OCT.11,2019_植物の生の哲学

 最近でたエマヌエーレ・コッチャの『植物の生の哲学 混合の形而上学』(嶋崎正樹訳, 勁草書房, 2019)を読んだ。人間中心的、よくて動物中心的であった西洋哲学において、植物へのイメージが豊かに語られる事例は限られている(アリストテレスでさえ植物論は書いていない)。そんななか、植物こそが世界の存在者の基本形態であると捉えたときにさて、世界に在るということがいかに語り直されるのかというところが本書の肝である。で、コッチャはこのプログラムを非常にまじめに遂行するのだけど、その結果として本書では人間としてはたいへんに共感しづらい(これは褒めている)語りがドライヴしていくことになる。コズミック(宇宙論的)という単語は多分100回以上でてくるし、ちょっとオカルティックともいえるような世界の捉え方が頻出するヤバイ本に仕上がっている、というと引いちゃうけれど、それはあくまで彼がまじめに「非人間の哲学」を構築しようとしているからだ。それも、人間にとって共感できる要素が多い動物でなく植物の立場からであり、しかも植物に人間を投影する(植物を擬人化する)ことは決してなく、科学的な知見も交えながら植物の視点からの世界のありようを構築しようとする。無論それは思弁的な試みだが、しかし思弁的な哲学であるからこそ本書は面白く、現代的で、奇妙(weird)なのである。そんな奇妙な植物的存在論の立場から、人間という存在や人間の活動一般はどのような仕方で見返されるのだろうか、というあたりを感想としてメモしておこうと思う。

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わたしたちは感覚器官によって世界の形状を区別し、その音や色の多様な変化を感じとり、そうした中で世界の多様なイメージを認識するが、そのような耳は目を植物はもたない。だが植物は、自身が出会う限りでのすべての世界に、全身でもって参与している。 植物は走ったり飛んだりはできない。空間ないの特定の場所を選り好みすることもできず、もとからいる場所にとどまり続けるしかない。植物にとっての空間は、それぞれ地理的な特徴をもった、基盤の目のように分割されているものではない。植物が占める天と地の一角に、植物の世界は集約されている。 大半の高等生物とは異なり、植物には、自分を取り巻く環境との関係を選択的に結ぶことができない。植物は周囲の世界に常に晒されていて、晒される以外にない。植物の生命とは、環境との絶対的な連続性のもとで、全体的な交感を通じて、自分をすっかりさらけ出すしかない生命なのだ。

エマヌエーレ・コッチャ: 植物の生の哲学 混合の形而上学, 嶋崎正樹訳, 勁草書房, 2019, pp.5-6

冒頭のこの記述は重要だろうと思われる。感覚器官を備え、可能な行動のなかから自らに有利に働く選択肢を取捨選択することができる人間(や動物一般)とは異なり、植物はそもそも移動ができず、神経系ももたない。できることといえば環境に対して全身でもって参与すること、大気と十全に「接触」することだけである。と、こう記述してしまうと植物の生は圧倒的に受動的なものであるように思えるが、植物は現在の地球環境(大気や土壌、生物の多様性など)、というか動物的生命の可能性の条件を産み出した張本人でもあるのである。圧倒的な環境への受動性と世界を創り上げるという圧倒的な能動性(言葉があっているかわからないけれど)、この両方を備えている存在が植物である、と。環境を創る、ということでいえば、植物の先祖ともいえるシアノバクテリアによる大量の酸素供給は嫌気性の生命を「大量絶滅」させた原因でもある(ナウシカを思い出しますな)。植物繁栄の前と後で地球環境は大きく異なっているということは、もはや議論の余地もないだろう。

植物は、様々なかたちの高等生物が世界に住み着く前に、世界を見いだしていた。現実をその最も古い形態において見いだしていたのだ。ほかの有機体が生命を見いだせないところに生命を見いだしてきた、といってもよい。植物は、自身が触れるすべてのものを生命に変容させる。物質、空気、太陽光などから、やがてほかの生物にとっての生息空間となるもの、世界となるものを作り出すのである。 ミダス王のごとき力、つまり触れるものすべて、存在するものすべてを食料に変える力には、独立栄養という名称がついている。独立栄養は食料自給のいわば根源的な形態だが、それだけにとどまらない。それはなによりもまず、植物に見られる能力のことをいう。つまり宇宙に拡散された太陽エネルギーを生命体に変え、世界を構成するいびつで雑多な素材を、まとまりや秩序、統一性をそなえた現実に変える能力である。

