SEPT.27,2020_環境に埋め込まれた色

 Maki Fine Artsで開催されている末永史尚さんの個展「ピクチャーフレーム」を見た。*1 いつものように最終日に駆け込みだったが、たいへんによかった。

 今回展示されていた末永さんの作品群は、額縁(としかいえないようなもの)を模すようなかたちで、箱に緻密な彩色がなされているというものだ。末永さんは同様の仕方で、トイレットペーパーやメジャー、CDケースなどの日常的なオブジェクトを対象にした作品を制作されているけれど、今回の「ピクチャーフレーム」は、それらとは明確に異なる作品の質をそなえているように、ぼくには感じられた。たしか成相さんが以前、末永さんが制作される絵画的なオブジェクトは、フラットで、影がないことを特徴にしているということを的確に書いてらっしゃったと思う *2。でも、「ピクチャーフレーム」には影がある。影があるというか、影が彩色のパタンに組み込まれている。どうして額縁をモデルにしたとたんに、影と、影の原因となっている光源の存在をなかったことにできないのか、ということが、とても大切なことであるように感じられた。

 「ピクチャーフレーム」では、ほんらい絵画がそこにはまっている部分は単色で塗られている。しかし、額縁の上面や下面の装飾は、その彩度も明度も微妙に異なっている。単色での塗りは、額縁に納められた絵画がフラットで、その表面が均質に照明されていることを強調する。対して、額縁部分に刻まれた色彩の差異(おおむね上面が暗く、下面が明るい)は、額縁が宿命的にもつ凹凸と、天井付近に設置された光源がこの額縁が照らしている状況を示している。

 「ピクチャーフレーム」は、たんにジェネリックな額縁を模しているのではなく、ある個別具体的な環境に埋め込まれた額縁を模している、ということだろう。つまりある意味では、空間を模しているのだ。額縁の上面と下面の色彩と明度の対照は、モデルになった絵画作品がかつて展示室に存在していたという事実と、その展示室の上方から光が投射されていたという事実を包み込み、色彩を知覚する観賞者に配達する。

 だから今回の、額縁を対象にした末永さんの絵画作品を見たとき、ぼくは、別の展示空間がぼんやりと立ち上がるような不思議な感覚を受けたのだった。今回の展示のテーマが、事物というよりも、事物が埋め込まれた環境全体、空間そのものであるということは、例外的に配置されていたプロジェクターとスクリーンを模した作品によりいっそう引き立てられていたように思う。ここではない別の展示空間が、うっすらと、いまここの展示空間に重ねられるような感じ。この、複数の展示空間が混ざってしまうような感覚が、何か根本的に新しい状況のように感じられた。

 この感覚は「それが何であるか」という心の動きによってもたらされる。それを「額縁」と認識するときに要請されるのは、別の展示室でそれを見ているという視座と態度だ(「ピクチャーフレーム」がもつ空間の立ち上げという質は、額縁を模倣の対象にしているからこそ得られるものだと思われる)。しかし、しばらく作品を眺め、作品と私とのあいだの距離を測っているうちに、この作品は「たんに色彩である」ようなものとして見えてくる。「それが何であるか」という知覚のモードは、対象を記号として、すなわち別のオブジェクトの代理としてそれを見るという態度であり、「たんに色彩である」という知覚のモードは、それを「それそのもの」として見るということにほかならない。末永さんの作品の場合、制作技術の丁寧な積み重ねにより、両者が常に拮抗する。近づいてみると、地塗りや下塗りの痕跡、丁寧に制作された箱のディテールなどがよく見えてきて、見えていない面も彩色されているのだろうという気配を感じたりもする。記号ではない、このオブジェクトそのものの質、存在感のようなものが全面化してくる。色彩の美しさが、「いまここ」でそれを見ている感覚を呼び覚ましてくれる。

 しかし当の色彩の構成は、なんども書くけれど、モデルになった額縁が、ここではないどこか別の展示室で照明されていたという状況そのものと切り離せない。だからこそ、「それが何であるか」(それは額縁である)という心の動きによって仮構された別の空間と、「たんに色彩である」ことへの気付きによって呼び覚まされるいまここは混ぜ合わされて、その不思議な空間の重ね合わせのなかで、目の前のオブジェクトの色彩と出会うことになる。この一連の経験や、知覚のゆるやかな推移が、ぼくにはとても感動的で、美しいことだと感じられた。