そういえば「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」で一番好きなキャラは北上ミドリだった。「変よこれ!絶対変!」が名言すぎた。

AUG.22,2021_おれたち改造屋

 11時に水道橋のコメダでさいとうと待ち合わせ、11月にある展示について時々話しながら、午後から専門学校で依頼されているレクチャーの内容について打ち合わせる。コメダのモーニング、私はいつもB(たまごペースト)かC(あんこペースト)なのだけど、さいとうはA(ゆでたまご)派だった。殻をむくのがめんどくさくてA(ゆでE)を選ぶことは少ないのだが、A(ゆでE)こそが名古屋モーニングの本来の姿なのだろう。午後のレクチャーは「公共」というお題を与えられた。自分たちの今のところの活動は「公共」なるものからはうんと遠いところにあるのではないか、と内心とまどいつつも、なんとか話した。「パブリック」は「プライベート」の範囲を画定することではじめて定義できるものだ。であれば、どんな小さな仕事をしていても、たぶん、なんらかのかたちで公共的なことがらを扱っているはずだ、と思う。思った。話していてそう思った。

 尊敬する仲俣さんに、君たちの活動は「改造」っぽいね、リノベでもなくDIYでもない(魔)改造感があると指摘され、そうかもしれないと思い、とてもうれしくなる。これからは“改造屋”を名乗っていこうかと、帰りの歩きでさいとうと話す。博論をなんとか出せましたという話題の折、仲俣さんにこんなことも指摘される。大村くんは学部から博士まで10年「運河」(大学の最寄り駅)に通ったことになる。人生のうちで「運河」が占める割合をできる限り薄めるためにも、できるだけ長生きしたほうがいい。たしかに!やば!!と感じる。仮に今死ぬと人生の1/3が「運河」になる。それはやばいので、80歳くらいまでは生きたい。唐突にいま、昔のTwitterのアカウント名が「ungariwan」だったことを思い出した。学部1年生のとき、あんなアカウント名を付けたばっかりに……。

 さいとうと解散し、千駄木にフィルムの現像を出してから、年下のさいとうくん(いま藝大青木研の修士2年)とデニーズでお話する。一見するとややこしいが、GROUPのさいとうには髭があり、さいとうくんには髭がない。さいとうくんとは最近の建築事情やら何やらについて色々と話す(建築家がおこなうインスタレーションの伝達の難しさについての話が印象に残った)。デニーズにはセブンイレブンのコーヒーマシンがおいてあり、ドリンクバーを頼めばセブンのコーヒーが飲み放題になり、お得感がパない。元を取るために計6杯飲んでしまったためか、現在すこしお腹がゆるい。貧乏暇なしとはいうが、暇な貧乏はお得感に弱い。

 なぜなれないことわざを使ったのか、と思った方もいるかもしれない。理由は昨日のできごとにある。昨日は朝からノーツを製本していたのだけれど、夕方から水天宮のタンネラウム*1に顔を出した。現在個展をしている竹浪音羽さんの作品がすばらしく、好きだなと思った絵を時間をかけて見ることができてうれしかった。なかでも楽しかったのが、佐藤くん奥くんと、竹浪さんが制作したオリジナルかるたを遊んでいた時間だった。最終的には、絵だけを見て、それが表現している言葉を想像するという遊びをしていた。言葉と絵がすぐにむすびつかないように工夫が重ねられているから、ただ単にそこに絵があるという──瞬間ではなく、引き伸ばされた──時間を複数人で共有することができて、とてもよかった。言葉と絵がむすびついたとき、絵も、言葉も、自分にとって特別なものになるような感覚があった。同じく画家のあべ(たえこ)さんが制作したかるたを遊ぶ機会も数ヶ月前にあって、そのときも、かるた最高だ!と思ったのだった。この短期間でこんなにも「かるた最高!」と思うことなどあるのだろうか。かるたという大きな波がきている。

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○本日のタブ

www.archdaily.com

壁の明暗が空間のサイズ感の認識に与える影響についての記事。具体的な事例とともに見せてくれるのでわかりやすい。

AUG.11,2021_タブの供養

 記憶はすぐに薄れるいい加減なもので、とりわけ自分の記憶力はぼんくらだという認識があるので、ブラウザのタブを溜めがちだ。ブックマークするほどでもないけれど消したくはない、というような、ほどほどの重要度の情報が束になっている。iPhoneのデフォルトにしているブラウザはChromeなのだけど、すぐにタブ数が「:)」みたいな感じになる(たぶん100をこえるとこのマークになる)。なにわらってんだ、といつも思っている。

 Chromeはけっこう危険なアプリで、タブを一覧表示すると左下に「すべて閉じる」というボタンが出てきて、これを押すと問答無用ですべてのタブが消えてしまう。何回かやっちゃったことがあり、そのたびごとに、(どうせ読み返しやしないのに)絶望的な気分になっていた。終わった……って思ってた。でも消しちゃったせいで何か生活に支障がでたことはないので、けっきょくブラウザに溜まっているタブというのは、ほんのちょっとだけ気になったくらいのものなんだと思う。そんなことを考えていると、この日記で紹介していくことで、ほこりをかぶったタブを消していけるのではないかということを思いついた。ブログの投稿のたびにタブを消化していけば、このタブ地獄から解放されるのではないか(思い出したいときはブログを読めばいいではないか)。ということで今後、毎回か、あるいはときおりか、タブを供養するということをブログの最後でやる思う。

 

◯本日のタブ

www.visit.city-tokyo-nakano.jp

鷺ノ宮駅(西武新宿線)の近くで仕事をするということを伝えた際に教えてもらった喫茶店の情報ページ。隣駅の都立家政にあるレトロな喫茶店で、池原義郎の初期作らしい。常々センスがいいなと思っている方がおすすめしていた喫茶店なので、絶対に忘れずに行こうと、タブを残したままにしていた。

 池原義郎といえば、立石(遼太郎)さんだったか(山川)陸さんだったかが、浅蔵五十吉美術館だったか酒田市美術館だったがすごい、というようなことをTwitterかどこかで書いていたような気がする(フワフワした記憶……)。どちらも行ったことがないが、行ってみたいなとずっと思っている。池原の建築に関する個人的な体験は高校のころよく目にしていた富山県総合福祉会館になる。そのころの、この建物変だな、ロボみたいだな、というあほみたいな印象のまま更新されていない。更新しないと。ひとまず「つるや」に行かないと。

AUG.8,2021

 7月19日に行われた博士論文の公聴会は無事に終わって、気がついたら3週間近くも過ぎてしまった。博論が一段落してから「ぜったいに文字を書きたくない!」という強い信念のようなものが芽生え、すっかりブログからは遠ざかってしまっていたけれど、そろそろ定期的な更新を再開しなくては、と思っている。「公聴会が終わったらやります!」と未来の自分に託していた仕事が溜まっていたこともある。許さんからな……と過去の自分を恨みながら、それらもなんとか一通り片付けて、今にいたる。ぼやっとしていてもしょうがないので、ぼちぼち日記を再開したいと思う。

 公聴会は充実した時間だった。平日の午前中にも関わらず50名ほどの方々に見ていただき、感謝しかないのだけど、参加者の記録をとっていなかったのが痛恨の極み。いまだにどなたに見ていただいたのか全貌を把握できておらず、お礼しきれていないのが心残りで。この場を借りて、皆さんありがとうございました! 公聴会での指摘を本論にフィードバックして、ひとまず執筆作業は数日前に完了した。あとは大学に提出して、製本して、と。副査の先生方等への献本を考えると15冊くらいは製本する必要があるような気がしていて(博論だとこれくらいが普通なのかしら?)、どうしたもんかなと思っている。PDFのデータに関しては、読みたいと言っていただいた方にはバンバン配布しているので、興味があれば気軽に連絡ください。TwitterのDMからでも、メールアドレス(ohmr.tkhr [at] gmail.com)からでも。

