DEC.1,2019_古代ギリシアのイメージ

 久しぶりにアレントの『人間の条件』を読み直しているのだけど、素晴らしすぎて感動してしまった。これほど聡明な人がかつて地球上にいたのだということは、なんというか、救いに近いものがある。こういうテキストをするりと原著で読める語学力がほしい(ドイツ語とかならともかく英語なのだから、本腰をいれて語学勉強しろという話なのだけど)

 以前『人間の条件』を読んだときはギリシアの都市構造はイメージとしてつかめなくって、うまく理解できないところがあった。自分は言葉とイメージが直結しているというか、イメージ化できないテキストはかなり読むのがつらいタイプで、単に僕の都市空間に対する知識不足なんだけど、そういう意味で読みづらい印象があった。たとえば詩を読んでいても、主語の座が示すある種の空間性(主体が置かれている環境、態勢、世界におけるレイアウトのされかたみたいなもの)を扱っているものは、たとえその空間がどれほどいびつに接続されるような複雑なテキストであったとしても、割とすんなりと読める。これはイケる、ってなる。時空間をぴょんぴょん飛び越えて不思議な接続をされていく空間の捻れみたいなものを、もちろんそれはユークリッド幾何的な空間ではなく、純粋に言語的な空間性なんだと思うけれど、楽しむことができる。他方、言葉自体がもってる物質性みたいなもの、手触りみたいなものを主として扱うような詩があると思うのだけど(詩はハードに受容してるわけじゃないので見当違いなことをいっているかもしれない)、そういうものはなかなか厳しい。語の連なりが示す発話者の世界での位置づけ、みたいなものがどう接続されていくか、というところに作者の狙いが見いだせないものは、単純に僕の興味に寄せられないということなだけ(あるいは技術不足)なんだけど、読めない。語のテクスチュアがもっと高い解像度で自分の頭で解凍できるようになればいいのかもしれない。

 ものすごく話がそれてしまったのだけど、何が言いたかったかというと、『人間の条件』を読む前に古代ギリシアの都市構造を脳内で再生できるようにしておこうと思っていろいろ動画を探していたら、アサシンクリード オデッセイのプレイ動画がめちゃくちゃよかったという話で、これがすごいんだ。

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 古代ギリシア建築が極彩色だったということは情報では知っていたけれど、そのなの間をぬって走るとこんな感じだったんだろうなと、楽しかった。もちろん建築史の専門家たちも協力してるだろうから、かなり正確に再現されているんだろう。アメリカのスーパーエリート建築学生とかは割とゲーム業界に行くって話も聞いたことあるしね。ヴァーチャルな空間の「設計」にリアリティを感じるというのは僕もそうだで、実際あこがれていた。今でもゲームとかアニメとかで背景となる建物や都市の設計はすごくやってみたい。ともかくアサクリすごい。ルネサンス期のフィレンツェもあるよね、たしか。ゲーム性自体が屋根の上を走ったり、都市建造物を熟知して遊ぶ、というものだし、ものすごく良い教材になるのではないか。「The Order: 1886」も、産業革命で絶頂期だったロンドンを実感するのに良い気がする。公害がしんじられないくらいヤバくて薄暗いロンドン。

 で、アサクリをインプットしてからアレントを読むと、ものすごくしっくりくるところがいろいろあったのだ、という。古代ギリシアのポリスでの生活がイメージできていたら、『人間の条件』はぐんと頭に入ってくる。むしろ、かなり読みやすい部類の本になる、と思う。岩明均が現在連載している(2年に1冊くらい新刊を出すっちゅうペースではあるのだが)漫画の「ヒストリエ」も合わせて呼んでおくと、より空間をイメージしやすいだろう。アレントを読むためだもんね、みたいな感じで、勉強と称してゲーム動画みたり漫画読むことは結構、ある。そんなことしてる暇がないくらい忙しい時期でも、ある。このとき感じる若干の負い目は、難しい内容の本を読むエネルギーになるからオススメですぞ。以下、僕にとってとくに重要だと思える部分の引用。

公的領域と私的領域、ポリスの領域と家族の領域、そして共通世界に係わる活動力と生命の維持に係わる活動力──これらそれぞれ二つのものの間の決定的な区別は、古代の政治思想がすべて自明の公理としていた区別である。ところで、この文脈で私たちにとって重要なのは、その後の事態の発展のために、このような区別を理解しようとしても、それが異常に困難だということである。私たちの理解では、この境界線はまったく曖昧になってしまっている。それは、私たちが、人間の集合体や政治的共同体というのは、結局のところ、巨大な民族大の家政によって日々の問題を解決するある種の家族にすぎないと考えているからである。*1