Ibid., p.11

 植物は静止したまま成長をとげ、受動的に環境を受け止めつつ環境を作り替え、独立栄養を世界に供給する。こうした植物の存在の仕方に、コッチャは「浸り」という言葉を当てる。本書の重要なキーワードだ。流動的な環境のなかに浸ること、環境と主体がつねに「相互内在」の関係にあること。これについては後ほど詳しくみていくことにするが、世界に浸っているのが植物だけでないことには注意しよう。われわれも世界に浸っている。犬もカラスも金魚も蝶も例外ではない。ただし植物こそが、生命と世界とが結びうるこのもっとも密接で基本的な関係(=浸り)を、いっそう範列的かつ過激な形態でもって体現しているのだ。

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 さて、可能な限り世界に「密着」するために植物が採った戦略は体積よりも面積を優先する、ということだった。すなわち「葉」の発達である。

ゆるぎなく、不動のまま、大気と渾然一体となるまで大気現象に晒される。中空に宙吊りになり、いかなる努力も要さず、筋肉一つ収縮させる必要もないままに。飛翔できなくとも鳥になること。葉とは、いわば陸地を征服したことへの最初の大きな反動、植物の陸生化がもたらした大きな帰結、そして空中生活への植物の渇望の表れであるかもしれない。(……)空中へと到達したがゆえに、植物は、形態・構造・進化のソリューションなどなど、無限のブリコラージュ[その都度の即応]を余儀なくされてきた。幹を中心とする構造は、なによりもまず「中二階」の発明にほかならない。幹により、土壌や陸地の湿気との関係を失うことなく、重力に打ち勝つことが可能になった。また空気や太陽光にたえず直接触れることから、それらに対する抵抗力や透過性をもった構造も必要となった。 植物の葉が支えているのは、その葉が属する個体の生命だけではない。その植物が表現形として最たるものであるような生息域の生命、さらにはその生物園全体までもが葉に支えられて生きている。「動物も植物も、生物の世界のいっさいは、太陽エネルギーによって支えられ、また厳密に条件づけられている。つまり植物の色素体はそのエネルギーを太陽光から奪い取り、グルコース分子を維持する関係を擁立するのである。地上の生命、すなわち独立栄養の植物の生命も従属栄養の動物の生命も、すべて葉緑体の存在と、その作用によって可能になっているのである」*1。葉緑体は葉の中に存在している。つまり葉は、大多数の生物に単一の環境、すなわち大気という環境を押しつけてきたのだ。 わたちたちは通例、植物を花というもっと派手な表現形でもって見分ける。あるいは木々なら幹という最も確実な形成物で判断する。だが実は、植物はなによりもまず葉なのである。

Ibid., 35-37

 「中二階」においてできる限り多くの葉を繁栄させ、世界との接触面積を増やすこと。幹も根も花も、この表面積の増加(太陽光と接触可能な範囲の増加)のためにあるといってもいい。結果として植物は、地球に「気候」をもたらすことに成功する。それは海、大気、大地が一体となった地球表面の流動的な環境であり、ほぼすべての生命が共有する「空気」を我々にもたらした。コッチャ曰く、気候は地球を取り巻くガスの総体ではなく、すべての生命が前提とする環境の流動性の本質を示すものであり、「いわば混合の形而上学に付けられた名であり、その構造だ」(Ibid., p.37)。ここを理解するのがちょっと自分には難しかった。「混合の形而上学」というのは本書の副題なので「気候」や「混合」というワードが重要であることはわかるのだけど。ちょっと読み進めてみよう。