 終わったものの手応えみたいなものはなく、構成とスケールの関係という、これから研究していかなればいけないテーマの有効性を確認することはできた、というくらいしか達成できたことはないのですが……という気持ち。でもなんというか、自分の能力の限界を確かめることができたという意味では博論は書いてよかったなと思う。しかし空っぽだ。もう何も出すものがない。研究に関係のない専門書とかたくさん読みたい。

 公聴会から今日にいたるまで、以下のようなできごとが起こった。

・公聴会が終わった当日、何が何でもエンタメ映画が見たくなって、「ゴジラvsコング」を4DXで見た。映画自体は思ったより全然おもしろく、人間ではなく怪獣中心のドラマに振り切っているところに好感をもった。激エンタメであった。ただ、スクリーンのなかで登場人物が濁流に飲み込まれているときに水蒸気をプシュッとふりかけてきたり、目の前で大迫力の怪獣大合戦が繰り広げられている最中に腰のあたりにシュッと風を送り込んでくるのは、逆に臨場感を削ぐのでやめてほしいと思った。4DXは座席が動くだけでおk。

・公聴会が終わった数日後、何が何でもエンタメ映画が見たくなって、「竜とそばかすの姫」を見にいった。ところどころ素晴らしいシーンはあったが、脚本が破綻しまくっていることが気になりすぎて没入できなかった。中村佳穂が歌声も声の演技もすばらしかっただけに、とても残念に思った。とくに、川沿いを歌詞を口ずさみながら歩いていると徐々に歌になっていく、というようなシーンが本当にすばらしかった。言葉と歌のシームレス感。しかし脚本は如何ともしがたい。とくに細田映画特有の、物語の終盤に子供が無闇に(脚本の都合上で)傷ついていく演出が、個人的にやはり無理だなと感じた。

・オリンピック開会式の日。岡崎さんを海老名の家に案内してから、隈事務所にいる後輩に近美の展示を案内してもらい、国立競技場周りを散歩した。長岡アオーレの映像よかった。

・新しいプロジェクトのプレゼン。ギリギリまで模型を作っていて遅刻確定だったが、奇跡的にタクシーが拾えてなんとか間に合う。三岸アトリエという、国の登録有形文化財になっている住宅(1934年建設)を部分的に補修するという計画。無事に進みそうでよかった。今年中には工事も完了する予定。

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▲ gr012 Window for Migishi Atelier

・25日(日)。湯浅良介さんの住宅のオープンハウスに誘っていただいて大磯の近くまで行く。途中茅ヶ崎駅で乗り換えをしたが、鳴っている音がことごとくサザンだった。ここで育つ子供にはサザンはどう聞こえるのだろうと思った。湯浅さんの住宅はすごく完成度が高く刺激を受けた。道中の徒歩がザ・夏休みという情景で、疲れたけど楽しかった。暑かった。

・26日(月)。海老名の家でイベントが開催される。畳み掛けるように様々なことがおこっている。お客さんがたくさんきて、とてもたのしかった。

・この週はほかにも色々とあった。4月から都市大の講師に着任された片桐(悠自)さんの研究室を訪問したり、東大の印牧さんに会ったりもした。Talion GalleryやTOHの展示がすごくよかったし、そこで新たな出会いもあった。餃子も食べた。

・建築家の寺田さんや中村さんに声をかけてもらった海外の若手建築家に関する勉強会に関する記事にコメントを寄せた。ぜひ読んでみてください。

note.com

・ 声をかけてもらった案件でいうと、東北大の市川紘司さんに声をかけていただき、今年から日本建築学会の建築討論委員会の委員を務めることになった(2021-2023年)。僕が担当する特集は来年のはじめころに建築討論のWebサイトに載ると思う。やってみたい特集がひとつあるので、企画書を煮詰めていきたい。

・8月2日(月)。『ノーツ』の第二弾のインタビュー1本目。神泉の事務所に行ったついでに、「新宿ホワイトハウスの庭」を掲載していただいた住宅特集2021年8月号を回収する。まさかの巻頭で取り上げていただき、日埜直彦さんの論考まで掲載していただけるという豪華さで、身が引き締まる。たぶん総工費、住宅特集誌上最も少ないくらいだと思うのだけど、大丈夫でしょうか……。ちなみに金曜日には、ゲンロンが運営する放送プラットフォーム「シラス」にて建築史家の五十嵐太郎さんと市川紘司さんが担当されている番組「建築系勝手メディアver.3.0」に日埜さんが出演していらしたのだけど、ものすごく面白い内容だった。というか「建築系勝手メディアver.3.0」がそもそもすごくて、毎週長時間かつ高密度の内容の配信をしていて(毎回4-5時間近い)、五十嵐さんと市川さんの体力と企画力にちょっと引いている。おもしろくて、定期購読して過去の番組もあらかた見てしまった。

・この週は割合、博論の最終調整に時間をとられてしまった。直しても直してもなくならい誤字脱字。あと、水曜日にワクチンの2回目を打ったのだけど、木曜日は副反応で一日ダウンしていた。3回目は絶対に打ちたくない、というほどだるかった。

・昨日、ブログのプロフィール欄を半年以上ぶりに更新した。そんなこんなで、今日に。

MAY.25,2021_さいきんの仕事

 もう会期終わっちゃいましたが、六本木のANB Tokyoで開催された三野新さんの展示「クバへ/クバから」の会場構成をGROUPで担当しました。詳細は以下から。ものすごくおもしろい展示(演劇+写真展だったし、撤収の折に完成した写真集もじっくり読んだのだけど、こちらも前例のないヤバいものができていた、と感じた。読んでいると「私」の位置が(人間と非人間の境目なく)びゅんびゅん動いていく感じ。もう予約はしたので、届くのが楽しみだ。

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 先週の月曜日には、30ミリ厚の合板で作ったベッドと棚のインストールも。写真はさいきん開設したばかりのインスタ垢でも見れます(いまのことろ、日本で一番フォロワー数が少ない設計事務所じゃないか)。もしよかったらフォローしてやってください。

https://www.instagram.com/groupatelier/

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MAR.1,2021

 「ノーツ」ですが、クレジットカードの支払い審査が終わってカードでのお支払いもできるようになったので、ぜひにです。コンビニ支払を設定した方で、支払いを忘れてそのままキャンセルに……という方がけっこう何人もいらしゃったのだけど、これでひと安心、かな。

 NOTESEDITION
 

 早いか遅いかぜんぜん判断できないのだけど、おかげさまで販売予定冊数の1/3は手元から発送することができた。初刷は500部くらいしか刷っていなくて、発売初週のスピード感とかあると思うので、こんなもんなのかなと思う。売れ行きはこれからゆるやかになっていくのかしらね。二刷の予定は今のところないので(誤字脱字多いのでぜひしたいところなのですが)、購入を予定されている方はお早めに。というとなんか催促してるっぽくていやなのだけど……。

 今日は先日撮った書影のフィルムの現像を受け取ったので、スキャンをして、そのままホームページを更新した。近所の裏山で撮った写真がどういう感じになるか不安だったけれど、わりと普通に写ってて安心した。こんな雑草のなかで本が立ってる写真、書影として大丈夫なのか? という感じなのだけど、本書の内容にはむしろフィットしているようにも思う。気になった方はぜひお手にとって、対話を読んでみてほしい。

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FEB.25,2021

 午前中、裏山で「ノーツ」の書影を撮った。この雑誌は毎回テーマがはっきりと決まっているので、書影もそれに合った場所で撮っていくのがいいのかな、と考えていた。今回は庭がテーマなので、野外で撮るのがいいのかなと思って、天気も良かったし、風もおだやかだったので、えいやと撮った。物撮りってほとんどしたことないのでやり方が全然わからないのだけど、外だとライティングの技術とかは関係ないのでむしろ気楽だ。なるようになれ。

 ちなみに部屋にはあたらしく裏口のドアができて、そこをでるとコンクリートの土間が広がっている。外に電源もあるので、DIYや作品制作にはとてもありがたい場所だ(実際、棚やテーブルを作る際にここで丸ノコ使ったりサンダーかけたりしたけど、非常に便利だった)。この土間の先に斜めの床があって、ここが書影を撮るのにピッタリだった。書影用の場所じゃないかと思うくらいだった。日中はここに、木の影がうつったりしている。

