JUNE.3,2019_なぜフィクションか?①

 ジャン=マリー・シェフェールの『なぜフィクションか?』(慶應義塾大学出版会, 2019 / Jean-Marie Schaeffer: Pourquoi la fiction ?, Editions du Seuil, 1999)がすごくおもしろかった。ぼくの最近の興味どストライクな内容。さらにnoteで立石遼太郎さんの建築とフィクションについての連載もはじまるので、その予習もかねてタイミング的にグッドな本かもしれない。立石さんの連載たのしみ。

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確かにデジタル技術は、「バーチャルリアリティ」を生んだ。だが世界の「バーチャル化」と世界のフィクション化は同じものではない。バーチャルが固有の意味で対立するのはアクチュアルであって、現実ではない。「現実」と対立していると言えるのは、ただフィクションのみである(…)デジタルフィクションがフィクションの(「現実」に対する)論理的ステイタスを変化させるのではなく、フィクションを製造し、また消費するための新たな手段をわれわれに提供するにとどまるということである(これでもたいしたことにはちがいないが)。 

ジャン=マリー・シェフェール: なぜフィクションか?, 久保昭博訳, 慶應義塾大学出版会, pp.10-11, 2019 

「バーチャル化」は世界のデジタル化がもたらしものではなく、「表象」という生物学的なシステムがそもそも備えていたもので、加えてフィクションは表象の特殊な様態であり、同時にバーチャルの特殊な形式であると、シェフェールは述べる。デジタルゲームもネット環境も、別に「フィクション」そのものを変質させたわけではなく、変化したのは技術的支持体(クラウス)の構成なんだと。ちなみにこの本が書かれたのは1999年で、ちょうどネットやデジタルフィクションが隆盛をはじめた時期であり、それらに対する危惧というものが広まっていた時期でもあるのだけど、本書は世界がほぼデジタル化してしまった今読んでも十分に批評性をもっている、ということはまず書いておきたい。

私は「あたかも〜のようにする」ーー遊戯的偽装ーーと、子どもたちのごっこ遊びや夢想にその起源が見られる創造的シミュレーションの根本的なメカニズムから出発するのでなければ、フィクションとは何かを理解できないと確信している。(…)人間の生における(遊戯的かつ本気の)模倣の重要性こそ、表象芸術が、なぜあれほどまでにミメーシス効果を亢進させる傾向を帯びるのかを理解する助けとなるからである。

Ibid., pp.11-13

デジタルフィクションとごっこ遊びを切り離すことなく「フィクション」を理解しよう、というのがシェフェールのスタンスであり、そこではミメーシス=模倣のメカニズムが重要な観点となる、と。ゆえに“日常的”なミメーシス行為とフィクションのあいだの関係を再認識すること、が本書の目的として位置づけられている。

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 まずもって問題となるのは、物語に没入するときのようにミメーシス的に対象に自らの身体を同化させることは魅惑的だけれども、それは同時に「理性のコントロール」という審判を麻痺させるのではないか、といったような模倣に対する警戒心である。たとえば『国家』のなかでプラトンは「ミメーシス」概念への批判的な議論を展開している。ミメーシスには「感染」という危険性がつきまとうため、模倣する対象を誤ることは大変危険であるという警告である。

誤った対象の選択が危険なのは、現実の行動がそこで模倣される非難すべき行動に感染しかねないからである。プラトンは、批判すべき行動の模倣の戯れに耽る人たちについて語った箇所で、次のように記している。こうした模倣を追放すべきなのは、「この模倣の感染が、彼らの存在の現実にまで及ぶことを避ける」ためである。「それとも君は、気づいたことがないかねーー模倣というものは、若いときからあまりいつまでもつづけていると、身体や声の面でも、精神的な面でも、その人の習慣と本性の中にすっかり定着してしまうものだということに?

Ibid., p.32

なるほど、最初はそんなつもりがなくても模倣対象の考え方や、もっといえば行動までが感染してしまうという考えはよくわかる。「xをする"ふり”をして遊ぶものは、実際にxをおこなう性向をつよめる」というとスタンフォード監獄実験http://urx2.nu/Ji4Wなんかを思い浮かべるけれど、もっと身近な経験のなかでも「模倣の感染」を味わったことがある人は多いと思うし、それゆえこのようなプラトンの懸念は正当なものだと多くの人は思うのではないか。こうしたミメーシスの感染効果、訓練効果は、実際には模倣を実践するものだけに関わる事項ではなく、受け手にもその影響は及ぼされうるものであり、プラトンが真に危惧しているのはたとえば役者が公衆を操作する能力を有するという可能性であるように思われる。ただ、ここでは模倣そのものが原理的に問題になっているのはなく「ある種の対象を選んではいけない」ということが注意されているのであり、逆にいえば、良い模倣のモデルを選択し褒められる行動を装えば、いずれその「ウソ」は「ホントウ」に移行する、という可能性は認められているわけだ(だからこそ、そこでは前提とすべき道徳的な倫理観なるものが措定されるのだが)

