MAY.31,2019_いくつものおおきさ

 きのう、ギャラ間の展覧会に合わせて開催された中山英之さんの講演会を聞きにいってきた。大変におもしろくて、本当にいってよかったと思った。中山さんほどストイックに「おおきさ」を追求している建築家は他にいないかもしれないなと、あらためて感じたのだった。

私はある燈台のこと、記憶のこと、夏のことを考えている。どうやってこうした事物の規模を定めることになるのか。そして実際、それらはどの程度の規模を有しているのか。今年、1977年の夏、私のオステリア・デッラ・マッダレーナに滞在していた。その時、そうでなければとても覚えてはいなかった会話の中で、ひとつの建築の定義がひらめいたのだ。 私はそれをこのように言葉に直した。「部屋のもっとも高いところから一気に10メートルも落っこちた。」この文章の文脈がどういうものか自分でもわからないが、ここで新しい規模=次元が開かれたと思う。

『アルド・ロッシ自伝』, 三宅理一訳, 鹿島出版会, 1993, p.56

 中山さんのお話をきいていて、ロッシの自伝のなかに出てくるこの一説を思い出していた。「部屋のもっとも高いところから一気に10メートルも落っこちた。」ということが建築の定義だというロッシのこのテキストにぼくはいたく感銘をうけたのだけど、中山さんの実践はまさに「部屋のもっとも高いところから一気に10メートルも落っこちる」ことを目指しているように、ぼくには思えた。

 「おおきさ(スケール)」というのは本質的に相対的で、なにを「モノサシ」とするのかで自在に変化する、そういう類の概念だ(ミリやインチといった単位によって規定されるものではない)。中山さんはこのことを「てがかり」とおっしゃっていたけど、まさに「おおきさ」には「てがかり」が必要なのだ、絶対的に。それは身体かもしれないし、地球の大きさかもしれないし(メートル法)、となりの建物かもしれないし、おおきさがよく知られている固有名(ドア、電柱、窓、イス、カーテン、コップ、レンガ、、、)かもしれないし、歴史や個人的な記憶かもしれない。いずれにせよ「ものさし=てがかり」に応じて、複数の「おおきさ」が経験のなかで無数にたちあがる。ぼくらはそういう世界に生き、そういう対象を設計しているのだと、中山さんの実践はそのことを実に鮮やかな仕方で見せてくれる。「おおきさ」というのは何を「対象=オブジェクト」とみなすのか、ということによって強く規定される。だからこそ、図にはスケールがあるが、地にはスケールがないのだ。この「地にはスケール(おおきさ)がない」ということはぼくにとっては非常に重要なことで、だから中山さんの「石にはスケールがない」という言葉にはすごくグッと来たのだった。

 砂山さんと共同で制作された紙の石(下の写真)は手のひらサイズの石ころとみなすこともできるし、家くらいのおおきさの岩だとみなすこともできる(それは石というフラクタルな形態がもっている特殊な性質だ)。前者とみなせばぼくらの身体は相対的に小さくなるし、後者とみなせばぼくらの身体は相対的に大きくなるし、もちろん1/1の紙の石だとみなすこともできる。ともかく、見る側の想像力次第で目の前の石らしきオブジェクトはいかようにもおおきさを変えるし、それに付随して見る側の身体のおおきさもまた自在に変化する。それはこの紙の石が、小さな石を3Dスキャンし多面体として再構築して、より大きなサイズに拡大して(しかも紙を用いて)組み立てるという、トーマス・デマンドを彷彿とさせるようなとっても大変な作業を経て制作されているものだからこそ可能になっていることだ。おおきてちいさく、かるくておもく、もろくて頑丈。リアルとフィクションのそのあいだに、みるひとを誘い込む。

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https://www.takeo.co.jp/exhibition/mihoncho/detail/20171006.html

 

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 ちなみにロッシのうえの言葉に関して(たぶんここだけ抜き出して意味不明なので)少し補足をしておく。彼は下のようなドローイングを書いているのだけど、この内容に注目してほしい。

f:id:o_tkhr:20190531222852j:plain左: Aldo Rossi《Il ritorno dalla scuola》(学校からの帰り), 1983 / 右: Studio di Aldo Rossi, Photo by Luigi Ghirri, 1988

 目の前にあるコーヒー・ポットを海辺に立つ10メートルの燈台だとみなしたとき、あなたは「部屋のもっとも高いところから一気に10メートルも落っこちる」ことができる。ロッシのいわんとしたことはこういうことだと、ぼくは思っている。ロッシのドローイングはしばしば「ポエティック」なものとして見放されてしまうのだが、実はものすごく精確に、建築的実践における「ある感覚」を描写しているのだ。このことについては下の記事でくわしく書いたのでよかったら。

note.mu

 上の記事で書いたことをちょこっと引用。たとえばヴェネチア・ビエンナーレに出品された『世界劇場』(1979)に注目すると、わかりやすくこの感覚が実装されていることに気がつく。この建築=船は水上でぷかぷかと浮いていて、その色彩と仮設性、そして単純な形態もあいまって、どこか子どものおもちゃのようにみえる(周囲を取り囲む不動の古典建築群が、ロッシの世界劇場のおもちゃ感をより引き立てている)。世界劇場は約10mの立方体に高さ6mの八角錐の屋根がかかるという規模なのだけど、これをおもちゃとしてみた場合、多分その10分の1、すなわち1m四方くらいの大きさにしかみえないはずだ。たとえば100m先からこの建築を眺めていたとしよう。しかしこの建物を1/10のミニチュアと認識した瞬間、対象との距離もまたミニチュア化し、100mあった距離は10mとなる(このとき、ヴェニスの町全体が一緒くたに1/10化してしまうことも面白い)。私たちが《世界劇場》をみるとき、実際の距離とミニチュア化した距離を同時に知覚している。

f:id:o_tkhr:20190531231000j:plain『a+u』,1982年11月臨時増刊号, p.113.(左), p.121.(右)

 中山さんとロッシの仕事のあいだにある(個人的に勝手に感じている)「近さ」は、たぶん「おおきさ」のとりあつかいの、その精確さにあるのだと思う。ぼくが豊かで、自由で、おもしろいと感じる空間はたいてい「おおきさ」の多重化が起こっている(気づいたのはだいぶ最近のことだけれど)。例えば篠原一男の「白い家」のあの広間がおもしろいのは、調度品がもたらすヒューマンなスケールに対して中心にある丸太柱が家全体の大きさ(架構のサイズ)を換喩的に想像させるからで、つまり人間のおおきさと架構のおおきさを同時に知覚するような経験をもたらしてくれるからだ、と今なら自己分析できる。言い出したらキリがないのだが、例えばそういうことだ。