DEC.19,2018_ソル・ルウィットについて

 ソル・ルウィット(Sol LeWitt,1928-2007)のプロジェクトで特徴的なのは、構想された概念(concept)がまずもってあり、展示される作品において展開されるのはそれを「表象する手続き」であるということだ。彼の言葉を借りれば、概念(concept)を表現するために用いられるものが理念(Idée)であり、理念を実行するためのオペレーター(演算子)として用いられるものが芸術家である。たとえばルウィットの『Variations of Incomplete Open Cubes』という作品を例に出してみよう。

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△ Sol LeWitt: Variations of Incomplete Open Cubes, 1974 

この作品は12の線材によって構成される立方体の総数122の“不完全な”パターンを書き上げた作品だ。ここでルウィットが主題にしているのは、何かを制作する際の「前提条件」そのものである。この作品ではルウィットが定めたルールが題名に全て集約されている──“立方体(open cube)”であることを保証するため、最低でも部材を3つ用いる必要があり、かつ、”不完全(incomplete)”であるがゆえに部材は最大11個までである。そして、そうした前提条件、ルールのもとできあがる形のバリエーションの総数が122となる。ここまでだと、まぁそういう作品もあるのかなという感じなのだけど、この作品がとりわけ面白いのは、展示の仕方にいくつかのバリエーションがみられることだ。たとえば122のバリエーションのすべてを展示するというものがある。この場合は、設定されたシステムと、それによって規定される有限なオブジェクトが直截に提示されることになる。ここでは造形物そのものの形態から得られるある種の印象や感想といったものは総じて否定され、「システムそのもの」としかいいようがない状況が展示される。

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その一方で、122のバリエーションのうち1つだけが展示されるという場合もあり(たとえば原美術館の中庭がそうだ)、このときには、すべてのパタンを展示するときとは異なり、本作品は何らかの「印象」を観者に与えることだろう。たとえば格子と白い立方体による造形に対して、「不完全である」ということの美学に関して、あるいはミニマリズムのイコンとして、そして、可能な組み合わせがあたかも無限にあるような暗示として。このとき本作品は、モダニズム的なアーキタイプとして観賞されることになる。

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しかしルウィットは本作の展示方法のひとつとして、「全て」でなく、あるいは「ひとつ」でもなく、122のうちいくつかを選び並べて置くという方法もとっている。たとえば下の写真は1977年にロンドンのLisson Galleryで行われた展示のインスタレーション・ビューだ。前述した2つの方法とは異なり、ここでは形態同士の純然たる差異が提示される。

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 あるひとつの形態の前段階には必ずいくつかのバリエーション群があって、そこでの比較や選択を通して、最終的に「ある形態」が提示される。これは多くの造形物に存在する普遍的な制作過程だとおもうのだけど、繰り返しになるが、ルウィットの作品で特徴的なのはこの制作過程の操作(オペレーション)そのものが前景化されていることである。異なる仕方で実体化・展示された3つの『Variations of Incomplete Open Cubes』は、おおもとの概念=前提条件それ自体は共通しているものの、明らかにまったく異なる性質をもった作品となって提示されている。なぜかというと、ひとつの概念が、異なる3つのアイデア=理念で“切り取られた”からだ。

 

 ルウィットの“コンセプチュアル”・アートとしての作品を、コンセプト=概念の内容だけに着目するのではなく、それを実行・実証するための即物的な手続きにも目を向けてみよう。ルウィットの作品において、コンセプト=概念を展示可能な形態に落とし込むための即物的な手続きを担うのは「理念(Idée)」である。これはいわば「インストールための指針」だ。

 理念は芸術を作る機械になるのだ(“Paragraphs on Conceptuel Art”, Artforum, juin 1967)というルウィットの言葉がある。複数ありうる「理念」が明確に存在しているとき、制作における計画や決定は「あらかじめ」おこなわれていることになり、制作者の作業は機械的な仕事となる。プログラムやインストラクション、アルゴリズムといった規則の機械的・盲目的な適用は、制作のプロセスにおけるあらゆる偶然性を停止させる意思を示している。コンセプチュアル・アートにおける理念(インストールの指針)は、しばしば芸術作品の「脱物質化」という文脈で語られるが、それは理念的ではあるが抽象的ではなく、実行や実現の規則を具体的に提示するものであり、作品が実現可能であることを実証する物理的な存在でもある(たとえばそれは、メモやスキーマ、インストラクション、装置といったかたちをとるだろう)。理念はそこで、プロジェクトを実行・進行する具体的な力となる。

 あるひとつの概念があって、そこからは多数のバリエーション、いくつもの可能性が枝葉のように伸びている。制作者は試行錯誤を繰り返す中で、それらを検証し、比較し、選択し、あるときには直観的な判断をおこなうことで、そうした概念と作品の間にまたがるいくつもの可能性の束を切断し、輪郭を少しずつ固めていきながら、具体的で有限の作品を制作していく。ルウィットの一部の作品は、こうした無限の概念と有限の作品の間にまたがる制作者の切断的な作業に自覚的であり、理念=手続きの触知可能な姿として展示されるのだ。

 

 ルウィットについて調べているときに、オランダの若手のアーティストで、今回取りあげたルウィットの『Variations of Incomplete Open Cubes』を再構築するプロセスを作品化している人をみつけた。Fleur van Dodewaardさんという方。

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Fleur van Dodewaard — 131 Variations

 ルウィットが示した「不完全なキューブ」は計122パタンだったはずだが、『131 Variations』という作品名が示している通り、ドーデワールドさんの作品では9つパタンが増えている。これは制作中の失敗も含めた数みたいで、プロセスのなかに混入してくる偶然性や恣意性、非合理性を意識的に捉えていくという試みみたいだ。ルウィットの制作においては、「概念」と「作品」のあいだに「理念」が位置づけられ、そして理念を実行するオペレーター(演算子)として芸術家が位置づけられていた。概念の展示室へのインストールに際して、理念と芸術家の身体は仮設的に交わり合い、無限を有限に降下させるためのひとつのオブジェクトとなる。このとき、芸術家(=手続きの演算子)が異なればとうぜん、概念が同じであっても、最終的にでき上がるものは異なってきてしまうわけだけれど、『131 Variations』はその点を鮮やかに示しているなと思った。

 同時にここでテーマとなっているのは、プロセスの実行には必ず偶然性が、失敗の可能性がつきまというということだ。ルウィットの考えでは、制作するということは「実行する」ということであり、それはあくまでの機械的な作業として位置づけられていた。それは恣意や気まぐれのニュアンスを帯びた「主体性」への批判であり、美的主体を不安定化させるものだった。しかし、だからこそ「偶然性」や「失敗」をテーマとする際にルウィットを扱うという態度は非常に理にかなっているのだといえる。ドーデワールド氏が扱う主体性は、ロマン主義的な素朴な主体性ではなく、主体性への批判として展開されたルウィットの仕事を機械的にトレースした先に否応なく残存してしまう、痕跡のようなものとしての主体性だからだ。偶然性や失敗を物質として保存し、展示すら可能にするのは、こうした残滓としての主体性以外にはありえない。