APR.21,2019_反復の先にある知覚について

 きのうのことだけど、お誘いをうけて2件の建物の見学会に参加させていただいた。運のいいことに、その終わりに(2件目に見学させていただいた物件の担当だった)先輩に食事にさそっていただいた。実務に向き合っている先輩とじっくりと建築の話ができてとても楽しかったし、長い間お会いしてみたかった方とも引き合わせていただいてとても光栄だった。目地のはなし、表面のはなし、スケールとプロポーションのはなし、対象との距離のはなし、フィクションとリアルのはなしなど、今後も考えていきたい。

 最後のほうでたしか、建築家の専門性とはなんだろう、みたいなことについてふと話したと思う。例のごとく普段ぼんやりと考えていることを会話のなかで吐き出した感じだったので、自分でも、自分はこんなこと考えていたのだと少しおどろいた。今は引きこもって一人で考えている時間が多く、誰かと長時間議論することも少ないから、こういった言語化の機会は大事だなと改めて感じたし、そのためには相手のはなしをとにかく「真剣に受け取る」というムードが大事なんだなと思った。ぼくみたいなまだナニモノでもない後輩のはなしでも真剣に受け取ろうとしてくれているということが(恐縮しつつも)すごく嬉しかったけれど、でもそういう空間は本当に貴重で。だから自分も(普段から心がけていることだけど改めて)、誰かのはなしを聞くときはとにかく真剣に受け取ることを大切にしようと思った。それは作品を鑑賞したり小説を読んだり映画をみたりするときなんかと同じことだろう。なにはともあれ、他者の言葉をひとまず内在化しようとする態度。

-

 ぼくは、建築家の専門性というのは、何千、何万回反復した先の知覚を具体的に想像できる力をもっていることだと思う、と、たしか言った。ある家の住み手が10年間その家で生活したあとに立ち上がるであろう知覚、経験の手触りを、たとえばオープンハウスにいったときに瞬時に把握し、想像し、批評をおこなうことができる「眼」をもつことが、ぼくにとっての建築家の専門性だ。

 建築物の特徴は、丈夫で、長持ちすることだ。何を当たり前のことを...、という感じだけど、これはとても大切なことだ。だからこそ、建築を構成する要素の数々は一定のリズムで何度も何度も繰り返し経験される対象となるのだし、結果として宿命的な「慣れ」がそこにもたらされる。たとえば住宅のドアノブは、一度デザインされるとそれが何万回、あるいは何十万回と繰り返し使用される可能性が高いもので、よくよく考えるとそれは(よくよく考えなくても)本当に途方もないオブジェクトだけれど、「ドアノブをひねる」ということをわざわざ意識しながら生活しているひとは少ないだろう。建築と人間の接触は、たいていは無意識のうちに遂行される。

 けっきょくのところぼくは、建築空間が生(活)の地=環境になり意識から退隠(withdraw)した状態を前提にして、構築的なアイデアが練られている建築物に惹かれるのだろう。たとえば住み始めてから10年後、ふとした瞬間にその家とみずみずしく出会い直せるような、そんな知覚の生成変化を実現しうるディテールは考えられるだろうか、ということなどを、普段自分で設計をおこなうときは考える。無意識のうちにドアノブをひねり、無意識のうちに窓を開け、無意識のうちに壁に横たわる習慣化した人間の身体を相手どること。それは途方もなく難しいことだが、建物を組み立てるうえでとてつもなく重要なことだと思う。

 建築家に求められる専門的な知性は、反復に耐えうる空間への想像力を持っていることだ。数十年後の知覚や物性を対象として議論ができること。それは建築の専門でない方と、建築を専門にしている人間を決定的にわけるだろう。これはもちろん意匠に限ったことではなく、構造や環境でも同様のことだ。たとえば建築理論と呼ばれるものや設計における仮説、コンセプト、形式といったものはそのことごとくが、こうした空間に慣れきった身体を前提にして組み立てられているべきだろうと思われる。これは「みたまま」の建築物をどれだけ「みたまま」のまま評価できるか、という話でもある(以前に書きなぐった下の記事の内容とも少し関連してくることだ →建築理論についてのパラグラフ|takahiro ohmura|note。「みたまま」を、反復の結果おこる「慣れ」をはじめとした時間の経過による諸々の影響を加味したうえで考察すること。