 しかし筆者は、プラトンの議論において上記の相異なるミメーシスの効果が一緒くたにされてしまっていることを問題視する。

ところで、(遊戯者、役者、公衆のいずれの場合でも)フィクションが「現実生活」に影響しうるという問いを立てるならば、二つの非常に異なる問題を区別しなければならないだろう。それが没入(フィクションと現実の境界の浸透性)の問題と、訓練効果(フィクションによる現実のモデル化)の問題である。シミュラークルへの完全な没入、すなわちフィクションを現実と見なすにいたるような没入がありうるということと、フィクション世界を現実へと移し替えること、すなわちわれわれがフィクションの登場人物たちの行動を写し取るような行動をするにいたる移し替えがありうるということは、まったく別のことである。私はあるフィクションを前にして「指示的幻想」に騙されることもあろうが、だからといってそのフィクションの行動を後で真似するとは限らない。逆に、私はフィクションの行動やフィクションの世界を、それがフィクションであるということを十分に承知しながらモデルとすることもできる。

Ibid., p.36

 没入と訓練効果。両者をきちんと区別するということは非常に重要な観点である。たとえばホラーゲームのなかで突如出現する殺人鬼におもわず目をそらしてしまう(没入によるフィクションと現実の同一化)ということがあるが、これは認知的関心(の誤謬)に関わる問題。他方、その殺人鬼をモデルにした実際の殺人事件がおきてしまう、ということがあったとして(想像するのもいやだけど)、それはフィクションに対する現実の“行動の調整”に関わる問題だ。この両者を混同してしまうと、過激なフィクション(たとえばグランド・セフト・オートのようなゲームとかね)はとにかく規制すべきだ、みたいな短絡的な結論に陥ってしまうことになる(こうしたフィクションの規制にかかわるよくある議論は、古代ギリシャから何度も何度も繰り返されてきたものなのだ)

ミメーシス活動の特徴を示し、それゆえこの活動に固有の問題を正しく提示すると考えられるのは、唯一没入による同一化のみである。

Ibid., p.36

後者の「行動の調整(対象のモデル化とその模倣)」はフィクション固有の問題というわけではない(しばしばメディアから攻撃されるのは創作やフィクションだけど)。親の背を見て子は育つというけれど、たとえば子供にとっては現実の両親を模倣することによる影響(訓練効果)のほうが、フィクションの登場人物から受けるそれよりもよほど強力なのではないか。しかし、没入の問題(フィクションと現実の境界の浸透)はあくまでもフィクション固有の問題であるとシェフェールは判断している。

 さらにプラトンは『国家』において、「模倣する対象を誤るな」という警告をこえて、ミメーシスそれ自体を否定する論を展開する。要約すると、行動や感情の感染というのはプラトンにとっては弁証法的(問答法)過程を経てなされる合理的な説得の対極に位置するものであり、道徳の問題(正しい模倣対象を選択しよう)というよりは、認識上の欠陥という観点から否定されなければならないのだ、というもの。ミメーシスにおける“認識上の欠陥”なるものを例示すると、たとえばある職人が師匠を見よう見まねして盗んだ(ミメーシスによって獲得した)技術は往々にして言語的に、模倣以外の仕方で他者に伝えることが難しいでしょう、それは認識上の欠陥じゃないか、ということになるのかなと思う。とはいえ、プラトンのミメーシス的行為に対するこの伝染病学的な構想(模倣が非言語的な仕方で何かをコミュニケートしているんだという観点)はかなり重要で鋭いものである。プラトンはそれが理性的な説得ではないということで断罪したけれど、逆説的に彼はミメーシスがもつが独特な能力を認めていたことになるだろう。プラトンが模倣の感染作用を強く危惧していたことも、この能力のある種の可能性を十分に評価していたからだといえなくもない。

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 プラトンとは対象的に、アリストテレスは遊戯的なミメーシスを肯定的に捉え、そのなかに他のなにものにも還元できない世界との関係をみた。

