JULY.17,2019_マティスの布置

 14日のブログでちらっとふれた平倉さんの論考「マティスの布置──見えないものを描く」(『ディスポジション:配置としての世界――哲学、倫理、生態心理学からアート、建築まで、領域横断的に世界を捉える方法の創出に向けて』, 柳澤田実編, 現代企画室, pp.217-234, 2008)は、おもにマティスが制作プロセスを記録写真におさめた作品である《夢》(1940)をめぐって書かれた論考なのだけど、平倉さんの分析が明晰で本当にすごくっておどろいた。

 まず論題にある「布置 disposition(disposer)」という語(あるいは操作)が、「構図(composition)」に対してどういう距離をもっているのかということについて。

 マティスは、白いカンヴァスの上に赤、緑、黄の「感覚」をまき散らす──ばらばらに置いていく poser。ばらばらに置かれた諸感覚を、後から装飾的な仕方で整えているわざが、「構図 com-position」である。だが、筆が加えられるたびに全体の構図は一つのまとまりにむかう一方、まき散らされた個々の感覚は「その重要さを失ってしまう」。いったい一つの画面として完成しており、同時に、そこにまき散らされた感覚のそれぞれもまた生彩を失わないような絵画はいかにして描きうるのか? すなわち「一つ」であると同時に「ばらばら」であるような絵画はいかにして描きうるのか?

 たんに「一つ」にまとまっているだけの絵画なら、どんな凡庸な画家でも描きうる。問題は、「一つ」であると同時に「ばらばら」であること、画面に置かれた諸感覚の離散的な自律性を、絵画の最終状態にまで持ち込むことだ。「布置」、すなわち「離れて-置く dis-poser」という語が指しているのは、この離散化の操作である。マティスのあらゆる「構図」すなわち「共に-置く com-poser」ことの基底には、「離れて-置く 」ことのアナーキーな運動がうごめいている。

平倉圭: マティスの布置──見えないものを描く, p.219

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△Harmony in Red, 1908(source: https://www.wikiart.org/en/henri-matisse/harmony-in-red-1908

 「ばらばらな諸感覚」を布置するとき、ふたつの危機が前景化する。ひとつは「図-地の崩壊」であり、これはマティスが絵画の新しい可能性として追求した、画面内の形態や色彩の知覚的な地位交代をもたらす効果だ。たとえば上の《赤い部屋》が、ぼくの目にはどのように見えるのか例示してみると、まず、装飾模様を知覚していたときに限りなく平面的に見えていた部屋の空間は、テーブルのレモンに目をむけたとたんに奥行きをとりもどすように見える。が、しかしながらそのような奥行きをもたらす視覚の「焦点化」は絶えず装飾模様により侵食される。窓(あるいは額縁)を見ると、それを風景を描いた絵画=平面とみなすと部屋は立体化するが、それを窓と見なして外部の風景を立体化したとたん、部屋の奥行きは装飾に侵食され一気に平坦化する。それが窓ではなく額縁であることを認め、「描かれた風景」として青空の下の草原に没入したときにのみ(絵画のなかで絵画をみているという状況でのみ)、部屋と風景のもつ空間性(立体感)は両立するように思われるが、このときレモンやワインピッチャー、パンなどは視界にとどめておくことができず、意識から遠のいていく。が、風景にうつる黄色い花に目を向けると、室内のレモンとのあいだに強烈な関係が生まれ、両者のあいだにいささか誇張された遠近法的「距離」が発生し、そのバランスはもろくも崩される。このとき両者のあいだにある生け垣は、「描かれた生け垣」ではなく、「本物の生け垣」にしか感じられなくなってしまう。すなわち額縁のなかの風景は絵画であることを拒否し、自身が窓であることを主張する。そのまま画面中央、室内の黄色い花に意識を移すと、レモンと花のあいだにもなぜか「距離」を感じてしまう。どちらもおなじテーブルの上で、すぐ近くにあるのに、遠い。混乱しつつも、画面左下に塗り残された緑色に注目すると、一気に赤色の部屋はペラッペラなってしまう(このとき感じるペラペラ感は異常だ。一気にすべてがクラッシュする感じで、この瞬間がぼくは一番すきだ。この絵画における「リセットボタン」みたいな感じ)。が、装飾のうえに置かれた赤ワインが入ったピッチャーがすんでのところでペラペラ化を食い止めている。再び空間が発生し、、、(以下ループ)、、、というような感じで、視線はあっちからこっちへと拡散し、空間は現れては消え、交錯し、焦点は定まらない。

 もうひとつの危機は「未決定性」の危機であり、これは「この赤い色彩はここには置かれえたし、あそこにも置かれえただろう。いったい、ほかならぬここに置かれなければならない理由は何なのか?」(Ibid., p.220)という問いに対して、自らの効果のありよう以外に回答をもたないことだと平倉さんはいう。

