OCT.30, 2018_サンテリア幼稚園

イタリアで撮った写真⑩

 

「カサ・デル・ファッショ」から「サンテリア幼稚園」へ。今回の旅行で最も感動した建物だった。というか、ぼくの生涯でいまのところナンバー1だ。あきらかに。散々図面や写真で見てきたが、その想像を遥かに超えてきた。実はそういう建物はそう多くはなくて、大体は「予想通り」であり感銘は受けても驚きはなく、建物を見る作業が単なる確認になってしまうことが多い。しかし、「サンテリア幼稚園」は違った。

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多分夏休みなのだろう、児童はいない。ずっと書籍で想像していた建築が目の前にあって感慨にふけっていたら、その気持ちが通じたのか、中年の女性と初老の男性に声をかけられた。「この建築を見に来たの?昨日窓清掃があって遊具や机を倉庫にしまっているのだけど、ちょうど今から配置を元に戻す作業をするから、そのあいだは内部を見学してていいよ」、と。なんという幸運!

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足を踏み入れたその先は別世界だった。 この空間を言語化するのは容易ではない。ともあれ、「詩が生まれるとするならばこの私の視線と事物の視線とのまったき非和解性その敵対性に目をつぶり私の気分によって事物の輪郭をぼやかす時にしかありえない。それはあきらかに私の思い上がりでありと同時に私の眼の怠惰だ。」(中平卓馬: なぜ、植物図鑑か 中平卓馬映像論集)と中平が言うように、あまりに素晴らしい表現を前にして即座に言語化を諦めてしまうのは知的怠慢であって、ぼくらにはこれ以上語りきれないというところまで語り切る責任がある。

この建築をめぐり、「透明性」という観点からなにかテキストを書こうと思ってちょくちょく書き溜めているのだけど、一向に終わる気配がないので先に写真だけ放出してしまおう、というのが今日のブログだ(できる限り早く書き上げて後ほどnoteの方で公開しようと思います)。コーリン・ロウの「実の透明性 / 虚の透明性」を書き換え、OOOまで接続するような内容になっているので、お楽しみに(楽しみにしている人なんかいるんだろうか、と思ったりもするが、いると信じて、、)

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△ 写っているのは中に招き入れてくれた園長先生と保母さん。

 

この幼稚園を訪問したときに最初に見えてきたエントランスが、図面からイメージしていた空間と較べ、スケール感がずいぶんデッカイなとびっくりしたのをよく憶えている。幼稚園なのに天井もいやに高くて、幼稚園離れしたこの空間の大きさとガッシリとした佇まいが羨ましい気がした。そして、子どもたちの頭の上に広々とした空間が広がっていることも、ものすごく豊かで贅沢な感じがする。休憩時間にワイワイあつまった小さな幼稚園児たちの頭の上の大きな空間を想像してみてくれよ。小さいものには小さいスケールを、みたいな近代的な基準とは違いますね。この壮大なスケールのなかで子どもが育ったら、やっぱりいいんじゃないかな。(鈴木了二: ユートピアへのシークエンス, LIXIL出版, p.493., 2017)

了二さんのこの指摘は本当に的を得ていると思う。どこまでも空間が広がっていき、そしていくら歩き回っても全体像を掴ませてくれないこの建築の知覚体験は、実際の寸法以上の大きさを我々に感じさせ、身体だけではなく精神までも解放されるような感触を与えてくれるように思う。なんてことはない、ワクワクするのだ、単純に(中平に叱られそうな言葉だ)。

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△ Attilio Terragni, Daniel Libeskind and Paolo Rosselli: The Terragni Atlas, Skira, p.117., 2005

目の前にあるのは透明さの不透明さと、不透明さの透明さ、として透明さの透明さだ。ここで繰り広げられているきわめて高度な建築的営為の数々は、そのすべてが子どもたちのために差し向けられている。そこに感動する。

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さて、いくらテラーニが筋の通っていない要求に断固として対抗した人物であったとしても、やはり「カサ・デル・ファッショ」で感じられたのは、彼の建築特有の「合理を徹底した先にある折衷的な面白さ」は十分に発揮されていないのではないか、ということだった。「サンテリア幼稚園」は、ブルーノ・ゼーヴィが「猛り立った論争と過酷な闘争との状況下で、まったく例外的に穏やかな時期に誕生した作品(ブルーノ・ゼーヴィ: ジュゼッペ・テッラーニ, 鵜沢隆訳, 鹿島出版会, p.154., 1983)と評しているように、政治的なバイアスから逃れて、まさに「テラーニ的」ともいえるような独特の空間性を例外的に実現した、ほとんど唯一ともいっていい建築だと思う。

