JULY.14,2019_肘掛け椅子

ふだん個人の自宅で飾られている美術作品が、その所有者へのインタビューとともに集められた展示をみた。とてもよかった。所有者の方々が絵や彫刻にまつわるエピソードを聞いていると、なんというか、とても胸がしめつけられる気分になった。愛(着)について、その多くは事後的に生まれるということについて、すこしずつかけがえのないものになっていくということについて、考えさせられた。

愛情や愛着が定着するというとき、人生の様々なエピソードにおけるひとつの「読点」のようなものとして機能するというとき、絵は自律した存在であるということが大きいのだろうと思った。道具のように「〜するため」につくられたものではないこと、つまり、外部のオブジェクトにあらかじめ紐づけられておらず、それ単体で成立していること。それは翻って、ゆいいつ、「私」とのあいだにだけ、関係性の紐帯があるという感覚をもたらしてくれる。「かけがえのなさ」や「とりかえのきかなさ」があるからこそ、なにげない経験が地層のようにつみかさなっていく座になりうる。絵というのは、もちろんそれを知覚するときの気分の揺れ動きのようなものを含んでいるから、そのような経験の積み重ねに、その内容のありようが直接関わっていくことになると思われる。知覚的な「効果」を自律的にもっているということ。

というと、労働者たちの疲れを癒やす「肘掛け椅子」として絵画があるんだという、マティスが掲げた理想を思い出す。観る人の知覚をまきこみながら、重力の支配をやわらげ、重さを忘れるような、リテラルに「夢」のような感覚をもたらす絵画空間を構築すること。「画家のノート」で若き日のマティスがこのようなことを書いていたということは平倉さんの論考で知ったのだけど、ぼくはとても驚いた。美術作品は美術館やギャラリーでみるものであり、そのような環境を前提にして制作されるという感覚がなんとなくあったけれど、そういうことでもないんだなと。展示空間(あるいは美術史)という「約束事」を前提とすることと、日常生活のなかでの散漫な意識を前提にすることは、ぜんぜん違うことだ。後者は古き良き近代美術の枠組みということなのかもしれないけれど、しかし、日常的な空間を設計する身にあるものとしてはこの素朴な絵画の位置づけこそに興味がある。また個人が所蔵するということ、そしてそれが作品が社会のなかで流通するということまでを制作の射程にいれれば、このような問題意識は再び現代的な意義をもつだろう、と思う。それは、日常生活における物品の具体的な流通に介入することであり、そこでの絵画の位置をずらすことであり、そして、生活空間での他の構成要素との関係を再編すること、だろう。大げさにいえばそのような試みは、美術の「マーケット」そのものをフィクショナルに構築する、ということにつながるだろう。この展示からはそのような狙いも個人的に感じられたから、「肘掛け椅子としての絵画」という素朴さこそが、むしろラディカルな美術の枠組みとして機能するということもありうるのだろうなと思われたのだった。

また、「飾る」ということは、なんだかドキドキするような、とても特別な行為なんだなと、あらためて思った。ものに、特別な場所を与えること。だれのためでもなく、自分のために。思い出深い絵も、本の表紙も、拾ってきた石も、愛する人の写真も、みずから飾りたてたとたん、よりいっそう特別な存在になる気がする。これは飾るべきだ、と、思ってもらえるようなものをつくるということは、とても素敵なことだと思う。

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(PENTAX 67, SMC TAKUMAR 6×7 105mm/F2.4, FUJI PRO400H)