おおまかに言うと、これは公然となされる遊戯的ミメーシスの活動が、現実的葛藤の儀礼化として生じると考える。カタルシスの理論に従い、現実の葛藤を純粋に表象的なレベルに移し替え、そのレベルでそれを解消させることに演劇的ミメーシスの機能があると認めるならば、これは結局のところアリストテレス的モデルと言える。(…)(ミメーシス的実践は)ある特定の実際的必要、つまり葛藤に対し遊戯的に距離をとることを通じて、人間関係を穏便にするという必要に呼応するものとなる。

Ibid., pp.49-50

 カタルシス効果とはつまり、対処が難しい衝動や欲求、葛藤を非言語的に表現することを通じ、それを意識化・発散することである。アリストテレスは演劇的ミメーシスを、こうした人間のもつ「能力」のひとつして、世界との関係のむすびかたのひとつのカテゴリーとして評価するのだ。しかし、

アリストテレスにとって、フィクションを特徴づけるのは、必然的であるにせよ、本当らしいものであるにせよ、あるいは可能なものであるにせよ、事実を表象する語りに特有の表象構造である。(…)アリストテレスは、フィクション世界と歴史的現実の世界とは相互に感染しあうことがないと完全に信じているのである。それゆえ彼のミメーシス概念は、まやかしとしての模倣ではなく、モデル化としての模倣になる。実際詩人は、その物語を可能なこと、必然的なこと、あるいは真実らしさという路線に沿って作ることで、ある認識モデルを作り出すのだが、その際、状況によってさまざまに変化する経験を具体的なものとしうる深層の行為構造を現実から抽出するがゆえに、作られたモデルの効用は、模倣される現実を超えたところに位置するのである。現実の出来事をフィクションにする可能性を認めているアリストテレスが、一方ではその反対の可能性を一度も考慮しなかったことは突筆すべきだ。つまり、隠れた行為構造を浮かび上がらせるモデル化によって、現実界を変貌させるのではなく、逆に自分がフィクションとして創りあげたものを、現実界の舞台に下ろすという詩人の試みについて、アリストテレスは一言も述べていないのである。

Ibid., pp.51-52

ゆえに、

なんらかの仕方でプラトンの観点(偽装としての模倣)をアリストテレス的モデル(認識上のモデルとしての模倣)のなかに統合できなければならないということになる。いかなる意味でフィクションが人類の文化的獲得物となるかを理解できるのは、唯一この二重の視点からなのである。(…)理解に努めなければならないのは、一方でまやかしとなる装置をさまざまな段階で利用しつつ、それと同時にこの装置の効果、つまりそれによって引き起こされる没入の度合いを制限する限りにおいてのみフィクションはフィクションたりうるということの意味である。そこで重要となるのが、あらゆる種類の「遮断」である。これは没入が、行為の所産をフィクションとして包括的に設定する語用論的枠組みに感染するまで広がることを防ぐものと見なされている。ロールプレイングゲームにせよ、夢想あるいは芸術的表象にせよ、あらゆるミメーシス活動にはこうした活動にはこうした遮断のメカニズムが見いだされる。プラトンがはっきりと見て取ったように、見せかけの生産として考えられた模倣は、固有の力学をもっている。その力学を決定するのは、唯一模倣と模倣されたものの同形性の程度、それゆえ模倣が可能にする没入の程度のみだ。この同形性がある一定の閾を超えるといかなる意図の下に産出されたものであれ、まやかしがその完全な効果を発揮することなる。こうしてフィクションの特徴となる部分的没入から、まやかしを特徴づける全的没入へと移行する。

Ibid., p.53

 さいきん個人的に「リアルとフィクションの同時性」ということを考えていたから、このあたりの記述はものすごく重要だと思った。あらゆるフィクションが、没入を観者に誘発させる構造(いわば疑似餌=ルアー)と、それをキャンセルする構造(これはフィクションですよという宣言)、そのどちらもを常に備えているということ。これによって人は、それが現実ではないということを理解しながらもしっかりと没入できるような、その両者をいったりきたりできるような、そういう体勢でフィクションと向き合うことができる。模倣対象との同形性(似ている具合)に応じた没入の誘発とキャンセルの度合いはものによって違うけれど、すくなくともこの両者を同時に成立させるための無数の形式があらゆるジャンルで実践されているのではないか、とぼくは思う。ぼくがいますごく興味があるのはこの、現実とフィクションを(仮設的であれ)同時成立させるための技術、その形式の類型だ。 

 これで第1章おわり(全4章)。シェフェールの文章がいささか晦渋なのでこの本の内容をまとめるのけっこうつらいのだけど(せっかくめちゃくちゃおもしろいのに…)、つづきはまた近いうちにやります。