 

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 ちなみに今回の雑誌、左ページがインタビューの記録、右ページが注釈という構成になっているため、レイアウトの際に大幅なカットが必要になった(メモをとれるような余白を大きく取りたい、という思いもあって)。割とがんばって書いた人物解説などはすべてカットになってしまったのだけど、もったいないのでここに掲載して供養しておこうと思う。南無……。これらはカール・テオドール・ソーレンセンの「「庭」の起源」という翻訳文に付した注なので、一緒に読んでいただけると本文の理解がしやすい部分があるかもしれないです。

スティン・アイラー・ラスムッセン(Steen Eiler Rasmusse, 1898-1990)はデンマークの建築家・都市計画家。『経験としての建築』(佐々木宏訳, 美術出版社, 1966)では歴史的な広場や建築だけではなく、コルビュジエやアアルト、アスプルンドなどの近代建築の実例を観察し、それらを形態や様式ではなく、現象という視点から分析している。教え子にヨーン・ウッツォンがいる。

ウィリアム・チェンバーズ(Sir William Chambers, 1723-1796)はイギリスの建築家。18世紀のイギリス建築界に大きな影響を与えた人物のひとりである。建築史家のH. F. マルグレイヴは、チェンバーズの著書『公共建築論』(Treatise on Civil Architecture, 1759)を「イギリスにおけるパラーディオ主義の終焉を示すもの」(『近代建築理論全史1673-1968』加藤耕一監訳, 丸善出版, p.106, 2016)として位置づけている。本書のなかでチェンバーズは、ある一定の比率=プロポーションに教条的に固執することの非合理さを指摘した。比例に関する相対主義という、本質的に反古典的な態度である。18世紀のイギリスにおいて主題となりつつあった美学理論は、幾何学、対称性、比例といった従来の関心とはまったく異質な観点を前提とする概念──ピクチャレスク──であった。チェンバーズはパラーディオ主義の伝統を引き継ぎつつ、新たな美学理論との間で揺れ動いていたのである。背景にあったのは(イギリスの植民地的関心に由来する)中国に向けられたただならぬ関心であり、チェンバーズが中国について書いた著書の中では、中国庭園の配置の技法について章が割かれている(Ibid., p.116)

ウィリアム・ケント(William Kent, 1685-1748)はイギリスの造園家、建築家および画家。画家としてキャリアをスタートしたケントは、1720年代末には複数の景観整備に関わるようになり、1730年をすぎてからは建築に関心を向けるようになる。当時のイギリスでは、整形的なバロック庭園に対して、非整形の自然美が論じられはじめていた。この議論の重要な方向づけをおこなったのは詩人アレキサンダー・ポープであり、彼自身も「あらゆる造園はすなわち風景画である」という信念のもとに自邸の造園に取り組み、ケントは友人としてそれに協力したとされる。彼らのあいだを取り持ったのは、イギリスにおけるパラーディオ主義の主導者であったバーリントン伯であった。初期ピクチャレスク庭園の傑作とされるラウシャムの庭園では、風景画的な「眺め」を敷地内に複数用意すべく、樹木や彫像、建築物が地形と対応しながら慎重に配されている。

ランスロット・“ケイパビリティ”・ブラウン(Lancelot “Capability” Brown, 1716-1783)はイギリスの造園家。1741年、ブラウンはコブハム卿にストウ庭園の造園家として雇われた。当時、この屋敷の造園を指揮していたのは晩年のウィリアム・ケントであり、ブラウンはケントから多くを学んだとされる。ケントの引退後、彼は主任庭師としてストウ庭園の造園作業を引き継いだ。ブラウンは1750年代の中頃にはイギリスで最も著名な造園家となり、生涯で170以上の庭園を手掛けたとされる。 ブラウンは水や木々、自然の眺望などの自然の要素を取り入れることを好み、同時に彫刻的な要素を導入することを避けた。彼はしばしば小川をせき止めた人口湖を造成し、曲がりくねった小道や等高線に沿ってうねる芝生と組み合わせた。へニンガム・ホールでは、一本、数本、数十本からなる樹塊が100を超える数用意され、多種多様な密度で分散配置されており、これによって邸宅前面に展開する広大な風景に視覚的な変化を与えている。 

FEB.22,2021_ノーツ 第一号 「庭」

 雑誌をだしました。ブログでちょくちょく進捗報告してたものです。長い道のりでしたが、ようやく刊行できました。下のページから詳細をみることができます。発送は3月初旬を予定していますが、すでに予約は可能です。数に限りがあるので、ぜひ早めにご予約いただければと思います。

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https://notesedition.tokyo/

 毎号ことなるテーマを設定し、インタビューと注釈を集めるというコンセプトの雑誌で、名前を『ノーツ』といいます。一年に一冊ほどでペースで刊行しようと考えていて、第一号は「庭」を取り上げました。インタビュイーは庭師であり美学研究者である山内朋樹さん 、都市生態学を専門とする曽我昌史さん、音楽家であると同時に人工知能の最前線に立つ土井樹さん、鳥取の山奥に移住し独自のコミュニティを形成している料理家の城田文子さん。この4人に加えて、写真家の高野ユリカさんに「庭」をテーマに作品の制作を依頼し、C.TH.ソーレンセンの未邦訳の論考の抄訳も掲載しています。高野さんの作品とソーレンセンの翻訳に関しても、「対話」という意識で本に収録しています。つまり、6人の専門家との庭に関する対話を集めた雑誌、ということになります。
 
 注釈は人名や専門用語の解説、インタビュー内容の考察、論文や小説、日記からの引用、写真、イラスト、漫画など、非常に多岐に渡っています。ノート(note)という言葉には記録や注、覚え書きといった意味がありますが、この本は、様々な技術や知識、経験をもった人々との対話の記録と、それに併走するたくさんの注釈を束ねています。だから、ノーツ。

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△ 左ページが対話の内容、右ページが僕らが追加した注釈。両者が常に併走するという形式。プリントは自前のリソグラフで、この二色しか使えない印刷機の特性を最大限活かしたものになっています。岡崎真理子さんと後藤尚美さんによるすばらしいデザイン。
 

 インタビューの実施から文字起こし、編集、図版の制作、注の執筆、校正、翻訳、印刷、製本、ホームページ制作、販売、発送まで、自分たちでやっているのですが、第一号は右も左もわからず、ものすごく大変でした。著者である僕らは無名の建築家で、制作資金もほとんどない状況だったので、ひととおり自分たちでやるしかなかったのでした。流通どうするのとか、いまだによく分かってないことも多く、現在進行形で困っている最中ではあるのですが。

 でも、書籍の制作はたいへん勉強になりました。とにかく編集者の偉大さを身にしみて痛感しました(第二号までに助けてくれる人が見つかれば……と思うのですが)。ちなみに個人的には大学のジャズ研の先輩である土井さんと一緒に本をつくれたことがとてもうれしかった。

 伝はないですが、これから店頭販売を目指し営業もやっていくつもりです。本屋さんに並んで、いろいろな方が手にとってくれるといいなと思います。

JAN.14,2021_ふたつの構成主義

 「構成」という用語、建築分野に限らずかなり頻繁に使うと思うのだけど、一般名詞ほど各ジャンルで特別な意味を持っていたりして、使い方が難しい。建築においては、そもそもcompositionの訳なのかconstructionの訳なのかあいまいな部分もある(後者にはもちろん、具体的な建設という意味合いが含まれるわけだけど)

