FEB,2.2019_中平卓馬のアナーキズム

 Google Search Consoleをチェックしていると、「中平卓馬」という検索ワードでこのブログに到達していただいている方が非常に多い(切ないことに、ぼくの名前で検索してくれている方よりも多かったりするくらいだ)。ということで今回は、「次回につづく(多分)。」といいつつ9ヶ月くらい経ってしまった以下の記事の続き(というか書き直し)

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例えばアナーキストの建築家、世界の根底からの転倒をもくろむ建築家などというものがはたして存在しうるものなのであるか否か。極論すれば、革命家と建築家とはそもそも形式論理からいっても敵対矛盾の関係にあるのではないか。(……)近代の建築の論理に反抗し、なおかつ建築家として作品を創り続ける、そのような建築家はいないものなのだろうか。(……)だが無念にも都市、建築の破壊は一手早く権力の側から行われているというのが現状である。すでに建設業者と建築解体業者とは手を結んで「列島改造」を進めている・権力の側からの都市の破壊、それに対するわれわれの側からの都市の解体・破壊はいかなる形態をとるべきなのか。そしてその時、建築家に何ができるか?それが今日の危機的状況を危機的に生きぬこうと決意した建築家に問われるたったひとつの問いなのではないだろうか。(……)だが、しかもなお建築家であることをひきうけつつ真の解放(むろんそれはあらゆる意味を含んでいる)を目指す者は、今一体、何を考えているのだろうか?*1

 1974年、中平卓馬は自身が表紙を担当していた『近代建築』誌上でいささか挑発的なテキストを寄稿する。64年の東京五輪から70年の大阪万博にむけて加速していた高度経済成長が公害問題やオイル・ショックにより一時頓挫し、70年安保改定を前にした全共闘運動がすでに息をひそめていた時期であり、同時に、大規模なスクラップ・アンド・ビルドによる都市空間の変貌の只中にあった時期のことである。中平が投げかけたのは、世界の普遍性・不動性に対する建築家のオプティミスティックな態度への批判であり、「アナーキストは建築家になり得るか?」という疑義であった。

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△ 『近代建築』1974年の表紙

 その確信に満ちた口調の背景にあったのは「今をときめく黒川紀章の一冊の薄っぺらな本」で彼が感じた、建築家の、世界は無限に安定をかさねてゆくであろうといった歴史観、あるいはバラ色の未来を描くその世界観への、“ほとんど生理的な反ぱつ”であったという。岡崎乾二郎が指摘しているように*2、黒川をはじめとした戦後のメタボリストたちの計画で実装されたのは、中心となる主体の座(コア=インフラとなる主要部分)を永続させるため周辺の消耗的な部分を交替させるという仕組みであった。つまるところそれは基幹構造(政府であり交通網でありインフラ設備であり、なにより当時未来のエネルギー源として期待されていた原子力発電所)をむしろ強化するシステムであり、近代的な政治権力をより一層増長させるものにほかならず、中平の指摘する通り、このときまさに建築家はアナーキストとは正反対の立場にあったのである。

 上記の中平の疑義はあくまで〈建築〉に向けられたものだが、しかしこれは同時に自己批判でもあった。このテキストからおおよそ2年前の1972年、中平は『プロヴォーク』の総括を以下のように綴っている。

われわれの戦線は明白に二つの領域にわたっている。第一に権力による具体的な政治的な情報操作の領域、第二に、それこそがエンツェンスベルガーのいう「意識産業」の主要なホーム・グラウンドであるが、われわれの日常に深く浸透する日々の意識と感性の操作と収奪、その二つにいかに具体的な反撃を加えてゆくか、それがわれわれの二つの戦線である。だがむろんのことこの二つはともに「人間と人間の関係」に根ざすものである以上、必然的に政治的な戦いにならざるを得ないだろう。*3 

 マス・メディアのなかで仕事をするしかないということを引き受けながらも、ただそれをいたずらに非難するのではなく、具体的かつ現実的な実践を通して批判していくこと。具体的にはこの後、「植物図鑑」というコンセプトで、「まず第一に〈関係〉であり、人間と事物と空間との〈媒介項〉」*4 である都市を解きほぐし、開いていくための写真の視覚的実践のモデルが提示されることになる。

 中平の実践は、往々にして1977年9月の記憶喪失の病をさかいに分別される。しかしそうではない。いささか伝説化してしまっている記憶喪失の前後の中平の実践はむしろ驚くほど連続しているのであり、同時に、中平の後期の写真作品はまさに上記の「第二の戦線」(日常に浸透する日々の意識と感性の操作)に差し向けられたものなのである。

