JAN.20,2021_(Screenshot)

 土曜日に見たリー・キットの個展が良かった。毎回ほんとうにすごい。以下は記憶を追って書いているので、間違っている箇所があるかもしれないです。あしからず……

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 奥の展示室。プロジェクターが一台(高い位置に)置かれている。このプロジェクターからは分割された3つの映像が投影されている。窓際の写真、字幕、小さな植物がゆれる映像。窓際の写真が投影されている壁面には水彩紙にプリントされた写真作品がけっこうラフに(養生テープのリングとかで)留められ、映像と重なっている。プロジェクションされている窓は最初はShugoArtsの開口部かと思ったけれど、窓台があるから違う。おそらく作家のプライベートな生活に関わる窓だと思われる(水彩紙の写真も、ベッドの上に置かれた読みかけの本)。字幕とこの映像は分離していて、別の映像として壁面に映っている。もうひとつの小さな映像も分離していて、右手前に配置された間仕切り壁に当たっている。焦点距離が異なるので境界線も映像それ自体もぼやけているが、なんとなく枯れかかった植物が揺れていることは判別できる。この、まったく異なるリズムをもった映像群がひとつの光源から発されている(そして投影位置=焦点距離がズレている)ということが、個人的にはとても新鮮な経験に思えた。

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 L字型の間仕切り壁には展示室奥の壁面が丸ごと転写されている。展示室の壁面に掛かっている黒い絵画も一緒に転写されている。窓の一部も写っているし、コンセントも写っている。微妙に異なるスケール。

 ShugoArtsのふたつの開口部が、照明が当たっている窓とそうでない窓で微妙に色が異なっている。おそらく日が沈んでくると両窓に微差が出てくるのだと思われる。ライトボックスという考え方はShugoAetsの展示室としての性格に決定的な影響を及ぼしているけれど(天井に余計なディテールがないのは、間違いなく展示室に絶大な影響を与えている)、この照明があたっている方の窓は、時間によって様相が変わるということはあんまりないはず。他方、照明のない方は、L字の展示壁で囲われているのも相まって、時間帯によってかなり光量や色味が変化するはず。既存の壁がぐるっと90°回転してコピーされ、そこにさきほどのプロジェクターの映像が映り込んでいるわけだけど、この映像は左側の時間の変化によって色が変わっていく窓や場所と対応しているように見えなくもない。

 しかし、転写された壁面と同じような仕方で展示室の壁を見ることは、もうできない。そこには間仕切り壁があるからだ(そういう意味でも、この間仕切りは非常に巧妙だ)。その視点が阻害されるような圧倒的な不自由さが、転写されたイメージが明らかに過去のイメージ=写真であることを強調している。とはいえその表面にはプロジェクターから投影される映像がリアルタイムでうごめいているから、頭が混乱する。複数の時間が混在している、と。

 ここに転写されている黒い絵画がとても好きだった。角のディテールがとても好きだなと思う。しかしそれは転写された壁紙には写っていないから、90°右へ旋回して、壁に掛かっているリアルな絵画の方を見なくてはいけない。側面を見ることができるということが、とても絵画的な経験であるように感じられる。そして、今この展示室で起こっていることそれ自体が、絵画の内容自体にも折り畳まれているように思われた。モニターの映像のようなものが絵画の描画対象になっている。ピアノを弾いている手。ピアノの音が足元のラジカセ? から流れている。

 ある類似した構造をもった経験が、異なるレイヤーで、スケールで、方向で、反復する。何かを見ている、ということはもちろん、具体的な場所に立って、具体的な方向を眼差していることだ。この展示室にいると、目それ自体が、動くたびに複製されていくような感覚におちいる。

 展示室入口のプロジェクターの使い方もかなりおもしろかった。プロジェクターの前面には遮蔽物(布が貼られたIKEAのハンガーラック)が置かれているのだけど、ここでは「画面を目一杯に占めるひとつの映像」ではなく、おそらく、「画面のなかで余白をもってレイアウトされた映像」が投影されている。無論、作品内の余白(映像の黒い部分)は光にはならない。この余白の作り方しだいで、投影される映像はハンガーラックにひっかかったり、うまくよけたりする。たとえば映像のなかで大きな写真と小さな映像をレイアウトし、大きな写真はひっかからないけれど小さな映像はひっかかるという位置にハンガーラックを置いたとき、壁面には大きな写真がそのまま投影されると同時に、ハンガーラックの布を透過したぼやけた小さな映像が覆い重なる(ひとつの光源から発された光であるのにも関わらず!)。他方は純粋に壁に投影され、他方は障害物を透過してから壁に投影される。このとき、ハンガーラックの影もまた、壁面に投影された写真の前面に覆いかぶさる(加えて、その影の位置にはシナ合板が置かれている。たまたま置かれているような合板が、発生した影におおらかな枠組みを与え、縁取る)

 たぶん、こんな感じのことが起こっていると思うのだけど、なんど見ても、なんでこの位置にプロジェクターがあるのにここに影が……という感じで、けっきょくよくわからなかった。もう一回行って確かめようとは思う。遮蔽物(透過物)の角度とかが重要なのかな、とは思うのだけれど。それにしても、この展示を遠隔での指示で作ったというのが本当にすごい。キットはもちろんだけれど、ギャラリーのスタッフの方やインストーラーの方がそうとう優秀じゃないと成立しない展示だろうなと思われた。

 いくら書いたとて、形式的な操作には踏み込めても、内容までには踏み込めない。もちろん、けっきょく重要なのは後者なのだけど。でもそれは、どうしても言語化を拒むような領域であるような思われる。でも、それでいいのだとも思う。

 

(追記)

作家のプライベートな事物、場所、眺め、あるいは音が個別にパッケージ化され、国を隔てたこの場所で再構成されている状況は、移動が制限されているこの社会状況とは切っては切れない気がしてきた(キットがコロナ禍以前から同様の手法を用いていたとしても)。ここで自分は、今やより一層困難になってしまった「私的な訪れ」を可能にするいくつかの方法を確認できた気がする。一回性が、多分そこではとても重要になる(展示室の一部を転写し、展示を見る経験の中に展示室そのものを反省的に眼差し直す視点を導入することは、この一回性──観賞をその場限りのことにすること──に深く関わっていると思われる)