OCT.23,2020_読書会の記録①

 先週の土曜日、ふんわりスタートした読書会の一回目が、浜町のタンネラウム*1にてあった。レジュメを作ったりする本格的なものではなく、「同じ本を読んだ人たちが同じ場所に集まる」くらいのゆるい枠組みではじめようとしているものだ(あと、建築関係の人で固まらないようにもしたい感じ)。以前タンネラウムでトークをした際にいただいた会議スペースのお試し券があったので、使わせていただくことにした。ちなみに以前来たときとは展示が変わっていて、作品らもすごくおもしろかった(砂浜をあるく甲虫の絵があって、それがずっと胸に残っている、、)。この日は12時過ぎくらいまで、一階でクラシックのコンサートがされていて、少し早めに着いて上にいると、心地よい音が下から聴こえてきた。ぼくのなかでのパン屋という枠組みが、ぐらぐらと揺り動かされる。会議スペースとしても超よくって、おいしいパンをみんなで食べながら話した(やっぱりパン屋なのかもしれない)

 以前にも書いたが、今回課題にした本は『タコの心身問題』。共同主催の齋藤悠太くんと雑談していたときに、なんとなく話題に挙がった本だったと思う。このあいだ引用した視覚代行器の部分は、この日のブログでは「本筋の議論というわけではない」と書いてしまったけど(タコについて言及している箇所ではないから)、あながちそうでもないなと、いろいろ話していて思った。むしろ本書のなかでもかなり重要な箇所だったのかも。

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 本書は我々とは異なる身体をもつタコの心について、直接何かを明言するというよりは、それについて思考するための素材を提供してくれる感じの本だ。タコの「心」とはいったいどういうものなのか。もうすこし具体的にいえば、タコの主観的な経験、を可能にしている主体的に感じる能力(sentience)とはどのようなものか、ということだろう。この際に重要になってくるのは「知覚の恒常性」で、前述した視覚代行器の話はこれと関わる。

どの生物にも、「自分」と「外界」との区別はある。生物自身がそれを認識しているか否かには関係なく、その区別は存在する。あらゆる生物は外界に影響を与える。その事実を生物自身が把握している場合もそうでない場合もあるが、影響を与えることは間違いない。ただ動物は、その多くが、自らの影響を少なくともある程度は把握している。そうでなければ、行動を取ることが難しくなるからだ。それに対し、植物は非常に優れた感覚を持ってはいるが、動くことがない。また細菌は、動くことはできるが、簡単な感覚しか持たないため、自らの行動の影響で混乱する恐れは少ない。先述のミミズのようなことは起きにくいのだ。

ピーター・ゴドフリー=スミス: タコの心身問題 頭足類から考える意識の起源, 夏目大訳, みすず書房, p.101, 2018

先述のミミズのようなこと、とは何かというと、ミミズは何か異物が自らの身体に触れると後退するという反応をみせるのだが、ミミズが這って土のなかを進んでいるときは常に同じように何かが身体の一部に触れていることになる、という問題のこと。つまりミミズは、「自分以外の何かの行動の結果」として何かが身体に触れる経験と、「自分の行動の結果」として何かが身体に触れる経験を見分けているということになる。つまるところ、ミミズが移動できるのは、自らがつくり出した触覚を何らかのかたちで打ち消している(Ibid., p.102)からにほかならない。

知覚と行動の相互作用は、心理学者の言う「知覚の恒常性」という問題も大きく関わっていくる。たとえば、同じものでも視点を変えると見え方が変わるが、私たちは、見え方が変わってもそれが元と同じものであるとわかる。同じ椅子でも、近くによって見れば大きく、遠ざかって見れば小さく見える。自分が動けば、また椅子も動いたように見えるのだが、通常、私たちは椅子自体に何か変化が起きたとは感じない。行動によって生じる視点の変化の影響を無意識のうちに打ち消しているからだ。また同時に、自分の行動には直接関係のない、光の当たり方の変化なども知らない間に打ち消している。知覚の恒常性は、さまざまな動物に見られる。脊椎動物だけでなく、タコやクモにもあるとわかっている。この能力は、おそらく動物のグループごとに独立に進化したのだろう。 