「気候」があるためには、空間の内部にあるすべての要素が、混合しながらも識別できるのでなくてはならない。諸要素は、物質や形状、隣接関係などによってではなく、同じ「空気」によって統合されるのである。(……)気候のどこを取ってみても、内容物と器の関係はたえず反転しうる。場所であるものは内容物になり、内容物であるものは場所になりうる。環境は主体になり、主体は環境になる。どのような気候であれ、前提となるのはそうしたトポロジカルな反転、主体と環境との輪郭を解体するような振幅、役割を入れ替える振動なのだ。混合とは諸元素の単なる合成ではない。そうしたトポロジカルな交換の関係のことだ。まさにそれこそが、流動性の状態を定義づけている。 流体とは抵抗力がないことによって定義づけられるような空間や物体のことではない。物質がどのような状態で集積しているかとはなんら関係がない。個体も、気体や液体の状態にならなくても流体でありうる。流体とは、普遍的な循環構造、すべてがすべてと接触し、自身の形状や固有の本質を失うことなく混合しあえる「場」のことだ。

Ibid., pp.37-38

コッチャは説明的な記述を避けていて(本書全体がエッセイ的というか、断片的というか、きっちり論理立てて整理されていないようなつくりになっている)、このあたりは説明なしに結論が先に来ているような部分なので、一読しただけでは意味が読み取りにくい。ひとまずここでは本書の中・後半部分をフィードバックすることとしよう。

 まず「混合」について確認しておかなければならないのは、コッチャがストア派を引きながら異なる対象同士の結合のありかたには三つ形態が想定できる、と説明している部分である(本書pp.71-72あたり)。一つは単純な「並置」で、たとえば種子が子房のなかで大量に存在する場合のように、異なる事物が何も共有することなく、各々の境界面を保ちながらひとつのかたまりを構成する形態である。子房のなかの種子は混ざり合うことなく、強固な境界面=殻に阻まれ、各々に独立した未来への可能性=胚を保ち続けている。二つめは「融合」で、たとえば香水のように、このとき構成要素のそれぞれの性質は解体されて新しい対象物が算出されており、もとの要素とは異なる性質や特徴を有するようになる。いわずもがな「空気」は融合を代表するものであり、それはさまざまな分子から構成されているが、ぼくらはそれを「空気」というひとつの統一された対象として識別する。三つめは完全な「混合」で、そこではいくつもの物体が、それぞれの性質や個別性を保ちながら互いに場所を占めつつ、なんらかの実体とその属性を相互に延長しあっている。各々の対象は個別性を保ちながら、なんらかの仕方で、間接的に、影響を及ぼし合っていると。たとえば動物の身体の各器官は単に並置されているわけでもなければ、物質的に液状化して溶け合っているわけでもなく、各々の器官の独立性は保たれつつ血液循環(によるミトコンドリアのATP合成)によって統合されている。

 上記の引用部で説明されている「混合」はこの三つめで、つまり、「気候」(植物が作り変えた環境条件)が可能にしたのは、あらゆる生物が「空気」を媒介に〈一つ〉になる世界だということ。そしてそこで前提とされるのは主体と環境の「トポロジカルな交換の可能性」と世界の流動性だ。わたしの心臓と肺と親指と耳が各々に自律しつつも〈一つ〉であるように、地球に住むあらゆる生命はバラバラでありつつ空気を媒介として〈一つ〉になっている。人間もカラスもてんとう虫も、上記でちらっと触れたシアノバクテリアによる嫌気性生命の大量絶滅後の地球で発生した好気性の生命であり、植物が供給する酸素と独立栄養なしには生存できない。われわれはすべからず「呼吸」をおこない、各々の個別性を保持しながらも空気を媒介にしてつながっている。コッチャが指摘しているのは、この当たり前の世界のありようが、実は植物によって「制作」されたもの(=「混合」を可能にする特殊な気候条件)なんだ、ってことだと思う。それは現在の地球では当たり前だけれど、実際は当たり前じゃないんだよ!やばいことだよ!、と言いたいんだと(たぶん)。大袈裟にいえば、植物が自身の都合の良いように世界を作り替えた結果の地球環境を背景に、というかそれを条件として、現在の地球の生命体は繁栄している。コッチャはここまでハッキリとは書いていないけれど、ぼくはこんな感じに想像して本書を読んでいた。

陸地を最初に占拠し、居住可能な場所に変えたのは、光合成ができる有機体だった。植物、すなわち完全に陸生だったその最初の生物は、最も大規模な大気の変換の担い手でもあったのだ。一方、光合成は大気を作り替える一大ラボをなし、太陽エネルギーはそこで〈生命をもつ物質〉へと変換された。ある意味、植物は決して海を離れてはいなかった。植物は海が存在しない場所に海をしつらえたのである。世界を巨大な大気の海に変え、あらゆる生物に海洋での習性を伝えていったのだ。光合成とは世界を流動化するコズミックなプロセス、流動体の世界を成立させる運動の一つにほかならない。それによって世界は息づくようになり、動的な緊張関係に置かれるようになったのだ。