 建築分野で「構成」という言葉が用いられたのは、おそらくだけど、19世紀のアカデミック教育まで遡ることができると思われる。とくに、ジャン=ニコラ=ルイ・デュランとジュリアン・ガデはひとつの建築物がそれを構成する諸要素の集積であることを強調し、後続の建築家に多大な影響を及ぼしたと言われている。レイナー・バンハムによれば、ガデは「構造上の要素」と「機能的なまとまりをもった要素」(部屋やエントランス、階段等の既知の要素)を分別し、後者こそを「構成の要素」とした*1。これ、今の僕らからするとけっこう意外かもしれない。つまりこの時代、柱や壁といった架構を構成する要素は、あるモデュールをグリッド状に反復したシステムによって、あるいは当時教条的な正しさをもっていた正方形や円といった単純幾何学図形の分割パタンによって、設計者の判断の余地なくほぼ自動的に決定されてしまうものだった。構造計算が確立されておらず経験則に基づいているからこそ、架構形態はアンタッチャブルだった。設計者がアレコレ配置を検討するのは(つまり構成=コンポジションの対象とするのは)、むしろエントランスや階段や寝室の位置だった。ここでは、諸室の位置をどのように組み合わせればある特定の機能に準じた順序や隣接関係を作り出すことができるか、という一種の論理構造の検討が主題となった。

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△ J. N. L. Durand: Formule Gaphique Applicable aux Édifices Publics Voutés, Précis of the Lectures on Architecture, pl. 3

 他方、そうしたガデの理論に対してバンハムが「もうひとつの要素的構成の理論」*2と指摘するのは、テオ・ファン・ドゥースブルフが中心となって1920年代に展開した要素主義運動(Elementarisme)であり、ここではむしろ「構造上の要素」こそが検討対象とされる傾向をもっていた(実際、ドゥースブルフは「construction」という言葉のほうを用いる)。この時点で、ほんらいイチ設計者がアレンジすることなど言語道断であった架構の造形それ自体が、検討の主軸となる。この転換は大きい。

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△ Theo van Doesburg: Construction in Space-Time II, 1924

 いま「構成」という言葉を使う場合、構成主義のこのふたつの潮流?がミックスされていると思われる。機能的なまとまりをもった要素の位置関係の検討(建築計画的な論理構造の検討)という新古典主義的な構成主義は、部材そのものの位置関係・順序・結合処理の検討(部材の物的なふるまいの検討)という要素主義運動的な構成主義の考え方とほとんど一体化しつつ、引き継がれている。多くの建築家は、架構の構成と架構-外的な構成が矛盾なく統合された状態を目指している*3つまり、compositionとconstructionをできるだけ一致させようとする。そしておそらく、本来は一致し得ないこの両者を重ね合わせようと試みるさいに、「構成」という言葉が改めて用いられるのだと思われる。

 「構成」という言葉のもつ意味の曖昧さは、だから、少なくとも僕にとってはけっこう大切な曖昧さだ。そこには重要な矛盾、混同、無謀が含まれている。

 

*1:レイナー・バンハム: 第一機械時代の理論とデザイン, 石原達二 / 増成隆士訳, 鹿島出版会, pp.18-20, 1976

*2:Ibid., p.24

*3:建築家はたとえば、柱や壁の形状や配置によって動線や滞在の仕方がうまく機能しているというようなことを強調しがちだ。なぜ架構によって機能が統御される必要があるのか、という問題は、一度よく考えてみる必要がある。

DEC.29,2020_乳児の移動、モノの遮蔽

 ユリイカの戸田ツトム追悼号がとても充実している。いろいろ書きたいことはあるのだけど、まずは佐々木正人の乳児の移動についての考察が非常に示唆的だった(戸田さんの仕事に直接言及されている部分ではないけれど、そちらはまた明日)。佐々木さんの乳児についての分析がかなりすごいということはどこかで聞いていたのだけど、まさかこんなところで出会えるとは。建築の経験にまつわる大切な部分がすべてつまっている。

家の中の乳児発達を、養育者が三歳まで記録したビデオで長く見たことがある。しばらくして何かが少しわかった気がした。おそらく「家」のことだった。(……)部屋には壁やドアがあり大型家具も置かれている。それらは周囲を半ば隠している。このローカルな遮蔽のレイアウトが、部屋のすべてのところをユニークにしている。家のどこにいても見えるのは部屋の一部で、家の大部分は隠されていて見えない。はじまりの景色はこの囲み(エンクロージャー)である。 いまどこにいるのかは、いま見ている景色が示している。動くと景色が流れ、それが移動方向と速度を示している。ローカルな景色の変化から、部屋の内部と自分の動きの軌跡を同時に知る。移動して隣部屋に向かうと、壁やドアが隣部屋を隠すところまでくる。移動はそこで部屋の遮蔽を越える。

佐々木正人: 本の自然幾何学, ユリイカ 1月臨時増刊号 総特集 戸田ツトム,青土社, pp.96-97, 2020

生後3ヶ月くらいで首が座った乳児は5ヶ月くらいで寝返りをうち、畳と布団の数センチの段差がハイハイのきっかけをもたらしたあとは生後1年ほどで歩行を開始して、そこから3ヶ月もすると部屋間の移動が日常的になる。一歳を過ぎた乳児の一日の歩行は約4キロにのぼり、100回は転倒しているという。

部屋と部屋の間には継ぎ目がある。隣の部屋に行く時にはそこを越える。戻る時には、同じ継ぎ目を反対から越える。この行き来を何度も繰り返す。部屋の継ぎ目で隣部屋の眺めが開ける。近づくと眺めは広がり隣部屋の囲いのすべてが見えてきて、いままでいた部屋から出て、隣部屋に入ったことを知る。 移動にともなう眺めの変化には順序がある。移動経路が同じならば変化の順序は同じである。逆方向から移動すると変化の順序は逆になる。移動で起こる視覚の変化は可逆的である。 移動して、部屋の囲みを埋めている場所の順序の不変を知る。家中の移動を繰り返すことで、家にある不変な順序を知る。家のどこもユニークな場所であり、その順序は変わらない。そのことを移動で経験し尽す。それを毎日繰り返す。やがて家のすべてが「一つの場所」になり、床の上に家という囲みの「全体」が広がる。家の知覚は遮蔽の知覚である。

Ibid., p.98

生体心理学では、床から離して持てる事物を遊離物(detached object)、地面と一体化してる事物を付着物(attached object)という。私たち自身も自発的に動く物=遊離物だ。(この論考で佐々木は遊離物をモノと記す)

記録した乳児は三ヶ月齢にはモノに手を伸ばしはじめた。歩きはじめた日(11ヶ月齢4日)から86日間分、108回の歩行を調べてみたら、座位から歩き出した57回中の42回、立位から歩いた51回中の25回で、モノを手に持っていた。六割の歩行でモノを持っていたことになる。つまり、歩行は最初からモノの運搬だった。(……)平均すると一日八個のモノを運んでいた。このペースなら記録した26ヶ月(約790日)で約6300個のモノを持って歩いたことになる。撮影は一日一時間だけだった。一日の活動を仮に五時間とすると、この間に五倍の三万個くらいのモノを運んだことになる。

Ibid., p.100

乳児の活動において、 移動するということとモノを運ぶということは、ほとんどイコールで結ばれる。移動するということは、手にモノを持ってその配置を変えることだ。壁、ドア、棚、家具などによる囲みの個別具体性が場所にキャラクターを与えている。それに基づいてモノを散らばり、新たな遮蔽を眺めに与える。毎日、モノの配置を変え、子どもたちは日々更新されたモノの配置に囲まれている。

モノは自然に散らばる。モノの散らばりを制御し、モノの散逸に備えることは、動物のライフの重要な仕事である。 家には二つのことがある。一つは家の全体をつくる部屋の囲みの系列で、それは大きな遮蔽のつながりである。第二は散らばるモノ。散らばっているモノも何かを隠し、何かに隠されている。モノは家中の小さな遮蔽の配置を作っている。 いつでもモノを持って、部屋の遮蔽を超えて、モノの遮蔽を更新している。二つの遮蔽が習慣を与えている。この遮蔽幾何学が家の意識をもたらしている。

Ibid., p.102

 

DEC.27,2020_2020年、納まる(たぶん)