茫漠とした日常性においてこそ情報社会におけるマス・メディアが果たす真に政治的な役割があるように私には思える。マス・メディアはわれわれの日常性を制度化し、そのことによってわれわれの感性を制度化し、統御する。*5

 この一点に、建築的な実践が「生の解放」のためになすべき政治的闘争と、中平の写真実践が重なる地平を見つけ出すことができるかもしれない(建築家であるぼくがこういうテキストを書いているひとつのモチベーションはそこにある)。そのうえで本稿が企図するのは、私たちの生を枠付けている制度への違反・冒険・逸脱の形式を中平自身の言説及び制作物から改めて取り出すことで、記憶喪失以前の中平の言語的実践と、以後の写真実践の間のなめらかな連続性を位置づけなおすことである

 

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 「個人的主体の自律性」と「社会の際限なき発展」という近代のふたつの信仰は、「理性主義」という概念において重なり合う。世界の有り様にはすべて必然的な根拠があり、あらゆる真理は理性によって論証される必要があるという理性主義は近代に特徴的な啓蒙的思想である。非論理的な因習の脱却を目指した「理性」は近代的な主体の第一の行動基準であり、近代人はそれを賭け金とすることで、「個人の自由」あるいは「主体の自律性」の実現可能性を得た。しかし同時にそれは、「生産性」に応じて最大の利益を得るプロセスを約束する枠組みでもあり、社会の資本による合理的な支配とその滑らかな運用の基盤となる概念であった。

 この「個人の自律」の功罪こそが追求されるべき大きな問題だったのであり、だからこそ「理性」は資本制に対抗する政治的・文化的・社会的闘争の場となる主要なサブジェクトだった。左翼運動の画期となったのは1968年5月、「学生紛争」という前代未聞の出来事による地政学的な危機である。中平もまた「熱い」運動に見を投じたひとりであった。しかし、武力を用いた左翼運動の激化とその悲惨な結果を受け、国民は急激に脱政治化していくことになる。その後出現するのはコルネリュウス・カストリアディスが「順応主義」と定義したもの*6、すなわち政治的な問題の理解の拒否・無関心という姿勢である。資本主義的な合理性に対する体系的な批判が息を潜め、代議制民主主義が消極的に受容され、「多元論」と「差異の尊重」に重きを置かれるようになった時代。まさに我々が生きてきているこの時代だ。

 近代社会が目指した自律性、それは個人の主体性を約束するものであった一方で、コインの裏側にはあったのは、政治的主体を生産-流通-消費の網の目に絡みとることで資本の支配下におくという生権力人々の生に働きかけ介入しようとする近代産業社会の権力構造)である。中平が初期の「アレ・ブレ・ボケ」を用いた写真制作で目指したのは、こうした高度に発展した資本制における循環-流通-消費の不可視のシステムを「切断」することであった。しかし先に示したように、その後の中平の制作は「第二の戦線」(日常に浸透する日々の意識と感性の操作)へと、つまり、写真というメディアがもつ生権力への直接的な攻撃というよりは、むしろ日常に根ざした内在的な批判に移行していく。

はっきり言ってしまうならば、状況をひきうけて〈私〉は初めて成りたつのであり、エンツェスベルガーが一笑に付すように、隠れ家としての〈私〉などはない。それはブルジョイ・イデオロギーがふりまいた幻影としての個=ワタクシであるにすぎない。(……)なぜいまさら〈私〉をことさらに言いたてる必要があるのか。反対に〈私〉を世界に向かって開き、〈世界〉に対して事物に対してできうるかぎり「受容的」であることがいまこそ必要とされているのではないか。(……)われわれは毎日毎日をひとつの意味の体系としての〈遠近法〉にしたがって生きている。この〈遠近法〉はわれわれの行為と経験、身振りと習慣、こういったものがより合わさってでき上がったものである。*7

 エンツェスベルガーが『意識産業』でしめしたのはまさに、情報産業が裏打ちする権力構造のなかでは自律的な個というのは存在せず、ずたずたに引き裂かれているという現実であった。近代が目指した個の自律性が生み出したのは、世界の有り様をあらかじめ規定する〈遠近法=パースペクティヴ〉であり、事物や経験、習慣の布置は措定された「架空の消失点」によって統御される。中平が求めていたのは、写真というメディウムがもつ「受動性」をラディカルに引き受けることで、規定の〈遠近法=パースペクティヴ〉を撹拌し、その先に、事後的かつ仮設的に軽やかな主体性を再-編成する可能性であり、そしてそのための新しい写真制作の方法を見つけ出すことであった。『アサヒカメラ』で「決闘写真論」連載されていた76年は、多木浩二の『生きられた家』が出版された年でもある。すでに主戦場は、ゆるやかに、日常的な環境への批判的実践へと移りつつあった。