Ibid., p.53

あらゆる事物が混ざり合いながらも独立性を保ちつつ、呼吸=息吹によって結び付けられる、大気的な統一性を陸上の生命が獲得したのは、植物が作り上げた「気候」の結果である。が、そもそも生命が誕生した「海」とはそういうものじゃなかったか? 生命は「海」において誕生したが、それは偶然ではなく、むしろ生命は「海=流体環境」でしか発生しえなかった存在なんじゃないか。

 「ティクターリク・ロゼアエ」はデボン紀後期(3億7500万年から3億8000年前)に生息した動物で、魚類と四足類の解剖学的特徴を併せもち(見た目は魚とワニのハイブリッド)、現在では陸生生物の起源が海にあるとする説の証拠とされている。ここからわかるのは大半、というかすべての高等生物は液体の環境において始まった適応のプロセスの結果だということだ。科学的な立証はまだだけれど、原初的な生命がいわゆる「原始のスープ」(ナウシカの次はエヴァ、、)を発生条件としていた、という説が思い出される。しかし重要なのは「液体」であることではない、とコッチャは断言する。

こう考えてみよう。生命が流体の物理環境(その流体の中味は、さしあたり水の分子でもアンモニアの分子でもかまわない)から生じたのは、単なる偶然によるのではない、なぜなら生命とは、流体環境の中でのみ可能な現象なのだから、と。するとどうだろうか。海から陸地への生物の移行は、根本的な変化であるとか、生命の本質そのものの転換であるとか、あるいはその生命が暮らす環境との関係の転換であるとか捉えるべきではなくなり、むしろ同じ流動環境(物質)の密度の変化、その集積状態の変化として解釈しなくてはならなくなる。

Ibid., 42-43

生物の観念に立ったとき、その客観的な性質や元素の構成はともかく、生命の生息空間は流体としての性質をもつことになる。「流動性」という言葉は固体・液体・気体といった状態(物質の集積状態)とは関係なく、生物に対する世界のありようそれ自体を示している。それは常に不安定で、増幅と分化の運動を繰り返す環境のことである。「生命の誕生」という問題は、個人的には「代謝」というシステムがいつ発生したのか、ということだと思っている。だからこそ、上記のコッチャの意見にはぼくも賛成したいと感じた。重要なのは「代謝」を可能にする流動的な環境がいかに用意されたか、であり、液体か気体かという問題ではない。原始的な生命の場合それがたまたま「海」だったと。

すると魚は、生物の進化の一段階にとどまらず、〈あらゆる生物のパラダイム〉をなすことになる。海もまた、単に一部の生物にとっての特殊環境であるとは考えられず、世界そのもののメタファーとして考えるべきだということになる。あらゆる生物にとっての「世界に在ること」は、魚による世界の体験から理解すべきなのだ。この「世界に在ること」は、わたしたちの場合もそうなのだが、常に「世界という海に在ること」なのである。それは〈浸ること〉の一形態だ。

Ibid., p.44

〈浸り〉は本書で提示・展開される最も重要な存在論的ステータスだろう。コッチェによれば生命とは常に浸りであり、それ以外ではありえない。たとえ陸上であっても、生命はあいかわらず海のなかをただように、流体環境での「浸り」を前提としている。浸っている存在にとって運動と静止の区別はなく、静止は運動の結果のひとつであり、飛翔する鳥のように、運動もまた静止の帰結のひとつになる。あらゆるものが流動的で、すべてが運動状態にあり、それらは主体とともに/主体に逆らいながら/主体のなかに、ある。クラゲとクラゲをあるがままの姿で居させる海との関係を思い浮かべよう。このとき、思考と行動、動くことと感じること、働きと働きかけはもはや分離できない。ここでのキーワードは「透過性」である。海を構成している水は、主体としての魚に対峙しているだけではなく、その魚の“中”にもあり、魚を通り抜け外に出ようとしている。このとき主体と環境は相互浸透の関係にあるが、それは陸上に住み着くわれわれも例外ではない。

