JAN.21,2018_家形と家型

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 《代田の町家》(設計: 坂本一成、1976)の発表時にはまだ「家形」あるいは「家型」という言葉は用いられていない。それどころかこのプロジェクトはもともとRCで計画されていて(最初しったときはびっくりした)、ゆるい勾配の切妻かつ袖壁を備えたあの外形は、やむをえない事情で構造形式の変更を求められたさいに、木造住宅の持っている自然な存在様態を突き詰めていった先ににあらわれたものだった。

「代田の町家」は最初はRCで計画しましたが、ある事情で木造に変わった。RCのときはフラットルーフだったのですが、木造に変わっても、全体の構成はほとんど変わっていない。変わったのは、外形です。雨仕舞による勾配と木造がもっている自然な形態ですが、木造的軽さとも関係あると思いますし、軽さを含めての自然さとも言えますが……、またたまたまこの敷地の斜め前に、勾配屋根をもった教会があったものですから、ゲニウス・ロキとまではいわなくとも、いくぶんそうした土地の雰囲気に同化しようという考え方があったかもしれません。(……)家型という言葉にも多少の誤解があり、私としては、必ずしも勾配屋根をもっているから家型と言ったわけではなく、住宅がなんでもなくその場所に成立するあり方を突き詰めていったときに、そのように出現する住宅の形式に家の型という言葉をあてがったわけです。*1

《雲野流山の家》(1973)からの大きな変化として坂本さんが意識していたのはあくまで、入れ子状の構成から室が隣接する形式へ、という構成上の変化だったはずで、外形の問題はあくまで付随的な、竣工後に前景化してくる問題にすぎなかった。

 その後、1979年2月の『新建築』において《南湖の家》、《坂田山附の家》、《今宿の家》とともに発表された論考「家形を思い、求めて」ではじめて「家形」という言葉が登場する。しかしここでは「家形」が「家型」ではないことに注意する必要がある。坂本さんが後者の「家型」という言葉をはじめて用いたのは、1979年6月の『新建築』──両義的なことの内に」においてだ、とぼくは思ってたのだけど(『建築に内在する言葉』収録バージョンはそうなってるのだが)、よくよく『新建築』掲載時のテキストを確認してみると、ここで使われているのは「家形」であり、「家型」が初出するのはその次の言説「覆いに描かれた〈記憶の家〉と〈今日を刻む家〉」(1980)からである。「建築での象徴作用とその図式」での「家形」から「家型」への修正に関しては、おそらく『建築に内在する言葉』収録時に坂本さん自身が文脈に合わせて修正したのではないかとおもう。言語に使用にきわめて厳密な坂本さんらしいエピソードだし、両者の“使用方法”が、すくなくとも坂本さんのなかでは明確に分別されていることがわかる。そして1979年前後という時期が少なくとも、「家形」と「家型」が重ね合わされている狭間のタイミングであったということはいえるだろうとおもわれる。

 「家形」が“house form”、すなわち単に家のかたち自体を示しているだけでなのに対し、「家型」は“house type”であり、ここでは建築の元型としての〈家〉あるいは〈家のイメージ〉が問題となっている。この一般的には見逃されがちな「家形」から「家型」への用語の微妙な変化は、こういった意味のわずかな(かつ重大な)変化を明らかにしている。前者で重視されていたのはあくまでモノとして覆い=架構の自然なあり方や構成材の関係の仕方であったと思うが、後者ではイコノロジーも射程に入っているわけで。たとえば「家形」という用語を使用していた際には、家の外形をトートロジー的に表徴し〈機能性記号化〉することで、家のかたちが持っている二次的な意味の発生を抑えるという「意味の消去」の文脈で用いられていたと思うのだけど、「家型」の場合には、なんでもない家のかたちがステレオタイプとしての通俗性を持っていると同時に、人間の個別性を超えて存在する深層の構造をももっているという、文化人類学的な考察が含有されていた。

建築の外形の類型とは、私たちの祖先が自然界の、たとえば横穴の転用を超えて、原始的ではあっても人為的架構として家のために覆いをつくって以来、それと同時に現れたその覆いのかたち自体に、その覆いによって形成されている人の生活し、住まう家を投象し、かたちという具体的なものに〈人の住まう場〉という抽象的なことを結びつけた家のかたち、つまり〈家型〉を徐々に人の心の内に形成してきた、そうしたかたちと考えられる。このような祖先以来の〈人の住まう場〉を連想させるかたちを、ここでは元型(アーキタイプ)と呼んでいる。*2