 昨日、国立でのトークイベントがあり、今日は展示物の撤収をして、いよいよ年内の仕事は納まった!(かな?本当に…?)という感じ。明日はひさびさに穏やかなのんびりとした日を過ごせると思う。といってもやることもとくにないので、洗濯したり、流し読みして積んでた本を読んだり、引っ越しの際に出てきた買ったことも忘れていた本に目を通したり(得した気分)、寝る前とかに途中まで見てた映画を見たり(すべてが中途半端すぎるぞ私の生活)、散歩したり、バラエティ番組を見たりすると思う。

 数日前、もう連絡がとれないだろうなと思っていた人から偶然が重なってふと連絡(のようなもの)をもらったり(奇跡的だなと思った)、様々なイベントを通して素敵な人々と出会えたりと、今年の後半は不思議な出会いや出会い直しが多かった気がする。土曜日のトークイベントもまさにそうした出会いが多くあった貴重な機会だった。観覧いただいた方々がかなり豪華で、ディスカッションがとても充実したものになったのだった。

 今回、共同した奥泉さんのこれまでの制作についてのプレゼンを聞くことができたのだけど(ほぼ初めてに近い)、その一貫性に感銘を受ける。すべての活動に一本筋が通ってる感じ。谷繁くんもいっていたけれど、通奏低音のように繰り返される「信頼できるもの」(「本当のこと」といってもいいのかもしれないと思った)という言葉が印象的だった。制作をめぐる個別のテーマの状況における「信頼できるもの」の捜索は、ふだん信頼していると思っているけど実はぜんぜん信頼できないよな、という諸問題を浮かび上がらせる。あるいは、フィクションとリアルの二分法はよりメタなフィクションの現れにより揺らぎ(リアル / フィクション→(リアル / フィクション) / メタフィクション、というふうに、より上位の構造に既存の二分法が包含されてしまう)、それまで嘘だったものがどこか現実味を帯びてしまう、ということもある。「ということにしよう」は可変だ。また、自分の身体や経験を通した「信頼できるもの」もあるし、より普遍的な類的人類にとっての「信頼できるもの」もあるだろう(たとえば「二本足で歩く」こと)。私にとっての「本当のこと」(私が経験した事実)と、世界にとっての「本当のこと」(経験の外側にある事実性)があるように。彼女の仕事では、一貫して両者がピタリと重なり識別不可能になる境位が探られているように思える。だからこそ、時間と空間は決して引き剥がして考えることができず、移動しつつ生起する時-空間という重要な問題が立ち上がってくる。

 僕は『私室についてのレクチャー』というテキストが淡々と流れる映像作品の内容をベースに発表をおこなった。この作品は、そもそも建物における「私性」とはなんのか、 いつ生じてどのように形式化されてきたのか、ということを歴史を追って30のパラグラフにまとめたもので、パンデミック下で送られる生(活)を少し俯瞰した視点から眺めることを企図したものだ(このような状況下でものを作ったり考えたりしていくための足場になれば、と)。今回はこのレクチャーの内容を振り返り、あらためて「私性」についての考えをまとめ、発表した。仮留めの結論ではあるが、歴史的に細分化・梱包されてきた私的空間の最後の領土は事物の布置とその可動性であり、事物らによって振り付けられる(ある順序をもった)動きである、ということを話した。これはもちろん、ぼく個人の考えというよりは、共同者たちとの対話のなかで少しずつ輪郭を結んできた見解だ。こういう角度で私的なものを考察できるようなったということ自体が、今回の作品制作でのかなり大きな収穫だとぼくは思っている。関連するかもしれないプロジェクトとして、倉賀野の別棟を紹介した。改めて考えてみるとこの建築物は(制作中はぜんぜん意識してなかったけど)、《私室の外観》とは根っこに同じようなモチベーションがありつつもまったく逆方向のベクトルを向いた鏡像的な取り組みなのかも、と思った。つまり、「モノの布置と行動が外観をつくる」ことの裏返しで、「(文字通りの)外観がモノの布置と行動を振り付ける」ということだ。『倉賀野駅前の別棟』では外観の操作を通した私的な身体と公的な身体の意図せぬ出会いや混合みたいなことを考えていた。ディスカッションでもあったけれど、これはのっぴきならない倫理性を帯びた「地面」(平面)に対して、外観(立面)にある一定の自由さみたいなものを見出したからだった。関連して、ある一定の距離で眺めたときにはハッキリとした強い印象をもつ外観だけれども、その強さは近づくほどにほぐれていく、ということも、このプロジェクトにとっては重要なポイントだと話した。

 あらためて、共同することは奥が深いなと思われた。マニアックなんだけれども他者に開示しうる、という思考が対話を通して練り上げられる気がする。複数人との個別の共同制作の継続を(ある年上の建築家には無謀だといわれたけれど)、自分はこれからも粘り強く続けていきたいと今回再認した。

 たぶん2020年は納まったはずなので、少しのんびりして、2021年に備えようと思う。1月からはぐっと集中して、論文一本に取り組んでいくつもり。気合入れてこう。そのために今は気合を入れてのんびりしよう。ひとまず今から、今日まで限定公開のダムタイプ新作公演を見て、寝る。毎回こういうときに、自宅にプロジェクターがあればいいのに、と思うのだけど。

NOV.24,2020_スケールの零度

 もともとnoteで公開していた記事だけど、こちらに移行します(運営会社のごたごたが嫌になって、徐々にnoteから撤退中なのです、、)。去年建築雑誌に寄稿した、スケールに関するとても短い文章です。

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 建築はスケールの扱いが帰趨を決する芸術であるが、これは文脈に応じて異なる意味で用いられることの多い用語でもある。スケールは一般的にモノの寸法または縮尺といった定義で使用されるが、たとえば「ヒューマンスケール」という考え方にしろ、建築家がこの用語を用いる場合にはしばしば上記の定義よりも広範な意味が含まれる。

 端的に、スケールという概念の零地点は「参照性」である、とここでは提案してみたい。たとえば目の前に寸法がわからない箱があるとしよう。その箱の“プロポーション”は箱の短辺と長辺の比によって求めることができるが、箱の“スケール”が知りたい場合はその箱以外の、しかもすでにその寸法を知っている別の要素を用いた比較が必要となる(メジャーを持ちあわせていなければ、あなたは自分の手を用いて箱の大きさを知るだろうし、となりにあるコップを用いた比較分析をおこなってもいい)。ひとつの閉じた体系の内で判断が完遂するプロポーションとは対照的に、対象のスケールを評価するときには、つねに対象以外の要素を参照する必要がある。

 「参照性」を零度として、建築におけるスケールはおおまかに三つの体制に分化する(Fig. 1)。まず第一に人間の身体である。スケールの知覚や決定においては、自分自身をはじめとした個別具体的な身体だけではなく、動作や生理にもとづく人体寸法などの抽象化・モデル化された身体も参照される(i. ヒューマンスケール)。つづいて慣習や制度といった要素も見過ごせない。たとえば「ドアらしきもの」を知覚したとき、私たちはそれがだいたい2m弱だろうという判断も下している。特定の意味とスケールが照応関係にあるとき、そこには風土的・文化的条件のなかで制度化された「約束事」が存在している(ii . 制度化されたスケール)。最後に、ただ単に「近い」あるいは「隣り合っている」ということを考えてみよう。上述した「コップ」のように、それがどれだけ取るに足らないものであったとしても、近接する対象はスケールを判断する際の決定的な要素になりうる(iii. 近接性にもとづくスケール)

 

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△ Fig.1 「参照性」を零度とする建築のスケール

 

 これらが単独で機能することはなく、建築経験においてはつねに複数の参照先(=スケールバー)が輻輳し、それらがある一定の仕方で分配される力学が発生することになる。「おおきさ」というごく単純な感覚の背後には通訳不可能な複数のスケールバーがうごめいており、それらが我先にと主導権を争っているのだ。私はひとりの設計者として、かかるスケールを枠付けている複数の参照先を特定・相対化したうえで、それらの対応関係を吟味し、ある緊張感のなかで併置させていくこと──あたらしい「おおきさ」を発明すること──を目指している。