魚が海に暮らすように、また原初の有機体の分子が原始のスープに暮らすように、わたしたちはその安らぎの場に暮らす。わたしたちは一度たりとも魚であることをやめたことがないからだ。〈ティクターリク・ロゼアエ〉は、世界をわたしたちが浸る海へと作り替えるために、わたしたち生物がしつらえた一つのかたちでしかない。

Ibid., pp.48-49

 植物は、陸上を海にした。ぼくら生命は海から陸上に進出したが、一度たりとも魚であることをやめたことがない(ここの記述すばらしい)。魚が泳ぐように、クラゲがたゆたうように、ぼくらは大気のなかで〈浸り〉続けている。

植物はわたしたちに、浸りとは単に空間的に位置づけられることではないということを理解させてくれる。浸るということは、自分たちを取り巻き自分たちに浸透してくるなにかの〈中に〉、身を置くことだけをいうのではない。すでに見たように、浸るとはまずもって主体と環境、物体と空間、生命と周辺環境との、相互浸透という〈作用〉なのだといえる。(……)周辺環境へと浸透することは、周辺環境からの浸透を受けることでもある。したがってあらゆる「浸りの空間」では、作用と受容、働きかけることと作用を受けることは、形式の上で混淆する。わたしたちは、たとえば泳ぐたびにそのことを体験している。(……)流動的な空間に〈在る〉ことが可能であるためには、そのような空間に在るという事実そのものによって、わたしたちを取り巻く環境の現実と形式が変貌するのではなくてはならない。

Ibid., pp. 54-55

このへんは最近個人的に考えていたことと重なるので、かなりしっくりくる*2。このような存在論は植物(というか「葉」)がもたらしたわれわれの世界おいては「常識」であり、従来の二元論を打ち崩す認識をぼくらにもたらせてくれるだろう。そして、あらゆる生命の存在論のベースとなるこの〈浸り〉をもっともラディカルかつリテラルに示している生命こそ、植物なのである。

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ここからコッチャが展開するのは従来の議論への反論・修正だ。なかでもとくに強力な二つの議論、ニッチ構築理論とユクスキュルの環世界への、植物的な立場からの反論。

植物と世界との関係を解釈しようとするならば、ドイツの自然学者ヤーコプ・フォン・ユクスキュルが考案したきわめて観念論的なモデルを抜きにはできない。カントの教えに即して、ユクスキュルは、あらゆる動物に自身の諸器官を統制する支配的な主体の地位を認めなくてはならないと考え、「主体が手に入れられるあらゆる特徴の(つまった)、一種の石鹸の泡」として世界を考察した。(……)このモデルは少なくとも二つの理由から不十分である。まず一つには、主体と世界との関係を認識と行動のかたちで考えているからだ。世界へのアクセスは認識と行動という二つの経路のみで与えられていて、まるで個体の「それら以外の生命活動」は、自分自身のもとに閉じこもっているかのようだ。個体は世界に投げ込まれ、世界に晒され、世界を糧とすることを余儀なくされ、世界の諸元素から自分自身を構築せざるをえないのだが、まるでそうではないかのようだ。 もう一つ、これは一つめの制限の帰結でしかないが、ユクスキュルのモデルは世界へのアクセスを〈器官的〉な性質のものと見なしているからだ。世界へのアクセスは器官において、器官を通じてのみ 生じるとされるのである(それが認識の器官なのか行動の器官なのかはほとんど重要ではない)。植物は行動も知覚もしない。少なくとも〈器官的〉なかたちではそうしない。つまり、そのような特定の目的に従事する身体の〈特別な〉一部分でそうするのではない。しかも植物は、特別な器官の内部でのみ世界に接しているのでもない。その身体と存在の全体でもって世界に接しているのだ。かたちも機能も区別することなく、植物は世界に対して開かれ、自身のうちで世界と溶け合う。