1980年のこのテキストでは、「家型」が単に架構の自然な状態を目指したものである(=「家形」)ということを超え、「〈住まう場〉の元型を表徴する覆いのかたち」であるとされる。「代田の町家」でやむをえない計画上の理由で採用された「家形」が、その後は思考の対象として明確に意識されるようになり、より図像学的な「意味」の次元での考察が進められていく、という展開。その狭間が1979年というタイミングであったことは、やっぱり重要だよなとおもう。おそろしく単純に表現すれば、1979年をさかいに「人間から見た世界」との真正面からの対決がはじまる、ということになるのだろう。それまでの坂本さんの創作の主調は、どちらかというと人間的な情緒を徹底して排除した先にある「建築性」なるものの追求、という面が強かった。非-人間(即物的なモノの世界)から人間へ(図像や意味の次元へ)、という主題の変化と、「家形」から「家型」へ、という用語の変化のあいだには本質的な関わり合いがある。

 

 

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 「家形」と「家型」のあいだで揺れ動く、その前後の坂本さんのテキストをみていきたいとおもう。まずは1971年。 

先に述べてきたように私はなるべく乾いた住宅をつくろうと考えてきた。そしてそのような住宅はそのものとして力強いはずだと思ってきた。その空間にどのような物が入り込もうと、たとえば、いかなる家具が入り込もうと、そのような空間は自立できるであろうと思う。(……)人間と空間の関係をふたたび問い返しはじめた。それは人間の生活、環境に対する配慮を根底において、情緒性を消したドライな空間をつくることであろうと思えてならない。すなわち住宅において情緒に由来するであろう曖昧な部分、あるいは要素を徹底的に消すことであり、そしてあるいはそのことによって住宅が建築であるぎりぎりの線まで追いつめられるかもしれないほど即物化させようということだ。(……)しかしそこで残ったリアリティこそ確かな「建築としての住宅」であろうと確信する。*3

「即物性」や「空間の自立性」などを鍵語としながら、「住まいとしての住宅」と「建築としての住宅」を意図的に分けた上で、日常的な部分に隠されている住宅の建築的としか言えないような空間の質をなんとか前景化しようとする《代田の町家》以前の坂本さんの態度を、ここで確認することができるだろうと思う。生活には十分配慮しながらも「住まいとしての住宅」に由来するような情緒的・日常的な要素を排除し、モノそのものの関係により形成される〈乾いた空間〉をつくり出すこと。人間から見た世界というよりは、自立したモノ同士の関係性に重心が置かれている時期だとおもう。

 しかしここで主調をなしているのは、あくまで「空間」への問題意識だ。そして「空間」をテーマとしてしまえば、宿命的に「人間」という視座は免れ得ない。しかし《代田》に至っては「空間」から「構造性」(≒「構成」)へと、中心的なテーマが移行していくこととなる。

空間という内容が抽象的ということであれば構成材の示す内容は具体的なことであり建築がアプリオリな確かさを必要とするならば、まさにその部分で成立するということである。そしてその構成材が持つ内容は即物的なボリュームの限定と、その限定の仕方の面にある関係の位置づけということになろう。そのことは各構成材のあり方の内とそれらの互いの関係の内にひとつの〈建築〉があるということを意味する。そのことを私は建築の〈構造性〉と呼んできたのではないだろうか。*4

ここで述べられている「構造性」、つまり「各構成材のあり方とそれらの互いの関係」は、後に坂本さんが「構成」という語で展開することとなる概念そのものだ。

私はたった1枚の平面図に「建築」を感じることがある。ときにその感覚は直感的だ。もちろんその平面を分析することでその「建築性」を知ることもある。しかしこの場合もその作業の前に、直感的にその存在を予感する。(……)そこではここで確認する「建築」とはどういうことであろうか。すなわち具体的に「建築性」として何を示すのだろうか。平面図は原則として基準の床レベルからのある高さの水平切断面で切り取られた断面図である。そこに表れるのはその断面と向こう側に見える表面を示す。だからそれは断面としての柱、壁等の垂直材と表面としてあらわれた水平材の床等を一定縮尺で示す。どのような計画も原則として直接表示されるのはこのことだけだ。そして建築の平面はそれらの構成によって生じる内容である。そこで問題なのはその構成である。つまり、平面図に投影されている構成材がどのように「統合(インテグレイト)」されているか、またどのように「分節(アーティキュレイト)」されているか、ということであろう。(……)ここで問題にしているのは「建築が建築であるための文脈」ということだ。いい変えれば、造形論や、施設論や、技術論でない建築固有の論理、それが「建築が建築である文脈」となるということであろう。つまりそのことは建築を意味論的内容でとらえるとき文脈が成立するといっていることにならないか。*5