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初出: 建築雑誌 第134集 第1729号

NOV.23,2020_アフタートーク

 多木浩二の写真について語るトークイベントが無事に終わった。収録は2-3時間の予定がまさかの5時間超えで、生放送での継続視聴はかなりしんどさがあったと思うのだけど、前編後編に分割された動画が現在公開されているので、よろしければこちらを見ていただけたら。

トークライブ「多木浩二と建築写真──三人寄れば文殊の知恵」

鼎談した塩崎さんの研究ノートでは当日話題になった重要なトピックがしっかりと振り返られている。必見です。

ひとりの哲学者が撮った建築写真を5時間ながめてみて - 研究ノート

今回のトークは、きっちりと時間を決めてある緊張感のなかで議論するというよりは、時間を気にせず悩めるだけ悩もうという雰囲気で進められた(と思う)。実空間での、観客を目の前にしたいわゆるトークイベント的なかたちだったらば、たぶん目も当てられないくらいにガチガチに緊張してしまっていたと思うのだけど、そういう雰囲気の会では全然なかったので割合リラックスして参加することができたと思う。あるひとつのトピックのまわりをグルグルと旋回するような粘り強さ、しつこさみたいなものには(ある意味でそれは冗長さともいえるのかもしれないけれども)、個人による自宅配信というフォーマットならではの空気感があるのではないか。誰かに見せるための配信というよりも、私的な空間であれこれ話している姿がたまたまWebで公開されているという感じ。ちなみにあらためて見直すと、長島さんのぼくの紹介が、定期的に自分で撮影した写真をアップし続けている謎のブロガーという感じで、すごく笑ってしまった。今後も何かイベントがある際は謎のブロガーとして登場しようかなと思った。

 

 トークの前後で考えたこと、気づいたこと、心に残ったことを、ここに残しておこうと思う(だらだら更新していたら、一週間以上経ってしまった、、)。言語化できないことのほうが多いけれども、ひとまずの記録として。

 

 多木さんのテキストを読み返していて最も印象に残ったのは、1970年の「眼と眼ならざるもの」という論考だった。非常に重要なテキストだと、改めて思った。この論考では、写真(行為)は「私」と「環境」のあいだにあるんだ、そこにとどまり続けるんだということが繰り返し強調されている。たとえば、

どんな写真家も自分のとった写真の上に、自分の痕跡と自分ではないものの痕跡を見出すのであり、自己と他者のふしぎなつながりと断絶という構造が、実は、自らと自らをとりまく環境あるいは世界の関係のあらわれにほかならぬことを見出すときに、写真は単に「見られた」ものの表層の意味によって成り立つのではなく「見る」こと自体が、たんに写真を成立させる現実の契機という以上の意味作用をもってくるのに気づくのである。漠然と「表現」とよびならわしているものの構造である。

多木浩二「眼と眼ならざるもの」,  『写真論集成』, 岩波現代文庫, p.15, 2003(初出: 1970年)

写真は私が見た風景をあるがままに記録したものではなく、つねに「見る」こと自体の能動性が刻印されている。機械と人間の混成、両者のハイブリッドから生まれてくるものが写真であり、だからこそ自分の撮った写真は「自分のまなざしではないが、自分のまなざしと似ていなくもない」という奇妙な二重性のなかで成立する*1。エルンスト・マッハの挿絵は、多木さんのこうした認識をわかりやすく示すダイアグラムになると思われる。ここでは、私が見ている部屋のイメージのなかに、私自身の身体や口ひげ、鼻といったものが書き込まれている。環境に私がレイアウトされているという状況のなかで、環境の一部と私の一部が互いに素材として組み込まれ、ひとつのイメージとして構成される。一枚の写真は、いくらドライに現実を写し取っているように見えても、撮影した人間の主体性(中平卓馬ならば「遠近法」というだろう)と、撮影した人間を取り巻きながらその行動を規定する環境を、どうしようもなくそのつど仮構してしまう。

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△ Ernst Mach: Self Portrait (public domain) / source

「眼と眼ならざるもの」の最後に登場する印象的なエピソードを紹介しよう*2

たとえば風景をとろうとするとき、私は夕暮、車をはしらせたままシャッターを切る。車をとめ、カメラを構えたとき、私の身体からは、走っていたときに生じていた感覚が消えているのに気がつく。私はもうシャッターを切る気がしないで再び車に戻る。走りさる車のなかで私が感じていたことは、ものがとまっていないこと、それがたちまち、自分の視界から消えさっていくことであった。私は動いている視覚だけを問題にする場にいたのである。動いている私の眼が、世界を組織しうるのだが、とまったとき、私の見た世界が組織しようもなくとおのいてじっと身をかくしているような気がしてくる。動いているときには、世界に組みこまれていた。組みこまれると同時に世界をとりこみえた。つまり、私は行動する身体を見出していたのであり、(眼でなくて)この身体が、世界を組織していたのである。

Ibid., pp.49-50

車に乗っていて、窓から見える風景を撮影したいと思った。でも、車から降りてカメラを構えると、その風景はもうすでに存在していなかった。そのとき見た風景は、車に乗りながら高速で動いている身体なしには成立しないものだった。イメージは、動いている私の身体と環境との「あいだ」に存在していた。それは単に私が見た風景でもないし、風景そのものでもなかった。「私」と「環境」とのあいだに挟み込まれているのは、自動車という機械だ。これは、カメラの比喩だとぼくは思う。私、機械(自動車=カメラ)、環境。どれひとつ欠いても、多木さんがここで撮影を欲した風景は存在しえない。むしろこの三者の配分、構成の仕方こそが、写真可能なものの条件となる*3

 撮影者の存在を透明にすればするほど(つまりカメラという装置の自動性を強調すればするほど)、写されたイメージは記録へと近づき、カメラは即物的に世界をうつしとる装置に近づくわけだけれど、それはあくまでフィクションだ*4。「プロヴォーク」において、多木、中平、岡田、高梨、森山、吉増らが明確な運動意識をもって一致団結していた、とはまったく考えにくいわけだけれど、少なくとも多木と中平が共有していた問題意識は、とりわけグラフ・ジャーナリズムにおいて、写真から撮影主体が意識的に疎外されていることの危険性だったと思われる。予定調和的に、ある物語を作り上げるために、「あるがまま」の証したてとして、写真が用いられることへの疑義・批判。そこにあったのは「意味にべったりとへばりつき、意味から出発し、意味に還る既成の言葉のイラストレイションとしての写真を否定する衝動*5 だった。高温現像や月光の印画紙にバキバキに焼きつけることによる「アレ・ブレ・ボケ」は、こうしたある特別な政治的意味合いを含意した「風景」を形式的に破壊する目的で生まれたものである。私=撮影主体の肉体をデフォルメしつつ、意識的に写真に刻印すること。そのためには写真の表面に傷をつけないといけなかった*6

 多木さんが篠原一男の建築に惹かれたのは、同様の問題意識を篠原さんの実践のなかに見出していたからではないか、とぼくは睨んでいる。実際、多木さんと篠原さんの実践はかなり根底的な部分での響き合いがあったのだと思う(こうした建築と写真の出会いは歴史的に見てもかなり稀なことだ)。たとえば上記の「私-機械(自動車=カメラ)-環境」という図式のうち、機械の部分をそのまま建築に置き換えてみればいい。このときの機械=建築は、非人称化された人間のための機械ではない。むしろ、個別具体的なひとりの人間から情念や衝動を湧き上がらせる、そうした機械である。このときに建築化されるのは、「象徴とか装飾とか機能という形相ではなく、物に還元された人間と、全体性との形式とが「激突」しながら生み出す空間であろう*7

 

