昨日は土井さんの展示のあと、ワタリウム美術館で「ジャッド|マーファ展」を見たのだった。友人ふたりが主宰するw/が会場構成を務めている。寺田くんは以前からジャッドを研究していたひとで、今回はキャプションのテキストも書いているということで、もう完全に会場構成の枠からは飛び越えている。
ジャッドの作品を見ていると、額の位置、額同士の距離、壁面のどこに置かれているか、ライティング、自然光、既存建築の扱い等々、ふつうなら作品の背後に退いている諸問題を、作品の外部として括弧に入れられなくなる、ということがよくわかる。ジャッドの作品を置く側は、なぜそこに置いたのか、なぜその高さなのか、なぜその光なのかを「明確に」決めなければならない。
オブジェクトそのものより状況のほうが重要だ、という話ではない。状況が作品から切り離せないからといって、オブジェクトの固有性や、それが「そのオブジェクト」でなければならない必然性が弱まるわけではない。ジャッドは、正面、中心、台座、構図といった、置き方を決めるための根拠を作品から消している。その一方で、直方体の辺や反復する間隔は、壁、床、窓、目地との関係を容赦なく見せてしまう。判断の根拠は与えられないのに、判断の結果だけは隠せない。だから置く側は、ふつうなら慣習に預けられるはずの判断を、ひとつひとつ引き受け直さなければならなくなる。
だから会場構成はとても重要で、w/が起用されたことに深く納得する。彼ら以上の適任はいなかっただろう。壁の目地、窓のサッシの割り付け、コンセント。そういうものまでが、作品の論理の延長にあるように見えてくる。しかし、会場全体をジャッド風の造形として演出してしまうわけではない。鑑賞者が「そうとも取れる」と思えるところで止めている。リラックスして自然なのに、明確な作為がある。既存の建物まで作品化せず、それでも背景には戻さない。そのバランスがよかった。
ミニマルな美術作品のいわゆる「シアトリカル」な側面を、観客の身体の問題にだけ返してしまうと、途端につまらなくなる。フリードのいうシアトリカリティを、少し乱暴に別の場所へ移して考えるなら、本当に演劇的なのは作品を現実の空間に置こうとしたときに発生する一連の意思決定のほうではないか。どう運搬するか。どう壁に固定するか。自然光をどう扱い、照明をどう操作するか。既存の壁を直すのか、残すのか。コンセントを消すのか、見せるのか。作品と制度が互いに圧力をかけ合い、キュレーター、会場構成者、施工者、美術館の職員、監視員まで、関係者が次々と判断を迫られる。関係者みんなが舞台に上げられてしまう。
案内のあと、集まった人たちと食事へ。プライベートで参っているが、少し気が楽になった。
