DEC.29,2020_乳児の移動、モノの遮蔽

 ユリイカの戸田ツトム追悼号がとても充実している。いろいろ書きたいことはあるのだけど、まずは佐々木正人の乳児の移動についての考察が非常に示唆的だった(戸田さんの仕事に直接言及されている部分ではないけれど、そちらはまた明日)。佐々木さんの乳児についての分析がかなりすごいということはどこかで聞いていたのだけど、まさかこんなところで出会えるとは。建築の経験にまつわる大切な部分がすべてつまっている。

家の中の乳児発達を、養育者が三歳まで記録したビデオで長く見たことがある。しばらくして何かが少しわかった気がした。おそらく「家」のことだった。(……)部屋には壁やドアがあり大型家具も置かれている。それらは周囲を半ば隠している。このローカルな遮蔽のレイアウトが、部屋のすべてのところをユニークにしている。家のどこにいても見えるのは部屋の一部で、家の大部分は隠されていて見えない。はじまりの景色はこの囲み(エンクロージャー)である。 いまどこにいるのかは、いま見ている景色が示している。動くと景色が流れ、それが移動方向と速度を示している。ローカルな景色の変化から、部屋の内部と自分の動きの軌跡を同時に知る。移動して隣部屋に向かうと、壁やドアが隣部屋を隠すところまでくる。移動はそこで部屋の遮蔽を越える。

佐々木正人: 本の自然幾何学, ユリイカ 1月臨時増刊号 総特集 戸田ツトム,青土社, pp.96-97, 2020

生後3ヶ月くらいで首が座った乳児は5ヶ月くらいで寝返りをうち、畳と布団の数センチの段差がハイハイのきっかけをもたらしたあとは生後1年ほどで歩行を開始して、そこから3ヶ月もすると部屋間の移動が日常的になる。一歳を過ぎた乳児の一日の歩行は約4キロにのぼり、100回は転倒しているという。

部屋と部屋の間には継ぎ目がある。隣の部屋に行く時にはそこを越える。戻る時には、同じ継ぎ目を反対から越える。この行き来を何度も繰り返す。部屋の継ぎ目で隣部屋の眺めが開ける。近づくと眺めは広がり隣部屋の囲いのすべてが見えてきて、いままでいた部屋から出て、隣部屋に入ったことを知る。 移動にともなう眺めの変化には順序がある。移動経路が同じならば変化の順序は同じである。逆方向から移動すると変化の順序は逆になる。移動で起こる視覚の変化は可逆的である。 移動して、部屋の囲みを埋めている場所の順序の不変を知る。家中の移動を繰り返すことで、家にある不変な順序を知る。家のどこもユニークな場所であり、その順序は変わらない。そのことを移動で経験し尽す。それを毎日繰り返す。やがて家のすべてが「一つの場所」になり、床の上に家という囲みの「全体」が広がる。家の知覚は遮蔽の知覚である。

Ibid., p.98

生体心理学では、床から離して持てる事物を遊離物(detached object)、地面と一体化してる事物を付着物(attached object)という。私たち自身も自発的に動く物=遊離物だ。(この論考で佐々木は遊離物をモノと記す)

記録した乳児は三ヶ月齢にはモノに手を伸ばしはじめた。歩きはじめた日(11ヶ月齢4日)から86日間分、108回の歩行を調べてみたら、座位から歩き出した57回中の42回、立位から歩いた51回中の25回で、モノを手に持っていた。六割の歩行でモノを持っていたことになる。つまり、歩行は最初からモノの運搬だった。(……)平均すると一日八個のモノを運んでいた。このペースなら記録した26ヶ月(約790日)で約6300個のモノを持って歩いたことになる。撮影は一日一時間だけだった。一日の活動を仮に五時間とすると、この間に五倍の三万個くらいのモノを運んだことになる。

Ibid., p.100

乳児の活動において、 移動するということとモノを運ぶということは、ほとんどイコールで結ばれる。移動するということは、手にモノを持ってその配置を変えることだ。壁、ドア、棚、家具などによる囲みの個別具体性が場所にキャラクターを与えている。それに基づいてモノを散らばり、新たな遮蔽を眺めに与える。毎日、モノの配置を変え、子どもたちは日々更新されたモノの配置に囲まれている。

モノは自然に散らばる。モノの散らばりを制御し、モノの散逸に備えることは、動物のライフの重要な仕事である。 家には二つのことがある。一つは家の全体をつくる部屋の囲みの系列で、それは大きな遮蔽のつながりである。第二は散らばるモノ。散らばっているモノも何かを隠し、何かに隠されている。モノは家中の小さな遮蔽の配置を作っている。 いつでもモノを持って、部屋の遮蔽を超えて、モノの遮蔽を更新している。二つの遮蔽が習慣を与えている。この遮蔽幾何学が家の意識をもたらしている。

Ibid., p.102