 シャッターを押し、現像して、様々な仕方でプリントを試行し、慎重に選定して、トリミングやレイアウトを検討するところまでが、多木さんにとっての「撮影」だったのではないか、ということをトークのなかで言及した。このとき、イメージの定着が先送りにされること、それ自体が重要な意味をもったはずだ。というのも、分厚く引き延ばされた撮影行為には、言葉がはさみ込まれる余地が残されているからだ。言葉と写真が相互に依存しながらほとんど同時に生起する(例えば「暗室のなかでのひとりごと」のようなものとして)ような一連のプロセスを、自らの身体を素材にして経験することが、建築の写真を多木さん自らが撮ることの大きな意味だったのではないかとぼくは想像する。

 多木さんはとにかく大量にシャッターを切る人だったそうだから、「選定」はことさら重要な役割を担っていたと思われる。写真との出会いと実践の場が岩波写真文庫であった(つまりは写真集の編纂であり、名取のもとで多木さんがおこなっていた作業は、大量の写真から数十枚を選び、レイアウトし、そこにキャプションを付けていくという作業だったと思われる)こととも無関係ではないかもしれない。

写真はかりに一枚だけ提示される場合でも、二重の意味で選択的な過程を潜在させている。ひとつはすでに述べたことであるが、写真は操作すべき機構が可能な限り単純化しているから、いまや殆ど眼で見たものがそのまま像化されるというかつて夢みられたことに近い状態が生まれ、その結果、主体の動き(顔の向きを変えるだけでもよい)につれて変化するおびただしい知覚された光景はすべて写真になる可能性をもっている。したがって偶然選択されたひとつの視覚は、かりに何らかの理由で選ばれたにせよ、無限の可能性と組になって存在しているわけである。もうひとつはそれとよく似ているが、たいていの場合、使われる一枚は実際に撮られた多くのものから選択されたものである。この場合も一枚は多くの他のものを潜在させている。したがっていずれもの場合も、選択とは、そこにはない別のコードと関係しあうことであり、写真とはつねのざわめく潜在的なものを感じさせるのである。
多木浩二「視線のアルケオロジー」, 『写真論集成』, 岩波現代文庫, p.104, 2003(初出: 1985)

写真を選ぶこと、たった数枚の写真に建築を表象=代表させるという態度は、選ばれなかった無数の写真を蔑ろにするということでは決してない。数枚の写真の潜在性に賭けているのだ。断片こそが、大量の写真を陳列する以上に、受け手の想像力を刺激しうる、と。選ばれなかった無数のイメージを喚起させること、それ自体が、選ばれた一枚の写真に課せられた役割なのだ。

 今回のトークで、『建築家・篠原一男 幾何学的想像力』という2007年に出版された書籍のために多木さん自身が選定した14枚の写真を注意深く見ていくなかで発見だったのは、組写真的な選定の傾向があるんじゃないか、ということだった。典型的なのは谷川さんの住宅の2枚の写真かなと思う*8

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△谷川さんの住宅(『建築家・篠原一男 幾何学的想像力』pp.36-37 / pp.140-141)

内観の黒々とした斜面と内壁、外観の真っ白な雪原と外壁の位置がピタリと一致しているのがわかる(恥ずかしながら、これまで全然気づいていなかった)。高いコントラストでプリントされていることで、この対照性はますます強調されている。しばらく2枚の写真を眺めていると、内部にあらわれてくるプリミティヴな架構と、外観写真でポツポツと点在している木々が重なって見えてきて、あたかも内観写真は外観写真のように、外観写真は内観写真のように思えてくる*9

 もうひとつの傾向かなと思ったのは、動きとともに生起する空間を表象したような動的なイメージと、人間の動きや情緒にゆらぐことのない建築性を写し取ったような静的なイメージがセットで選ばれていること。さきほど、私-機械(カメラ)-環境の配分、構成の仕方こそが写真可能なものの条件となると書いたけれど、ここではまさにこの配分の差異こそが篠原一男の空間を捉えている。多木さんの写真は、極端に自らの身体を素材として組み込んだような場合もあればそうでない写真もあったりして、撮影において配分される身体性の割合をシャッターを押す度にアレコレ試しているような印象すらぼくは受ける。これらの写真をして、「これは篠原さんの作品のなかで、いかに写真が撮り難かったかを示す断片である*10と多木さんは語るわけだけれど、それは、このふたつの写真に引き裂かれたような空間のあり方が、実際には“同時”に起こっているからではないかと思う。むしろ、できるだけ矛盾や葛藤が湧き上がるような写真の組み合わせが意図的になされている、ともいえる。この落差こそが、未完の家の亀裂や上原通りの住宅の架構がもたらすショックを提示している。

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△未完の家(『建築家・篠原一男 幾何学的想像力』p.139 / p150)

 

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△上原通りの住宅(『建築家・篠原一男 幾何学的想像力』pp.144-145 / pp.146-147)

 もっとも興味深いのは下の2枚の写真だ。『建築家・篠原一男 幾何学的想像力』には「いくら撮っても一枚くらいしかまあまあというものしかなかった」ものとして7枚の写真が選定されていて、これらはそのうちの2枚。左の写真は、なぜこの写真が特別に選ばれたのかわからないくらい、緊張感のない写真である。悪いということではなく、むしろぼく個人としてはめちゃくちゃ好きな写真ではあるのだけど、他の写真と比べるとかなり異例だなという感じがする。対して右の写真は非常に有名な外観写真だけれども、たいへんに非日常的な光景。

 塩崎さんと長島さんによれば、左の写真は、この本を作るにあたって、横位置の写真から縦位置の写真へとトリミングされた可能性が高いものだという。2007年という段階で多木さんがそのような大胆なトリミングをしていたとするならば、それは個人的にはかなり衝撃というか、重要な事実のように思える(晩年の多木さんの写真に対する判断が、この写真の選定とトリミングを通して例外的に挟み込まれているいる、といえなくもない)。それを事実だと仮定すると、コンクリートの斜材が手前にグンと飛びてくる部分がトリミングされていることになる。架構が強調される部分が丸ごとキャンセルされている。この建築を特徴づけるような部分が切り取られている。キッチンで料理をしていて振り返ってパシャっと撮ったような、何を撮っているかわからない、ぼやけた、虚ろな写真。トークが終わってから、この写真がとても気になって、何度も反芻していた。

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△上原通りの住宅(『建築家・篠原一男 幾何学的想像力』p.44 / pp.38-39)

 ベンヤミンの「複製技術時代の芸術」では、その最後の最後で、気が散った状態での知覚をともなった芸術形式の典型的な例として、建築が引き合いに出される。日々の反復的な実践によって習慣が身体に定着したころあいの、かならずしも意識されているわけではない態度での知覚が、とても建築的なことなんだ、と。これは「気散じ」と呼ばれている。

  もともと、時間をかけて理解できるもの、それと気がつかないようなかたちで経験しながらふと理解してしまっているようなもの、そうしたものが重要なのだとは感じていました。それが私のなかにあったものだから、ベンヤミンが同じことを書いているのをはじめて読んだときはとても興奮しました。
 しかし、このような感覚を建築家たちは非常に嫌います。建築家というのは不思議なもので、そんな気散じをしながらのんびりと見られたくないのです。やはり作品として見つめられたいわけです。ところが建築が歴史のなかで果たした役割というのは、人間がそれを見つめることによって起こったのではないのです。そのことをベンヤミンは非常によく知っていたと思います。建築の経験を重ねていくということは、くつろいだ、気散じの経験の蓄積を言うのです。
 たとえば私たちは観光地に行き、名のある建築を眺める、ということをします。でもこれではダメなのです。その建物にしょっちゅう通っている、ということとはまったく違う経験だからです。ベンヤミンは、建築が人間の知覚を根本的に変えていく歴史的な能力は、おなじ空間を頻繁に訪れ、眺め、くつろいだ気分で経験するときにおいて初めて発揮される、と言っているのです。
多木浩二: 映像の歴史哲学, 今福龍太編, みすず書房, p.47, 2013