Ibid., pp. 58-59

 植物の視点に立った際に不備が生ずるのはニッチ構築理論も同じことである。ジョン・オドリング=スミー、ケヴィン・N・ラランドらが定式化したこの理論では、有機体は環境圧力を受けるにとどまらず、代謝や行動を通じて自分や他の生物が存在するニッチを作り替えることができる。たとえばミミズは感覚器官をほとんど備えていないが(つまり外部の世界について学ぶことが不可能であるが)、坑道を作り上げる彼らの活動は、岩の解体、土壌の浸食、植物が成長するための土壌の整備、らに多大な影響を及ぼす。ミミズのような小動物がほとんど組織化することなく地球上の表層に及ぼす変化は他の生命にも影響するが、無論自分たちの生息環境にも影響するのであり、さらには将来の子孫にとって有利になるようにそれを作り替えもする。生物は自分たちを取り巻く空間を作り替えることができるし、ある種の「文化」として、その新しい世界を後に続く世代へと伝えていくことができる。

ところが、である。ニッチ構築理論は、古典的な進化論の二項対立を乗り越えることができる理論でありながら、環境に浸ることに特有の親密さについて考察することができない。なぜかというと、ニッチは二重の分離をもたらす操作概念だからだ。まず一つめの分離として、競争排除則(またはガウゼの原理)がある。同じ空間を分け合う二つの動物群は、その場所のリソースをすべて享受するために、互いに他方を排除しようとするという原理だ。その原理が働く現実を表すために練り上げられたのがニッチ理論であり、それは世界と生物との関係を排除の観点から捉えていると考えられるのだ。すなわち、その理論によれば、「世界」とは少なくとも傾向として一種類の生物のためだけの空間、特定の一つの生命のかたちのみが生息する環境だと見なされるのである(この点はユクスキュルも同じだった)。(……)それに加え、二つめの分離として、ニッチの概念を用いると、世界における影響圏・生息圏は、個体に接する空間のみに限定されてしまうという点がある。あるいは生きる主体との〈直接的な〉関係に置かれる、各種の要因やリソースの全体に限定されてしまうのだ。

Ibid., pp.61-62

 しかし、これまで確認したように、「呼吸」とは一種の共食いの原初的な一形態であり、地上の生命が他の生命と切り離されたニッチをもつこと、すなわち影響圏・生息圏が限定されるということは、流動的な環境を前提にしている以上ありえない。ぼくらは植物が排泄するガスを糧としており、つまるところ、他の生命によってしか生きることができない。逆にあらゆる生物が、まずもって他者の生命を可能にするもの=あらゆる場所で循環可能で他者によって取り込まれることのできるもの、でなければならない。

そこにこそ浸りがある。それはすなわち、生命が常に生命そのものの環境になるという事実、またそれゆえに生命が身体から身体へ、主体から主体へ、場所から場所へと循環していくという事実のことだ。(……)大気は世界の一部分である以上に、すべてが他のすべてに依存する形而上学的な場、あるいは各々の生命がほかの生命と入り組んでいる空間として理解可能な世界のエッセンスである。わたしたちが生きるその空間は、わたしたちが適応しなくてはならない単なる容れ物ではない。その空間のかたちと存在は、それが住まわせている生命、それが可能にしている生命の、様々な形態と不可分である。わたしたちが呼吸する空気や、土壌の性質、地表面の輪郭、天空に描き出されるいくつものかたち、わたしたちを取り巻くすべてのものの色合いなどは、それらが生命の原理をなしているのと同じ意味合い、同じ鮮烈さでもって、生命の直接的な効果でもある。

Ibid., pp. 68-69

ぼくは建築の設計をやっているので一応書いておくと、おそらく建築物を設計するうえでの最終的目標はこれだと思う。建築物はつねに地表面の改変・既存の生命の模倣だが、究極的には人工的な〈浸り〉の実現が目指されるはずだ。住み手と相互浸透の関係に入ることのできる、そしてそれ自体が地球環境の影響を受けつつ変化し続けられるような、雲のような、海のような、大気のような、やわらかい容れ物としての建築物。自分の身体のもうひとつ外側に拡がる、もうひとつの身体としての家。これをつくることができたら建築家という職業は終わり。だけれど、これはもはやあたらしい「生命」をつくるということとほぼ同義なので、現状の技術では無理だろう。何百年後か、何千年後かのアーキテクトがたぶん実現してくれるはずだ。頼んだ!!