 ここで、『プロヴォーク』以降の中平の制作の軌跡を簡単に紹介しておこう。中平は1968年創刊の『プロヴォーク』、そして70年に刊行した写真集『来たるべき言葉のために』において、グラフ・ジャーナリズムの予定調和的な物語づくりへの徹底した批判を展開し、風景と対峙した。中平はここで欧米や日本における大量消費社会、あるいは情報社会の到来に対して視覚の不確かさをラディカルなかたちで提示することに成功する。が、それがアクチュアルな状況への批判であればあるほど、そのときの「否定の身振り」はスタイルとして消費され、瞬時に陳腐化してしまうだろうことは、中平自身がもっともよくわかっていたことであった。

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△中平卓馬『来たるべき言葉のために』, 1970

 

 翌年のパリ青年ビエンナーレでは、とりわけ制作過程が重きにおかれることになる(《サーキュレーション 日付、場所、行為》)。中平はパリを縦横無尽に撮影し、大量のプリントを日々追加・変更を繰り返しながら展示した。それは写真家が自らを作品の演算子=オペレーターとして位置づけることで「書き直し」をくりかえす新陳代謝のプロセスであり、エンゲルスが『自然弁証法』で示した物質連関=物質代謝の様を――黒川らメタボリストよりもよほど正確に――描き出していた。生命活動において、敵に食われるということは敵の身体を自己の身体をもって作り直すことを意味する。つまりそこでは自己と他者、敵と味方の対立がなんなく止揚してしまうのであるが、まさに中平は《サーキュレーション》において、モノとイメージの断片が循環・流通するさまをインスタレーション化すると同時に、自らの身体をそうしたフィードバック・プロセスのたんなる媒介物と化すことで、遠近法的世界観に固着した主体性を解体・廃棄するのである。それは68年の熱気が冷めやまぬパリという場にあって、強烈な批判的実践であった。

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△《サーキュレーション 日付、場所、行為》, インスタレーション・ビュー, 1971

 

 74年、東京国立近代美術館で開催された「15人の写真家」において中平がおこなった制作《氾濫》は、《サーキュレーション》から地続きの問題意識のなかにあり、73年の「なぜ、植物図鑑か」(以下、「植物図鑑」)で提起された問題と並行している(fig.2)。冒頭で引用した中平の論考「アナーキスト」が発表されたのは74年であり、《氾濫》には『近代建築』誌上で発表された写真も含まれている。間違いなく《氾濫》および「植物図鑑」で結晶化している問題意識の本質こそ、筆者がここで取り出さなくてはならないものだ。

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△《氾濫》(写真: 1995年 東京国立近代美術館)

  

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 《氾濫》における問題意識について、フランツ・K・プリチャードは次のような分析をおこなっている。

《来たるべき言葉のために》に支配的だった様式から離れて、都市の物質的現実をカラー写真でとらえたこの連作を通して明らかに示されているのは(……)「植物的なもの」の諸形態に対する、境界画定的な分離と不気味な遭遇の二つの感覚である。安全な距離感覚を所有せず、風景に対して抗議の声をあげるための適切な言葉を欠いた「植物的なもの」。この呼称は、異質な次元を媒介する関係の諸形式を開こうとする、暫定的な方法を意味した。*8

「植物」は中平にとって、「樹液=血液、葉脈=動脈という類縁、一瞬ぼくの心を安堵させるなにかしらの人間的なものがある *9」一方で、「防水性の外皮」による感情移入の拒絶をもたらすものであった。つまり植物は、人間でなく、かつ人間でなくもないような、両義的な存在を範例として示すものだったのである。都市のなかで出会う「植物的なもの」。中平はこの存在に、人間と人間、人間と事物の関係を固着化する一元的なパースペクティヴを脱構築する可能性をみていた。「なぜ、植物図鑑か」での記述をみていこう。

世界と私は、一方的な私の視線によって繋がっているのではない。事物、物の視線によって私もまた存在しているのだ。(……)いかにも私は世界を見る、だが同時に世界は、事物は私に向ってまた物の視線を投げ返してくるのだ。そこには私の視線を拒絶する世界、事物の固い〈防水性の外皮〉がただあるばかりである。(……)写真を撮るということ、それは事物の思考、事物の視線を組織化することである。(……)おそらく写真による表現とはこのようにして事物の思考と私の思考との共同作業によって初めて構成されるものであるに違いないのだ。*10

 中平が示した方法は事物と私の共同作業、いわば非-人間とのパースペクティヴの交換であった。事物を凝視すること、と、事物に視線を投げ返されること、の同時性。多木が指摘していたように*11、こうした「身体を世界に貸し与える」という態度は、『来たるべき言葉のために』の時点ですでに発現していたものである。そこにはロマンティシズムへの欲望がわずかに残存していたが、「植物図鑑」の時点では、もはや情緒はノイズでしかなく、徹底して排除すべきものになっていた。