要するに、ポリスにはただ「平等者」だけしかいないのに、家族は厳格な不平等の中心であるという点で、両者は区別されていたのである。自由であるということは、生活の必要〔必然〕あるいは他人の命令に従属しないということに加えて、自分を命令する立場に置かないという、二つのことを意味した。それは支配もしなければ支配されもしないということであった。このように、家族の領域の内部では自由は存在しなかった(……)つまり、自由であることとは、支配に現れる不平等から自由であり、支配も被支配もしない領域を動くという意味であった。 しかしながら、政治の近代的理解と古代的理解の間の深い相違を、はっきり対立したものとして描くことができるのはここまでである。(……)社会が勃興し、「家族(オイキア)」あるいは経済行動が公的領域に侵入してくるとともに、家計と、かつては家族の私的領域に関連していたすべての問題が「集団的」関心となったからである。現代世界では、公的領域と私的領域のこの二つの領域は、実際、生命課程の止むことのない流れの波のように、絶えず互いの領域に中に流れ込んでいる。 家族の狭い領域を日々飛び越え、政治の領域の中に「よじ登る」ために、古代人たちが渡らなければならなかった深遠が消滅したというのは、本質的に近代の現象である。*2

薄暗い家族の内部から公的領域の光の中へ社会が現れてきたこと──家計、その活動力、その問題、その組織的仕組み等々の勃興──により、私的なものと公的なものとの古い境界線が曖昧になっただけではない。(……)私たちは今日、私的なものを親密さの領域と呼んでいる。その起源は、古典ギリシア時代にはまったく見いだすことはできない。けれども、ローマ後期にその起源を求めることはできるかもしれない。しかし、もちろん、その特別な多種多様さは近代になるまで知られていなかった。 これは単に重心が移動したという問題ではない。古代人の感情では、言葉それ自体に示されているように、私生活のprivativeな特徴、すなわち物事の欠如を示す特徴は、極めて重要であった。それは文字通り、なにものかを奪われている(deprived)状態を意味しており、ある場合には、人間の能力のうちで最も高く、最も人間的な能力さえ奪われている状態を意味した。私的生活だけを送る人間や、奴隷のように公的領域に入ることを許されていない人間、あるいは野蛮人のように公的領域を樹立しようとさえしない人間は、完全な人間ではなかった。*3

「公的(パブリック)」という用語は、密接に関連してはいるが完全に同じではないある二つの現象を意味している。 第一にそれは、公に現れるものはすべて、万人によって見られ、聞かれ、可能な限り最も広く公示されるということを意味する。私たちにとっては、現われ(アピアランス)がリアリティを形成する。この現われというのは、他人によっても私たちによっても、見られ、聞かれるなにものかである。見られ、聞かれるものから生まれるリアリティにくらべると、内奥の生活の最も大きな力、たとえば、魂の情熱、精神の思想、感覚の喜びのようなものでさえ、それらが、いわば公的な現われに適合するように一つの形に転形され、非私人化され、非個人化されない限りは、不確かで、影のような類いの存在にすぎない。このような転形のうちで最も一般的なものは、個人的経験を物語として語る際に起こる。(……)私たちは、ただ、私生活や親密さの中でしか経験できないようなある事柄について語ることがある。この種の事柄は、その内容がどれほど激しいものであろうと、語られるまでは、いかなるリアリティももたない。ところが、今それを口に出して語るたびに、私たちは、それをいわばリアリティを帯びる領域の中にもち出していることになる。いいかえると私たちが見るものを、やはり同じように見、私たちが聞くものを、やはり同じように聞く他人が存在するおかげで、私たちは世界と自身のリアリティを確信することができる。(……)私生活の親密さは、たしかに主観的な情動と私的感覚の規模全体を常に著しく強化し、豊かする。しかし、この強化は、必ず、世界と人びとのリアリティにたいする確信を犠牲にして起こるものである。(……)リアリティにたいする私たちの感覚は、完全に現われ(アピアランス)に依存しており、したがって、公的領域の存在に依存している。というのは、事物は隠された存在の暗闇の中からこうした公的領域の中に姿を現わすことができるからである。(……)第二に、「公的(パブリック)」という用語は、世界そのものを意味している。なぜなら、世界とは、私たちすべての者に共通するものであり、私たちが私的に所有している場所とは異なるからである。(……)ここでいう世界は、人間の工作物や人間の手が作った製作物に結びついており、さらに、この人工的な世界に共生している人びとの間で進行する事象に結びついている。世界の中に共生するというのは、本質的には、ちょうど、テーブルがその周りに座っている人びとの真ん中に位置しているように、事物の世界がそれを共有している人びとの真ん中にあるということを意味する。つまり、世界は、すべての介在者と同じように、人びとを結びつけると同時に人びとを分離させている。*4