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なんかキリがいい感じなのでここで本書のまとめは終わりにしようかなと思ったのだけど、本書後半の「根」に関する議論もまとめておこうと思う。

植物の歴史において、根は比較的遅くになって登場した。数百万年ものあいだ、植物は海でも地上でも、根をもたずに過ごしていた。〈最初に生命が繁り、それから根づいた〉のである。つまり植物の生命は、みずからを定義づけるため、あるいは存在するために、あるいは少なくとも生存するために、根というものを必要とはしていなかったと考えられるのである。根の起源は定かではなく、そのもともとの形状を描き出すのも容易ではない。化石による最初期の証拠は三億九千万年前にさかのぼる。数千年存続する生命のすべての形状がそうであるように、その起源は秩序立った意識的な洗練というよりも、むしろ偶発的な、その場しのぎの工夫のように見える。すなわちすなわち根の初期形態は、歯をもたず水平に拡がる茎、または根茎が機能的に変容したものなのだ。

Ibid., p.108

こうして後発的、かつ偶発的に発生したと思われる植物の「根」は非常に両義的な特徴をもっている。

日常的な言葉でも、あるいは文学やアートでも、根はしばしばより〈基本的〉で〈原初的〉なもの、執拗なまでに安定し堅牢なもの、必然的なものなどのいっさいを表すエンブレムないしアレゴリーとされる。根はなによりもまず植物の器官だが、生物がその歴史において創造し適応させてきた諸器官のうち、根以上に形式が両義的なものを見いだすのは難しい。(……)根は、こういうものだろうと考えられてきたのとは違っているが、植物が存在する上で最も際立った特徴の一つを表し、体現している。すなわち両義性、雑種性、二面的・二重の性質である。 まずそれは生態学的な雑種性を示している。根のおかげで、維管束植物類はあらゆる生命体で唯一、組成・構造・組織の面においても、また生息する生命の性質においても根本的に異なる二つの環境に、〈同時に〉暮らすことができるのである。すなわち地中と空中、土壌と天空である。

Ibid., pp.111-112

植物がもつこの生態学的な二重性は、力学的・構造的な二重性も伴う。葉と根は鏡のように対になって構造化され、中空と土壌、このふたつの環境を相互交流・相互浸透させる中継地点となる。中空の暮らしと土壌での暮らし。この二つの生は交互に営まれるものでもなければ、(ニッチ理論やユクスキュルの理論のように)互いに互いを排除し合うものでもない。「それらは同じ個体の存在にほかならず、その個体は、地表と空、石と光、水と太陽を、自身の身体とその経験とにまとめ上げることのできた、またその全体において世界の像となるにいたった唯一無二の存在である。」(Ibid., p.113)。植物の存在論において重要なのはこの同時性であり、異なる環境同士の交通可能性だ。中空と土壌は植物を媒介に相互包摂の関係に入り、中空が土壌に取り込まれ、土壌が中空に取り込まれる、ことが同時に進行する。自分の身体を用いてこの二重性を想像してみよう(植物を擬人化するのではなく、自らを擬植物化するのだ)。腕、口、目、足にそれぞれ正反対の対応物が存在し、自分の身体のそれぞれの運動につねに逆方向に向かう別の運動が同時に発生すること。「それこそまさしく、ユリウス・フォン・ザックスが植物の身体における異方性と呼んだものである。別のいい方なら、末端における反対方向への親和性だ」(Ibid., 114)。根が相手取るのは地上に住むあらゆる生命活動を決定づけていると思われる力、すなわち重力である。そして植物にとって重力は単なる重みではなく、根に方向を与える異質な吸引力であり、地球の中心へと向けた成長力なのである。植物は重力に沿って・逆らって、延びている。問題となるのは地球との関係であり、天体との関係だ。

 とはいってもぼくらはなかなか、植物の環境を想像できない。植物の世界には音は存在せず、それは単に連続した振動として受け止められる。身震い、あるいは地震の一種として。また、すべての植物が呼吸をおこなうが、それは肺を通じてなされる必要がない。器官を経る必要がない。植物は身体のそのまるごとが呼吸によって定義され、身体のすべてが物質の循環に開かれている。加えてコッチェによれば「根はコズミックな混合を働きかける」(Ibid., 120)。根の最も重要な機能は宇宙論的なもので、太陽と大地を結び付けることにあるという。いよいよ人間には理解できないスケールの問題が現れてきた。どういうことだろうか。もうすこし、人間にとっては奇妙にも思える植物的世界の哲学に随伴してみよう。