二つの作品「サンテリア幼稚園」と「ヴィッラ・ビアンカ」で代表されるこの時期の作品は、確かに「詩的季節」と名付けるに相応しい静寂な時を暗示させる。(……)体制権力とは無縁の建築の中でイタリア合理主義が静謐な果実を実らせたのは、その後迎える不幸な結末がすでに歴史的事実でもあるだけに一層悲劇的な暗示となって浮かび上る。 政治的プロパガンダとは無縁な「サンテリア幼稚園」を介して、テッラーニのラショナリズムは「カサ・デル・ファッショ」とは異なる土壌で再び開花する。(……)「カサ・デル・ファッショ」は当時からすでに合理主義者の側から、「拘束されたインスピレーションに基づく」構成の堅苦しさが指摘されていた。(……)それに対して「サンテリア幼稚園」は、堅苦しさへの批判に答えたテッラーニの解答とも言え、より自由度が獲得されている。(……)東側の日除けテントの構造型枠から後退した壁面と向かい合うのは、構造枠組みを内側に隠蔽したガラス面である。つまり構造枠組みは構成の基調音へと還元され、そこから解放された建築の輪郭が音程を暗示するかのように、それに近寄ったり離れたりして、この建築の音楽を奏でているようである。(Ibid., pp.152-153.)

 「カサ・デル・ファッショ」と「サンテリア幼稚園」が大きく異なるのは、柱や梁といった構造的なエレメントと、内外の境界となり内部空間を分節する壁面やガラス面が分離し、後者がパラレルに動かせるようなシステムが実装されているということだ。

下の写真右手では構造フレームから壁面が後退しているが、この壁面は構造を引き受けていないので水平連続窓が端から端まで連続している(くわしくは2つ下の写真を)。一方左手では構造フレームからガラス面が外に飛び出している。 こちらも当然構造を負担しない部分なので、天井にもガラスが用いられ、さながら「極薄の温室」ともいえるような空間となっている(3つ下の写真。ちなみにデュシャンのいう「アンフラマンス」はこの建築を理解するうえでもキーワードとなる。「虚の透明性」と合わせてnoteでの論考で取り扱う)

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下の庭に飛び出したフレームもわかりやすい部分だ。このフィーレンディールのフレームにはオーニング(日よけのスクリーン)が仕込まれていて、クランクを回すと建物側に飛び出す仕掛け。普通は建物側につけるところだけど、テラーニは庭へと飛び出させている。ひとつひとつがこの建築の空間がもっている、閉鎖的でなく解放的な世界の広がりをつくる要因となっている。

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△ Attilio Terragni et al.: The Terragni Atlas, Skira, p.89., 2005

 

了二さんにしろぜーヴィにしろ、そこで指摘されるのは「粉砕」や「振動」といった言葉で表現されるような性質だ。柱と壁、あるいは梁と天井の癒着が解き放たれ、壁や天井は自由に振る舞う。柱と壁が一体となって安定した構造体をつくるのではなく、両者は各々の身分をもち、各々に異なる役割を果たす。伸びやかに、ときに過剰に、あるときはジョークのように。

もうひとつ気になったことは、内部にいるのに、あたかも外にいるような錯覚をうけたことだった。下の写真の右手(水平連続窓のある壁のエッジのあたり)をみてほしいのだけど、中庭がひとつの光り輝くボリュームになって、あたかも外側から建物の角を眺めているような感触をうける。2つ下の写真では、観音開きのドアが内側に向かって開かれている。その先にあるのは例のフィーレンディールフレームと、こちらに伸びるオーニング。まるでこちらが外で、庭側が建物の内側のよう。内と外が位相的に捻じれるこの経験によって、内部を探索することで頭のなかに仮構される建物全体の骨格は絶えず修正を求められる。結果として得られるのは組み尽くせない、味わい深い全体性だ。

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一通り写真を取り終わったころ、「机の移動、手伝ってくれない?」といわれ、当然断るわけにもいかず、一時間ほどお引越しを手伝うことになった。割と半端ない量の机椅子・遊具が倉庫に収められていて、けっこうな重労働だったけれど、とてもいい経験になったなぁ。園長さんと保母さんは大変おおらかな優しい方々だった。ここで幼少期の貴重な時間を過ごす子どもたちは、きっとのびのびとした子に育つんだろうなと思う。おおよそ100年前、政治的なプレッシャーから逃れた場所で唯一テラーニが本来の力を発揮したのであろうこの建築は、今でも生き生きと使用されている。建築家にとって、あるいは建築にとって、これほど幸福なことはない。

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△ Attilio Terragni et al.: The Terragni Atlas, Skira, pp.108-109., 2005

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Giuseppe Terragni: Asilo infantile Sant'Elia a Como, 1934 / 1936-37, Como, Italy
(Canon AE-1 Program, FD F1.4 50mm, 記録用フィルム 100)

 

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おまけ。

設えの機構を丁寧に説明してくれている園長先生。なんて親切なの、、。ちなみにぼくはこのドアや黒板の動き、現場で始めてみた。あまり作品集とかでは取りあげられていない気がするけど、かなり面白い。先生が可愛かったのでパシャパシャiPhoneで写真を撮っていたけれど、なにげに貴重な資料なのでは。

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