坂本さんはここで、平面図に投影されている意味内容の考察を通して、平面図から直感的に感じる「建築性」が、構成材の統合と分節の関係に依拠しているだろうことを分析している(おそらく同時期のアイゼンマンを意識していたであろう認識だ)。同テキストからもう少し引用しよう。

柱、壁、床、天井は構成されることによって「室」という概念を成立させる。もし全体平面を、あるいは建築を囲まれた領域の集まりとしてみれば、それは分節化された構成材を前提とした室の集合となる。そしてそこではその集合にインテグレイションが成立しているかどうかが問題となる。それではそのレベルでの分節と統合はどのようなことなのであろうか。まずそのレベルでのアーティキュレイションはその室自体の構成で、そこでの構成材の統合であると考えられる。そしてインテグレイションは室レベルでのその領域と他の同様な領域との関係のあり方に関するであろう。*6

坂本さんはこの時期にすでに、さまざまな次元で発生する部分同士の関係性すなわち「構成」に、「建築性」なるものを見出している*7。人間を徹底して排除した先にある「建築性」なるものをつきつめて考えれば、そこで見出されるのは「空間」ではなく「構造性」(=「構成」)なんだと、これは坂本さんによるひとつの結論だといっていい。それは建築を分析する着眼点としてのみ有効なものではなく、方法論としての重要性ももっていた。以下の1994年のテキストは、坂本さんの仕事を理解する上でとくに重要な箇所かとおもう。

硬直化し、凝り固まった私たちの身体が、ただ自由で気ままな姿勢を取るのではなく、気功や太極拳、またさまざまな体操の形式化された方に沿うことで、柔軟さを回復し、自由を獲得するように、構成されたある種の空間や場にかかわることで快適な自由を獲得する、そんな構成の形式による建築の私たちへのかかわり方を〈構成の形式としての建築〉と位置づけることができそうだ。(……)問題は、私たちの生活や活動が生き生きと活気づき、精神や身体が解放される、つまり人びとが自由なかたちで自分を獲得する、そんな場を成立させる座標としての空間を提出する形式である。それは、現代での自由を獲得する、インクルーシブで私たちを枠付けない、意味の希薄な、あるいは未だ意味に染まらぬ〈意味の零度の場〉として与えられる構成である。*8

非人間的な「構造性」(=「構成」)は、人間にとって他者であるからこそ、わたしたちを自由にしてくれる可能性をもっている。坂本さんはどこかで、ヒューマンスケールだけでできている建築は息苦しいといっていたとおもう。ヒューマンスケールと架構のスケールが葛藤しながらある緊張感のなかで両立しているとき、ふと身体が自由になる感覚を得る、と。建築の他者性をつきつめていった先にある「構造性」。これはぼくらが「道具」といっているものときわめて近しい存在である。そこで目指されるのは、「硬直化し、凝り固まった私たちの身体」が、「柔軟さを回復し、自由を獲得する」ための、〈意味の零度の場〉として与えられる形式である。

 

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 ふたたび「平面を通して」にもどってみよう。

建築を象徴論的にとらえたり、文学論になったり、また記号学的なメタコノテイションによって生じる文化論になったりすることで建築を曇らし、不鮮明に私達はしている。だから付着した意味を消すことによって「建築」は浮上すると考えてきた。しかし建築においての意味を消しさることは一種の統辞論のレベルだけでそれを読み、つくることになり得ないことになり、そのことは今書いてきたように「建築」の文脈を超えて「造形」の水準になる可能性を持つのではないかとさらに考えるようになった。そう考えると意味を消すということは意味をなくすということではなく、零度の意味を求める、つまり記号学の用語を用いれば、無限に発生するコノテイションを消去する、あるいは停止させることではないかと思いはじめた。*9

ここで登場する「零度の意味」が、「家形」論では「機能性記号化」として展開されているものであり、1994年のテキストでは〈意味の零度の場〉と表現されている概念だ。坂本さんの仕事において、一貫して重要な役割をになっている言葉だとおもう。「〈住むこと〉、〈建てること〉、そして〈建築すること〉」という1978年のテキストをみてみよう。 