根があるからこそ、植物はそうしたコズミックな仲介において、〈惑星的次元〉として地球を巻き込むことができるのである。地球は物理的にはただ太陽の周りを回っているだけだ。けれども、植物に〈おいて〉、また植物の〈おかげで〉、その結びつきから生命が、つまり常に未知の形態で存在する物質が産出されるのである。こういってよければ植物は、太陽の周りを周回する惑星の回転運動が形而上学的に変貌したもの、純粋に機械的な現象が形而上学的出来事へと変化する臨界領域なのだ。 さらに、植物は太陽を地上に住まわせているといってもよい。太陽の息吹、すなわちそのエネルギー、光、光線を、惑星を住処とする物体そのものに変え、地上のすべての有機体の生きた肉体を太陽の物質とするのである。植物があればこそ、太陽は地球の地肌、地球の最も外側の層になるのだし、また地球は太陽によって育まれる天体、太陽の光で構築された天体になる。植物は光を有機的物質へと変化させ、生命をもっぱら太陽的な事象へと仕立てあげるのだ。(……)根は太陽に、そして生命に、惑星の髄の部分にまで入り込むことを許容し、太陽の影響を最も深い層まで行き渡らせ、惑星の変容した身体を地球の中心にまで至らしめた。その変容した身体から、わたしたちは産み出されたのだ。

Ibid., pp.120-122

ぼくらが安定したものとみなしている(そして太陽との対としてみなしている)大地が天体的な空間であり、天空の凝縮した一部分であるという指摘は面白い。根が、大地を太陽と結合させる装置の末端部分であり、太陽を大地に住まわせ、大地を天空に変えてしまう巧妙な策略にほかならない、のだとすればなるほど、根が宇宙論的な「浸り」(=相互浸透・相互包摂)を示し実行するものだというコッチェの記述に納得させられる。海から空へ、空から大地へ。〈浸り〉の舞台は拡張され続け、流動環境(=大気)によって統一された場を、植物は生命に用意した。ここでは取り上げないが「花」に関する議論もまた重要で、というのも植物が他の生物との直接的な関係を取り結ぶための〈アトラクタ〉[誘引剤]としての役割を花が担っているからだ。植物は世界に出向く代わりに、花によって、世界を自分のほうへと引き寄せる。

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 本書を通してぼくが感じていたのは、単なるホーリズムへと議論を貶めてしまう危険性を、筆者が慎重に回避していることだった。コッチャが描き出そうとしている植物論的な世界は「ばらばら」であり「一つ」であるもので、それには大変共感する。このとき、大気という流動的な環境のなかでの「呼吸」があらゆる生命を一つの環境につなぎとめている。自らを定義づける境界線を保ちつつ、流動性をもった第三項(海であり大気であるそれ)を媒介に、他の生命と代替的に交流することが生命の条件なのであり、その条件を整備したエージェントこそが植物なのだ。だからこそ、ぼくら自身の存在論を、植物と切り離して議論することなど不可能なのである。

 個々の生命が自身の独立性を保つ根拠は「呼吸」(あるいは代謝システム)にある。息を吸って酸素を取り込むこと、食事をとって有機物を取り込むこと、ミトコンドリアによるATPの生成・分解、エネルギーの発生と消費、血液による各器官の接続・循環。身体のばらばらな各器官はこの一連のシステムによって統合されている。本書を読んでそうか、と思ったのは、植物が整備した世界での生命の住みつき方それ自体が、この身体のありかたとよく似ているということだった。ぼくとヤギとコオロギはそれぞれバラバラに運動しているが、流動的な第三項である大気によって(あたかも内臓の各器官と血液の関係のように)統合されている。むしろ動物の身体が、世界のありようを模倣したのだろうか。世界と身体がフラクタルな関係にあること。自らの身体がすでにひとつの(植物論的な、流動的な環境による事物の〈浸り〉を約束する)「世界」であるということ。これがぼくにとってとても興味深いことだった。

*1:Sergio Stefano Tonzig, Sull' evoluzione biologica. (Ruminazioni e masticature), ms. Privé (propr. Giovanni Tonzig), p.18.

*2:https://note.mu/tkhrohmr/n/n25c8f5afcf36 や https://note.mu/tkhrohmr/n/nb06fd5bfce81 など