OCT.6,2020_包み

 久しぶりにバルトの『表徴の帝国』を本棚から引っ張り出して読んでいるのだけど、おもしろい。大学の学部生のころとはぜんぜん違う発見がある。とくに「包み」という章は本質的な箇所であるように思った。この章はすごい。たとえば、

もしも、花束、品物、木、顔、庭、テキストが、そして日本の事物とそのありかたが、わたしたちに小さく見えるとしても(わたしたちの神話は、雄偉なもの、茫漠としたもの、広大なもの、明けはなたれたもの、をほめたたえる)、それは現実の小ささのためではなくて、いっさいの事物、いっさいの動作が、それがどんなに自由でどんなに動的なものであろうと、すべて《枠にいれられて》見えるせいなのである。縮小感は現実の大きさからくるのではなくて、事物がおのれの限界を定め、おのれをおしとどめ、終止しようとするところにうまれる一種の端整に由来する。*1

幾何学的であって厳密にデッサンされているくせに、しかもどこかしらにつねに折り目とか結び目がつけられていて、同時に、製作の配慮、技術、ボール紙と板と紙とリボンの遊びなどによって非対称的となっている日本の包みは、運ばれる品物の一時的な飾りではなくて、もはや包みそれ自体が品物の一時的な飾りではなくて、もはや包みそれ自体が品物なのである。包装紙そのものが、無料だがしかし貴重なものとして聖化されている。包みが一個の思想なのである。*2

しかし、たいていは幾重にも包まれたこの包みの完璧さそのもののために(人はなかなか包みをときおおせない)、包みが包みこんでいる内容(なかみ)の発見を包みはさきへ押しやる──そして包みこんでいる内容はおおむね無意味なしろものである。つまり、内容の不毛が包みの豊穣と均衡がとれていないという、そのことこそが、まさに日本の包みの特殊性なのである。果物の砂糖漬け、いんげん豆の砂糖まぶしの少々、俗悪な《土産物》(不幸にも日本はこれを生産することができる)、こういうものが宝石の場合と同じ豪勢な包装のされかたをする。つまりは相手に贈る肝腎なものは、包み箱そのものであって、包み箱の内容ではない、といった感じである。*3

包み箱は表徴の役目を果す。遮光カバーとしての包み、仮面としての包み箱は、それが隠し保護しているものと、等価である。と同時に、もしも、次の言いかたをその二重の意味、金銭と心理の二つの意味にとっていただけるならば、包み箱は《内容と代替可能》ということを示すものである。包み箱が包みこみ、そして包み箱が表徴するもの自体は、ひどく長い時間、《もっとあとに置かれる》ことになる、あたかも包みの機能は空間のなかに保護することではなくて、時間のなかに運びこむことででもあるかのように。*4

 ある種の動機づけをともなう象徴(シンボル)は、各々の事例ごとに個別の、特殊な、歴史との因果をもっている。他方で表徴(サイン)は、表徴するもの(シニフィアン)と表徴されるもの(シニフィエ)の統一体である。統一されているからこそ(統一された瞬間に)それは成立する。が、「包み」はその構図を脱臼させる。 表徴そのものが宙吊りにされてしまっている(上記の定義からしてこれはたいへん奇妙なことなのだが)、というか、表徴のまわりに渦巻いている「身振り」そのものが自律するようなことが起こる。梱包箱の作りの丁寧さは、包まれた贈り物を代理=表象するサイン(表徴)とはならない、とバルトは指摘する。たいていの場合、いざ開けてみると中の品物はどこか小さくて、ときにはしょうもなかったりするからだ。この「がっかり感」こそが重要だ、と*5。結果として、表徴=包みの物性が前面に出てくるからだ。包みとなかみの交換可能性、力関係の対等さ。バルトはこの点に、日本的な「小ささ」の端緒をつかんでいる。包みのなかにはつねに、小さくてコンパクトな「なかみ」がある。それは絶対的なサイズの小ささではなく、包みの精緻さ、物としての作り込みの過剰さに比して、その存在感が相対的に弱いということだろう。でもそれは、ある意味では、本質的な小ささだと思われる。なかみはすぐさま消費されるが、包みには耐久力があり、むしろ後者こそが「もっとあとにおかれる」。この時間的なパラドクス。

 この小ささは「空虚さ」と言い換えることができるだろう。緑と塀に守られた「禁忌」であると同時に、日常的な都市生活においてはことのほか「どうでもいい」(たんなる緑である)存在であるかつての江戸城、すなわち皇居を、バルトは空虚な中心だという。注目すべきは、都市スケールにおける皇居と同じような構造が、どこにでもある梱包箱に見出されている点だ。本書が重要なのは、各々のエピソードがどうかとかではなく、都市的なスケールから手元の箱まで、スケールの異なるエピソードからあるひとつの構造が取り出され、串刺しにされていることだろう。かつては全然わからなかったが、今読むとよくわかる(その手法に共感と限界を同時に感じながら)。構造主義者は、世界をそのままそっくり写すのではなく、様々な縮尺で、世界を(部分的に)模型化する。そして各々の模型は、さまざまな事象の背後にある機能(関数的な関係)を導き出そうとする。

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*1:ロラン・バルト: 表徴の帝国, 宗左近訳, ちくま学芸文庫, p.69, 1996(初版: 新潮社, 1974)

*2:Ibid., p.74

*3:Ibid., p.75

*4:Ibid., p.77

*5:「俗悪な《土産物》」という表現には笑ってしまった。バルトさん言い過ぎちゃう? と思ってしまった。地方のお土産とかのがっかり感をバルトも味わってしまったのか、とか思うとニコニコしちゃう。