Ibid, pp.102-103

 自分の行動が対象の変化に与える影響を「打ち消す」ことではじめて、対象を正確に認識することができるし、行動を適切にとることができる。この能力があってはじめて、ミミズも土のなかを進んでいるときに「世界が後退している」 のではなく「自分が進んでいる」と認識することができる。フッサールなんかの議論を思い出す箇所だけれど、ここは非常に重要だとに思われる。つまり、この生存のための「打ち消し」の能力がまずはじめにあって、それに付随して、「私」のようなものが事後的に要請されるということなんだろうと思われる。「私」、つまり「ここからの視点」のようなものは、はじめから環境に依存しているということだ。さらに、

主観的経験が進化するうえでは、「統合」も重要だったと考えられる。感覚器にはいくつか種類があり、それぞれに異なった種類の情報を取り入れる。それを統合して、一つの世界像をつくり上げる能力が必要だ。人間の経験が統合されていることは、誰にも明らかにわかるだろう。私たちの主観的経験は、見えるもの、聴こえるもの、触れた感じなどが統合されることで生まれている。常に一つのまとまった世界を経験できているのだ。

Ibid., p.103

この散り散りになった感覚の群れの束ね、が、たんなる打ち消しの能力から「私」の発生(自分の行動を反省的に自覚すること?)へのジャンプにおいて重要だということは確かだと思われる。これは当然のことではなく、感覚器が受け取る情報が十分に統合されない動物も多い。たとえばハトに対して右目を隠してある作業を学習させたあと、今度は左目を隠して同じことをやらせても、ほとんど場合でその作業ができないらしい(学習内容が共有されていない)*2。このような「情報処理の裂け目」があるのは人間も例外ではなく、著者によれば、目から取り入れられた視覚情報に対しては、脳を通り、手や足など身体全体へと送られる非常に複雑な処理がなされるが、この複雑な処理の大半は無意識のうちに行われ、私たちの「何かを見ている」という主観的経験には関わらない(Ibid., p.108)と唱える学者もいるという(視覚研究者のデイヴィッド・ミルナーとメルヴィン・グッデール)。見ているけれど意識には上がってこない感覚器の情報は、ぼくらの主観的経験にはまったく関わりのないものなのだろうか。

現状、この分野の研究者の中に、ミルナーとグッデールと本質的には同様の考えを持つ人は少なからずいるようだ。感覚機能は必要とされる仕事をし、それに応えて行動が生じるのは確かだが、そこに主観的経験などはなく、すべては静かに淡々と進んで行くだけ、ということである。主観的経験を生む能力は、進化のどこかの段階で新たにつけ加えられたものと考える。感覚情報が一つに統合され、世界の脳内モデルを持つようになり、また時間や自己を認識するようになってはじめて、主観的経験が持てるようになったと考えるわけだ。

Ibid., p.110

コレージュ・ド・フランスのスタニスラス・ドゥアンヌ教授は、この見方を支持する神経科学者の一人だ。パリ郊外にある彼の研究室は、最近二十年間、この分野において最も影響力があるとも言える業績をあげてきた。ドゥアンヌが同僚たちとともにこの何年かで注目し続けているのは、意識の「縁」にあるような知覚である。たとえば、ある顔像を被験者に提示し、ごく短時間で消してしまう。本人も見たことを自覚できないほどの短時間で消すのだ。あるいは、注意が他にそれている時に画像を提示する。どちらの場合も、その後の思考や行動に影響することが確かめられている。自分で得たと自覚していない経験に対しても、私たちの中では非常に高度な処理がなされることがわかった。たとえば、被験者の目の前でいくつかの単語を続けて素早く点滅させたとする。何の単語だか認識する暇もないほど素早く点滅させる。不適切な単語の組み合わせ──very happy war(とても幸せな戦争)を見せられた時と、より適切な単語の組み合わせ──not happy war(不幸な戦争)を見せられた時とでは、脳の反応は異なることがわかっている。二つを区別するのには意識的な思考が必要なのではないかと考えてしまうが、実はそうではなかったのだ。 

Ibid., pp.110-111

ドゥアンヌらの「意識の縁」に関する実験の結果は非常に面白い。つまり、無意識のうちにうけとっている情報も、気分にはかなり影響を及ぼしている可能性があると。ベンヤミンはこうした知覚のありかたを「気散じ」と表現し、これがとても建築的だと位置づけたけれど、まさにこうした知覚のあり方がここでは問題になっている。