-

 みたまま、つまり「表面」だ。すこし青木さんのレクチャーの内容とも関係するかもしれないのだけど、ぼくも基本的には「表面」志向の人間だ、と思う。青木さんのいう「表面」はベルクソンのいうところの「イマージュ(イメージ)」と一致する概念ではないか、というのかぼくの見方だけど、どうだろう。ぼくたちは表面=イマージュしか知覚できない、いや精確にいえば、“組み立てられた表面”しか知覚できない。建築家が懸命に取り組むのは図面上で黒塗りにされる部分の構築であるわけだけど、建物を経験する側からすれば、空間を順繰りに経験した際に知覚した表面のズレ、としてでしか、その厚みが知覚されることはない。

 ベルクソンが提示した「イマージュ=表面」という概念は、観念論者による「表象」(精神のなかだけに存在するもの)と実在論者による「物」(表象の背後にある実在)のあいだの対立を乗り越えるために導入されたものだ。それは、「そこ」にある物質と「ここ」にある私たちの知覚を一致させることであり、それによってベルクソンは、「目の前にあるこれは、見える通りに存在している」という常識的な感覚を肯定する。しかし、目の前の対象=物質と、それについての私の知覚が一致する局面を「イマージュ」として定位できる根拠はなんなのか。それはベルクソンの哲学において、不在の対象にかかわる再現前化が「記憶」として、その対概念としてしっかりと位置づけられているからだ、と思う。目の前の対象についての「知覚」と、不在の対象にかかわる「記憶」。なるほど、両者は固有の領分をもっており、そこには強度の差異ではなく本性上の差異がある。それゆえ「物質=イマージュ=知覚」と「記憶」は必ずセットで、相補的な概念として用いられる必要があるだろう。だから、表面=イマージュ説を採用すると、青木さんのおっしゃる「表面」は、すこし奇妙なことのようにも思えるけれど、「知覚された表面」と「記憶のなかの表面」がかならずセットで扱われる必要があるのかなと、思ったりする。

 建築物の「厚み」を把握するためには、例えば隣接する室Aと室Bの「表面」をじっくりとみて、その位置関係を十分に認識したうえで、両者(室Aの表面と室Bの表面)の位相的な「ズレ」を演算する必要がでてくる(これはコーリン・ロウが「現象する透明性」という言葉をあてた経験のカテゴリーだ)。つまり、「表面」への知覚と記憶、その両者が連帯するときに、はじめて「建築」は我々のなかに現象する。このとき経験される「建築」は磯崎さんが「闇」や「間」といって表現したものとかなり近いものではないか、と思われる。

私たちの知覚は、すでにそう語っておいたとおり、本源的には、精神のなかに存在するというよりは、むしろ事物のうちにあるのであり、じぶんの外部に存在するのであって、私たちの内部にあるのではない。さまざまな種類の知覚は、それぞれにリアリテの真の方向をしるしづけている。とはいえ私たちとしては、みずからの対象と合致するこの知覚が、事実上というよりもかえって権利じょう存在するものであるしだいも付けくわえておいた。知覚はつまりこの場合、瞬間において生起することになるだろう。

アンリ・ベルクソン: 物質と記憶, 熊野純彦訳, 岩波書店, 2015 (1896), p.430.

ベルクソンは上記のようなヤバイことも書いている。ここでくわしくは触れないけれど、「知覚」は「ここ」(私の精神のなか)ではなく物の側にある、と。主観性を欠いた、オブジェクトとしての知覚が、私の身体の外部に、私という拠点なしに存在する。ぼくは青木さんのレクチャーメモを拝読したときに、ベルクソンのこの考えを引き継ぎながら「表面」について考えてみたいなぁと、すこし思ったのだった。

-

f:id:o_tkhr:20190422021749j:plain

Contax S2, Carl Zeiss Planar T* 1.7/50, Fujicolor Pro400H