キリスト教は、死すべき人間の手になる産物である工作物は、その作り手と同じように死すべきものであると確信している。(……)このような確信のために、かえって世界の物を享楽し、消費しようとしう態度が強まることがある。このような場合、世界とは、万人に共通するもののことであるということがまったく理解されていないのである。公的領域を存続させ、それに伴って、世界を、人びとが結集し、互いに結びつく物の共同体に転形するためには、永続性がぜひとも必要である。世界の中に公的空間を作ることができるとしても、それを一世代で樹立することはできないし、ただ生存だけを目的として、それを計画することもできない。公的空間は、死すべき人間の一生を超えなくてはならないのである。 現世は潜在的に不死であると確信し、現世の枠をこのように乗り越えない限り、厳密にいって、いかなる政治も、いかなる共通世界も、いかなる公的領域もありえない。*5

家族の領域の非欠如的特徴は、もともと、それが生と死の領域であるという点にあった。そして、この領域を公的領域から隠しておかなければならなかったのは、それが、人間の眼から隠され、人間の知識が浸透できない事物の隠れ家となっているからである。そしてそれらの事物が隠されるのは、人間は、自分が生まれたときどこから来たのか、そして死ぬときどこへ行くのか知らないからである。 都市にとって重要なのは、隠されたまま公的な重要性をもたないこの領域の内部ではなく、その外面の現われである。それは家と家との境界線を通して、都市の領域に現われる。法とは、もともとこの境界線のことであった。そしてそれは、古代においては、依然として実際に一つの空間、つまり、私的なるものと公的なるものとの間にある一種の無人地帯であって、その両方の領域を守り、保護し、同時に双方を互いに分け隔てていた。(……)都市国家の法とは、まったく文字通り壁のことであって、それなしには、単に家屋の集塊にすぎない町(asty)はありえたとしても、政治的共同体である都市はありえなかったであろう。この壁である法は神聖であったが、しかしただ囲い込みだけが政治的であった。囲い込みがなければ公的領域が存在できなかったように、財産を取り囲む垣がなければ一辺の財産もありえなかった。一方が政治生活を保護し、囲い込んだように、他方は家族の生物学的な生命課程を守り保護したのであった。*6

古典古代において労働と仕事の区別が無視されたのは、それほど驚くべきことではない。私的な家と公的な政治領域、奴隷である家内居住者と市民である家長、私生活の中の隠さるべき活動力と見聞きされ記憶されるに値する活動力──これらのものの区別が、その他の区別をすべて覆い隠し、前もって決定していたので、最終的にはただ一つの基準しか残されていなかったからである。その基準というのは次のようなものである。時間と労力がいっそう多く費やされているのは、私的領域においてか、公的領域においてか? その職業の動機となっているのは私的なものにたいする配慮(cura privati negotii)か、公務にたいする配慮(cura rei publicae)か?*7

自然にも、また自然がすべての生あるものを投げ込む循環運動にも、私たちが理解しているような生や死はない。人間の生と死は、単純な自然の出来事ではない。それは、ユニークで、他のものと取り替えることのできない、そして繰り返しのきかない実体である個人が、その中に現われ、そしてそこから去っていゆく世界に係わっている。世界は、絶えざる運動の中にあるのではない。むしろ、それが耐久性をもち、相対的な永続性をもっているからこそ、人間はそこに現われ、そこから消えることができるのである。いいかえれば、世界は、そこに個人が現われる以前に存在し、彼がそこを去ったのちにも生き残る。人間の生と死はこのような世界を前提としているのである。*8

〈工作人〉は、物を作り、文字通り「仕事をする」。いいかえると、わが肉体の労働と違って、わが手の仕事は、無限といっていいほど多種多様な物を製作する。このような物の総計全体が人間の工作物を成すのである。(……)消費財の場合には、どんなものでも結局最後には破壊されてしまうのにくらべると、使用対象物のこのような終末は、最終的運命を意味しない。長年の使用によって使い尽されるのは、耐久性なのである。 世界の物は、たしかに、人間が生産し、使用するものである。しかし、世界の物がその人間から相対的に独立しているのは、この耐久性のおかげである。しかも、世界の物は、それを作り使用する生きた人間の貪欲な欲求や欲望にたいし、少なくともしばらくの間は抵抗し、「対立し」、持ちこたえることができる。*9

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PENTAX 67, SMC TAKUMAR 6×7 105mm / F2.4, FUJI PRO400H

*1:ハンナ・アレント: 人間の条件(文庫版), 志水速雄訳, 筑摩書房, 1994, pp.49-50.

*2:Ibid., pp.53-55.

*3:Ibid., pp.59-60.

*4:Ibid., pp.75-79.

*5:Ibid., pp.81-82.

*6:Ibid., pp.92-93.

*7:Ibid., p.138.

*8:Ibid., p.152.

*9:Ibid., pp.223-225.