私たちには、無意識のうちにできることと、意識的にしかできないことがあるのではないか、とドゥアンヌは考えた。すでに習慣になっているような型どおりの行動であれば無意識に取ることができるが、まだ慣れていない新しい行動、しかも複数の行動を連続的に取る必要がある場合には、無意識にはできない。経験と経験の結びつきを学習することは無意識にできる。「Aを見た時にはBが起きる」といったことを無意識のうちに学習できるということだ。ただし、それが可能なのはAを見たすぐあとにBが起きた場合だけだ。二つの経験が時間的に一定以上離れていたら、その結びつきは意識的でなければ学習できない。たとえば、光を見たあとに不快なほどの強い風を顔に当てられる経験をした人は、光を見ただけで思わず目を閉じるようになる。だが、これは、光と風の間隔が非常に短かった場合だけである。二つの刺激の間隔を一秒以上離すと、無意識の学習は行われない。ここ三〇年間の研究でわかったのは、私たちの行動の中にはどうしても意識的でなければ不可能なものがあるということ、そしてそうした行動には共通点があるということだとドゥアンヌは考えている。かなり複雑な行動であっても、無意識にできてしまうものも多いのだが、ある特定の種類の行動は無理なのだ。共通点は、一定以上の時間を要すること、複数の行動を連続させる必要があること、そして、慣れていない新奇のものであることだ。

Ibid. pp.111-112

ドゥアンヌらの実験と知見はとても重要だと思うのだけど、ここでの論点は、彼らが追求する無意識の学習を主観的経験のなかに含み入れるかどうかだろう。無意識、といっていることからも分かる通り、ミルナーとグッデールやドゥアンヌらは、こうした知覚を主観的経験に含まないという立場をとっている。意識すること、が主観的経験には必須だと。これは前提とする枠組みの定義の問題なような気もするのだけど、この本の著者は「主観的経験」を「意識」よりも広いカテゴリーの問題として捉え、「感じている」という経験が必ずしも意識的である必要はないという立場をとる(ぼくも著者の立場に賛成だ)。そして主観的経験の初期形態を、痛みや快感といった根源的な感情に結びついた、すぐに何らかの反応を必要とするような(おそらく無意識の)感情として、ホワイトノイズという言葉(はっきりとした像を結ばず常にサーっと流れているようなイメージだろう)と表現する。

 人間の主観的経験はおそらく、感覚器が受け取る情報の統合と、知覚と行動の制御がベースになっている。しかし、タコの場合は必ずしもそうでない。

タコの置かれている状況はいわばハイブリットだ。タコにとって、腕はそれぞれが「自己」の一部だと言える。目的をもって動かし、外界の事物の操作に使うことができるからだ。しかし、身体全体を集中制御する脳から見れば、腕はどれも部分的には「他者」ということになる。自分が司令していない動きを勝手にすることもあるからだ。

Ibid., p.126

こうした状況に基づいた、絶えず中央と周辺の間で権限が行き来する(Ibid., p.129)身体が、ここでは問題になる。ホワイトノイズから単純な形態の主観的経験、そして意識へといたる道はいくつもある(Ibid., p.119)のであり、だからこそ、本書には「Other Minds」というタイトルが付けられている。あれこれ書いているうちにタイトルに戻ってきてしまった(本書自体に、あれこれ論じるけどけっきょくタイトルに堂々巡りする、みたいな感じはあるんだよね)。本書は結論は出ないけど色々と考えてみようぜ、という感じのスタンスの本で、だからこそ興味深いトピックは他にも様々あったのだけれど、引用しているとキリがないので、ここまでにしておこう。少なくともこうした問題意識を理解しておくと、話題が割と散逸する本書を、よりスッキリ楽しめると思われる。このあたりは読書会で共有することができて、よかった。とくに「知覚の恒常性」に関する議論は、建築空間や映像作品の制作などをしていく上でも大切な視点になるはずなので。

 さて、次回は貞久秀紀の『雲の行方』を読もうと思う。かなりすごい本だと思うので、今から楽しみだ(『タコの心身問題』の内容も関係してくる気がしている)。場所は、もしかしたらぼくが居候している改修中の海老名のアパートでやるかもしれない。ぼくが海老名にいるうちに、この読書会の一環として、ゲストを読んでレクチャーをしてもらったりしてもいいかなも考えている。次回も建築の本ではないので、いろんなジャンルの方の参加をお待ちしております。

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*1:パン屋の二階にあるシュトーレンの倉庫兼絵のギャラリー兼貸しスペース。佐藤熊弥くんが運営するスペースで、設計は板坂留五さん。以前、この場所について話す機会をいただいた。

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*2:加えてハトなどの鳥類の場合、ごく狭い範囲の(視覚精度がかなり高い)両眼視野の情報と広い範囲を見る片眼視野の情報も十分に統合されていないらしく、興味深い。