1945年12月、マティスはパリのマーグ画廊において、6枚の油彩画と、その制作プロセスを記録した写真を額装して展示した。画家自身が「教育的展覧会」と呼ぶその展示は、しばしば簡単な即興で描かれたとみなされてしまうマティスの絵画が、いかに多くに描き直しの後に実現されているかを示している。(…)しかしマーグ画廊で展示された記録写真は、完成までの苦労を見えるようにする一方、完成作の「完成性」を、再操作可能性へと開いてしまうような効果を持っている。記録写真に示されているように、画面全体のバランスをたえずとりながら描き進めていくマティスの制作プロセスにおいては、画面の各段階がつねにある意味で「完成」しているようにも見えるからだ。そしてそのどの段階が決定的な「完成」であるのかは見定めがたい。マティスの絵画において、作品に絶対的な「完成」はなく、ただ「中断」があるだけなのだと言ってもいい。

Ibid., p.222

しかし、アーカイヴ化された制作プロセスの存在やヴァリエーション作品、塗り直し跡等に着目することで、マティスが「単一の作品」を「絶対的に完成させる」ということに必ずしも固着していたわけではない、という方向にいくことには注意が必要だろう。たしかに終点はあきらかではないが、マティスの制作プロセスは後戻りできないような手順を踏んでいるし、「布置」の再構成がおこなわれるとき、そこにはあきらかに質的な飛躍があるからだ。

プロセスのすべての段階において画面が「完成」していた、ということが驚きなのではない。すべての段階において「完成」した布置があったにもかかわらず、ある特定の布置においてのみ最終的な「完成」が決断されたということが問題なのだ。

Ibid., p.223

平倉さんはここから1940年と1935年に描かれた「夢」という作品の詳細な分析を進めていくのだけど、ここまできて、各プロセスの分析を部分的に引用するということは無理だということに気がつく(ぜひ直接読んでみてください)。残念だけど、ここでは完成した作品だけをみていくこととしよう。

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△The Dream, 1940(source: https://www.wikiart.org/en/henri-matisse/the-dream-1940

すべてが「完成」した状態でありうるような布置の再構成のプロセスのなかで、画家が署名を決意するのは、自分自身ではもうこれ以上は手に負えないような質的飛躍が作品にもたらされたときであろう。ふたつの危機は、だから、密接な関係にある。「ばらばら」であると同時に、そこに決定的な「一つ」がもたらさたとき、筆は置かれるだろうからだ。何が「統一 unity」をもたらすのかは、もちろんその絵の主題に関わってくる問題であり、《夢》という作品にであれば重力との関係だろう。テーブルの奥行きがカンヴァス表面に向かって立ち上がり、右腕とともに「真上」からの視点によって捉えられ(幽体離脱的な視点!)、顔は「真横」から、背中は「斜め後ろ」から眺められるという分裂した印象がつくりだされ、黒いスカートは「下」に向かう重さを画面にしるしづけている。ほんらいはふんわりしているであろうスカートは硬質に描かれ、重さに支配されていることを示しているが、この重さは、右腕の肘を頂点にもたらされる浮遊感と強いテンションをつくっている。平倉さんによれば、この絵を決定的にしたのは、制作プロセスの最後にもたらされたこの右肘の立ち上がりだという。

ここで起きているのは、たんなる形態の単純化や平面化ではない。背中から頭部をつらぬいて右腕にいたる∩字状経路を確認する観者の視線は、「斜め後ろ」から「真横」そして「真上」へと不連続的に視点を移動させつつ、脱重力化された眠りの内部へ、すなわち「夢」の領域へと突入する。ここには、「画家のノート」のなかで若き日のマティスが理想として掲げていた、労働者たちの身体の「疲れ」(すなわち「重さ」)を癒やすための「肘掛け椅子」としての絵画が、まさに知覚的に実現されている。作品の最終的な完成は、観者の知覚を巻き込みながら重力を解消して「夢」の領域を開くという、この分裂した「布置」の発見に応じてもたらされているのだ。

Ibid., p.226

諸形態が分岐し、部分的にセリーをつくりながら、離散的に布置される。マティスが探り当てているのは、ひとつの「形態」としては同定することができないような、夢に落ちるときのあの遊離する感覚である。それは「見えないもの」であり、だからこそ、「ばらばら」な諸感覚を観者が巡ることではじめて発現する。「一つ」であると同時に「ばらばら」である、ということをもたらすのは、そうした、絵画の隅から隅までを巡っていく経験がもたらす感覚の、ある確信のようなものだろうと思われる。私たちの身体(の観賞経験)が、「一つ」をもたらすひとつの構成要素として、作品に組み込まれている、ともいえるだろうか。絵画の最後のピースとして、自らの身体をそこに投げ入れたとたん、「ばらばら」の諸感覚は「一つ」になる。マティスの絵は、どう表現したらいいかわからないけれど、観者を単に観者として安定した位置にとどめておくことを許さず、私たちを「描かれたもの」にする力があるように思う。

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PENTAX 67, SMC TAKUMAR 6×7 105mm/F2.4, FUJI PRO400H