上原通りの住宅の、左側の虚ろな写真を見て、まさにこの気散じについて、ぼくは思い出さずにはいられなかった。良い意味でも悪い意味でも、建築空間は人間の生を「毎日」という枠組みの中に編成する道具となりうる。その枠のなかでは、人間の活動・行為が、本能的に、意識下の、無意識の、無反省のメカニズムへと変化する。ようは、我々は環境に慣れるという根本的な特徴をもっている。この写真はまさに、慣れきった、くつろぎきった身体をその背後に浮かび上がらせるような写真だと、ぼくには感じられる。と同時にこの写真は、右側の非日常的な、建築の不気味さや汲み尽くせなさを捉えたような写真と共にあるということが重要なんだとも思える。

 『生きられた家』を書いた人が、なぜ非日常的な写真を撮るのか、その意図はなんなのかと、ある時期まではずっと不思議に思っていた。でもそれは、矛盾することではなかった。「環境とわれわれの生との関連が正確な構造で把握されればされるほどある意味で環境との相対的な特質から生の自発性、表層から深層にわたった豊かさの束縛が生じていることが意識され、その結果、生はたえずこの関係を破壊しようとする衝動をもつ*11 ならば、その破壊的な性格を習慣化した身体に喚起することは、建築に課せられたひとつの重要な役割とさえいえるだろう。「くつろいだ、気散じの経験の蓄積」はいうまでもなく非常に重要なことなんだけれども、それと同じくらいに、日常性を破壊しようとする衝動も、とても人間的なことだと思う。多木さんの思想は、どちらか一方に傾くのではなく、この両極が常に意識されているように思う。だからこそ、多木さんが篠原一男の建築に見ていたひとつの希望は、日常への「反省性」を喚起する構造を建築に組み込むことの可能性だったのではないかと感じられる。篠原の建築においてそれは、幾何学を介して発揮される。それは単なる図面に投影された初等幾何学的な図形というものを超え、「それを縫って繊細な精神が生起し、伸縮し、人びとを夢想にいざなう*12 。うまく言葉にできているかはわからないけれど、この2枚の写真を眺めていると、気散じ的に日々反復されていく住宅の経験と、日常を突き刺す穴(まさに建築におけるプンクトゥム的なもの)としての一瞬の経験の、その往還の意味を突きつけられる。

 それは、そこからまた新たな生(活)がはじまる、というきっかけを、確定的に記述できない未知の領域に、いまだ歴史化されない領域に、あらかじめ潜在させておくという無謀だ。そこでの建築家の賭けと勇気は、写真家が大量のコンタクトシートからたった数枚の写真を選ぶ態度と、よく似ているとぼくは思う。

 

*1:このあたりの認識は、中平卓馬の同時期の認識とほとんどぴったりと一致する。多木と中平が共有していた問題意識を端的に表している箇所だと思われる。

世界と私は、一方的な私の視線によって繋がっているのではない。事物、物の視線によって私もまた存在しているのだ。(……)いかにも私は世界を見る、だが同時に世界は、事物は私に向ってまた物の視線を投げ返してくるのだ。そこには私の視線を拒絶する世界、事物の固い〈防水性の外皮〉がただあるばかりである。(……)写真を撮るということ、それは事物の思考、事物の視線を組織化することである。(……)おそらく写真による表現とはこのようにして事物の思考と私の思考との共同作業によって初めて構成されるものであるに違いないのだ。

中平卓馬「なぜ、植物図鑑か」, 『なぜ、植物図鑑か 中平卓馬映像論集』, 筑摩書房, p.p.19-20., 2007(初出: 1973年) 。

*2:ほんとうはトークの最後でこの一節を引用しようと思っていたのだけど、多木さんの写真についてのトークを多木さん自身のテキストで締めるのはなんだか自作自演的かなと思い、紹介できなかった

*3:この配分のもっとも極端な例はヴォルフガング・シュテーレ(Wolfgang Staehle)のネットワークカメラを用いた作品かもしれない。シュテーレの作品においては、「どのように撮影するか」という組織化の段階で徹底して撮影する主体として人間を排除したことが、9.11の現場を「たまたま」記録することを誘因している。

*4:翻って、「記録」としての撮影行為の勘所は、撮影者の存在をできる限り透明にする技術ということになるだろう。上述したシュテーレのような手段(撮影装置の監視カメラ化)を用いないならば、つまり人間がシャッターを押すということに固執するならば、残された道は撮影行為自体を徹底して形式化すること、となる。換言すればそれは、撮影者と鑑賞者のあいだで一定の「約束事」(convention)を共有するということであり、それを可能にする共同体の枠組みを設計するということである。建築写真はその範例である。建築写真を享受するぼくらが、異なる撮影者による写真同士を同じ土俵に乗せて素朴に比較できているのは、高度な技術蓄積に基づいた撮影行為の形式化による。そうした技術が建築文化にとって重要であることはいうまでもないが、とはいえ、「そうではない可能性」もありうるんだということが、今回のトークで、多木さんや作本さんの写真を通して議論されたところだと思われる。そこでは、たとえば、実践を通して定着されてきた建築写真の形式が「撮影を不得意とする」類の建築空間になんらかの特徴があるのか、とか、その結果これまで写真として記録されてこなかった建築空間に一定の傾向があったりするのか、とか、男性写真家が主体となって形式化が進められてきた建築写真において措定される「まなざし」にジェンダー的な非対称性がないのか、といったような問題が改めて浮上してくると思われる。

*5:中平卓馬「記憶という幻影」,『 なぜ、植物図鑑か 中平卓馬映像論集』, 筑摩書房, p.p.19-20., 2007(初出: 1973年)

*6:しかし、アクチュアルな状況への批判であればあるほど、そのときの「否定の身振り」はスタイルとして消費され、瞬時に陳腐化してしまうあやうさを宿していた。たとえば1970年から国鉄と電通が仕掛けはじめた「ディスカバー・ジャパン」という観光キャンペーンでは、ポスターにアレ・ブレ・ボケの写真が用いられた。

https://www.sankei.com/life/photos/140918/lif1409180013-p2.html

「美しい日本と私」「かくれた日本の発見」といった謳い文句で都心の若者向けに地方への旅行を推進したこのキャンペーンは見事に成功するわけだけれど、背景にあったのは地方と都心のあいだの明確な格差だった。格差があったからこそ、「昔ながらの日本」への回帰を都心の若者に欲望させることに成功したわけだ。他方でこのキャンペーンは、地方への資本の流入をいわば「人質」に取ることで、地方が引き受けていた諸々の問題(当時東北で建設がはじまっていた核関連施設や産業廃棄物処理施設の問題、公害問題、在日米軍基地の問題等々)から若者の眼をそれとなくそらすことにも成功する。こうした中央による地方への欺瞞がもっとも熾烈なかたちで表出していたのは無論沖縄であり、東松照明の後を追うように、中平も集中的に沖縄を撮影することになる。同時期、中平らと同世代の一部の若手建築家は、「閉じる」ことでこうした地政学的な状況に反応しはじめる。

*7:多木浩二「異端の空間」,『建築家・篠原一男 幾何学的想像力』, p.71,  青土社, 2007(初出; 1968)

*8:なお、今日のブログでサムネイル的に示している2枚組の写真は『建築家・篠原一男 幾何学的想像力』のページの順番に対応しているわけではないので注意されたい。できるだけ準拠はしているけれど、あくまでもぼく個人がトークを通して気づいたことを示し、記録としてここに残しておくために勝手に併置しているだけなので、ぜひ本書を、テキストとともに参照していただきたい。

*9:谷川さんの住宅を撮った多木さんの写真は夏に撮られたものと冬に撮られたものがある。このふたつの写真も、どちらか一方を参照して他方が撮られた可能性が高いと思う。

*10:多木浩二『建築家・篠原一男 幾何学的想像力』, p.138,  青土社, 2007

*11:多木浩二「時間をうけいれる建築」, 『視線とテクスト 多木浩二遺稿集』, 青土社, p.43, 2013(初出: 1970)

*12:多木浩二「幾何学的想像力と繊細な精神」,『建築家・篠原一男 幾何学的想像力』, p.109,  青土社, 2007(初出: 1983)