たしかに一枚の写真をとりあげてみる限り、それは私という一点から一方向的に覗き見た空間を呈示しているだけにすぎない。だが一枚の写真の空間に限定するのではなく、時間と場所に媒介された無数の写真を考える時、一枚一枚の写真のもつパースペクティブは次第にその意味が薄められてゆくのではないか。つまり、そうすることによって時間に媒介され、無限に乗り越え、乗り越えられるもの、それはまさしく世界と私、それら二次元的対立をつつみ込んだ場としての世界の構造を明らかにしていくことが可能なのではないか、ということなのである。そこにはもはやスタティックな私と世界という図式は消え、無限に動き続ける無数の視点が構造化されてゆくのではないか。*12

 《サーキュレーション》におけるおびただしい数の写真の列挙、あるいは《氾濫》における都市の「不気味なもの」の凝視といった姿勢は、こうしたパースペクティヴの複数性を目指す姿勢に基礎づけられている。「都市は氾濫する。事物は氾濫し、叛乱を開始する。大切なことは絶望的にそれを認めることなのだ。それが出発である*13」。中平が政治的闘争の場として目指したのは、人間中心主義を脱した先にある「私の視線と事物の視線が織りなす磁気を帯びた場」であった。

植物、図鑑、そしてこの二つの語の繋がりは奇妙に私の関心をひく。(……)なによりも図鑑であること。魚類図鑑、鉱山植物図鑑、錦鯉図鑑といった子供の本でよく見るような図鑑であること。図鑑は直接的に当の対象を明快に指示することをその最大の機能とする。あらゆる陰影、またそこにしのび込む情緒を斥けてなりたつのが図鑑である。(……)あらゆるものの羅列、並置がまた図鑑の性格である。図鑑はけっしてあるものを特権化し、それを中心に組み立てられる全体ではない。(……)この並置の方法こそまた私の方法でなければならない。そしてまた図鑑は輝くばかりの事物の表層をなぞるだけである。その内側に入り込んだり、その裏側にある意味を探ろうとする下司な好奇心、あるいは私の思い上がりを図鑑は徹底的に拒絶して、事物が事物であることを明確化することだけで成立する。これはまた私の方法でなければならないだろう。*14

 中心をもたない全体のなかで、事物が並列・併存すること。「図鑑」はあくまでの写真的な手法だが、それは都市環境あるいは「見ること」の近代的な統制に対する批評行為のための方法論でもあった。

 植物図鑑。すなわち、人間でなく、かつ人間でなくもないような事物とのパースペクティヴの交差の場を並立・併存させること。日常のやりきれない世界のなかにあって、しかし、決して一元化されえない無数の事物たちによる葛藤・抗争の場がそれでもありうるのだということを、たとえフィクションだとしても、示すこと。中平にとって写真の可能性はこの一点にこそあったのではないか。特定の枠組みの秩序に回収されえない自由な身体と精神の場を、写真というメディアのもつ特性を最大限酷使することによって表現するということ、それが中平のアナーキズムである。 

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(つづく?)

*1:中平卓馬「アナーキストは建築家になり得るか?」, 『近代建築』, pp.37-38., 1974.6

*2:岡崎乾二郎『抽象の力』, 亜紀書房, p.274, 2018

*3:中平卓馬「記録という幻影」, 『なぜ、植物図鑑か 中平卓馬映像論集』, 筑摩書房, p.73, 2007

*4:中平卓馬「アナーキストは建築家になり得るか?」, p.38

*5:中平卓馬「記録という幻影」, pp.66-67.

*6:カストリアディス「自律からの後退: 一般化された順応主義の時代」, 『細分化された世界』, 右京頼三訳, 法政大学出版局, 1995

*7:中平卓馬「まち――見ることの遠近法」, 『決闘写真論』, 朝日新聞社, pp.77-80., 1995

*8:フランツ・K・プリチャード「都市氾濫の図鑑――中平卓馬の写真的思考と実践」, 倉石信乃訳, 『氾濫』, Case Publishing, 2018

*9:中平卓馬「植物図鑑」, 『朝日ジャーナル 1978年8月20・27日合併号』

*10:中平卓馬「なぜ、植物図鑑か」, 『なぜ、植物図鑑か 中平卓馬映像論集』, 筑摩書房, p.p.19-20., 2007

*11:多木浩二「来るべき言葉のために――中平卓馬の写真集」, 『写真論集成』, 岩波書店, 2003

*12:中平卓馬「なぜ、植物図鑑か」, p.28

*13:Ibid., p.31

*14:Ibid., pp.34-35.