〈住むこと〉と〈建てること〉(ハイデッガー)が分離してしまった現在において、建てる者、建築家に可能なことは、ただ人の住まう場を発生させる座標を提出、設定することに過ぎない。(……)それではその〈日常としての空間〉の座標を設定するとはどういうことか。それは〈日常としての空間〉のような現象するものではなく、また感覚的なヴィジブルな様相でもない。その座標は具体的な物によって構成されるが、それ自身は抽象的なものである。それは人の生活の直接の形式ではなく、住まう場の形式を成立させるものであり、さらにその形式を成り立たせる構造を含んだ構築となる。言い換えれば、〈日常としての空間〉に対して〈零度の座標〉を意味する。そこに建築という固有の概念が成り立ち、ひとつの文化を成立させることになると考えるのだが。*10

ハイデガーの「建てること、住むこと、考えること(Bauen Wohnen Denken)」(1951)を意識して書かれたこのテキストを読むと、ああなるほどなと、「零度」に込められた意味がだんだんとわかってくる。つづけて引用してみよう。

たとえばその直接的な座標は、屋根であり、壁であり、床であり、あるいはそれらで囲まれる物理的空間であり、また立面であり、ファサードであり、それらで成り立つ建物のボディである。当然架構も含まれる。まちろんまた、それら自体の性質であり、構成であり、またそれらどうしの関係であり、またさらに、それらとそれらを取り巻く世界との関係である。そしてそれらのことに投影される意味の関係でもあり、それらの統合によって成り立つ総体の持つ意味でもある。これらのことがいろいろな水準で、またいろいろな分節で、またさまざまな統合で、各種の生活のための座標を提出する。その現れた各種の座標が〈人の住まう場所〉として自由な生活の空間を現象させることを可能とするのだ。それを〈零度の座標〉と呼んだ。*11

 ハイデガーが有名な「道具分析」で提起したのは、道具が「指示」を複雑に交錯させるネットワークのなかに位置づけられているということだった。たとえばハンマーは釘を打つためにあるが、ハンマーや釘が共に用いられるのは、制作すべき作品、たとえば靴や時計があるからである。そして靴や時計といった制作物は、歩く“ため”、時を知る"ため”など、「使用可能性が向けられているところ=用途」をあらかじめ含みこんでいて、これがハンマー・釘・私の関係性を有機的に結び合わせる。さらに靴や時計といった制作物は同時に、「材料への指示」(靴が材料である靴・紐・釘に依存している)もある程度持ち合わせている。また、当の道具であったハンマーや釘もまた「制作物」であり、鉄や木材、鉱石を指示する道具である。さらに、制作された靴や時計は利用者への指示を含み持っている。 事物がこうした道具連関のなかにあるということ、そしてあらゆる存在者が用具的であるということを、ハイデガーは存在論的規定とみなした。あらゆるものがある種の道具である、と。ぼくらは目的に応じて、こうした各々の道具の「指示」を読み取り、(自らも「道具」としてそのネットワークに組み込まれながら)適切に道具を扱うと同時に、ある種の制作行為として、こうした道具の指示のネットワークを組み替えたり、変化させたり、意図的に切断したり、意外なところでつなぎ直したりしているのだ。

 ぼくらは、こうした事物の道具的な連関を「見ること(Sicht)」によって認識し、道具同士の指示関係を判断して、日々それらと交渉している。この、道具の指示作用を見抜くようなモードを、ハイデガーは「配視(Umsicht)」と表現する。例えば友人の家をはじめて訪ねるとき、ぼくらは玄関の前にたち、ドアらしきものを確認して、そこに取り付けられた金属でできた何かを発見する。ぼくらはそれをドアの開閉を用とするモノ=取っ手であるとみなし、それが含みこむ「時計回りにひねる」という指示を了解した上で、それを実行する。ぼくらはそれを「見て」いる(道具の眼前性)。しかし道具と交渉するときのぼくらは、いつでも道具の存在を意識しているわけではない。むしろうまく機能している道具ほど、ぼくらはそれを無意識に使う。自宅のドアの取っ手をことさら意識することはあまりないように、道具が手許でうまく機能しているとき、それは控えめであり、しばしば無意識に使用される(道具の手許性)。ぼくらは普段、心臓やコンタクトレンズを意識し続けて生活しているわけではない。それらは普段、ぼくらの意識から退隠(withdraw)している。それらはうまく機能しているからこそ、決して感知されることはない。

 「眼前性(手前性)」と「手許性」という対比的なモードは、道具に限らず様々な存在者に向けて、非常に広範な応用範囲をもった重要な概念であり、あきらかに坂本さんはハイデガーのこの議論をひきうけている、とおもう。

ひとつの壁面に暖炉がしつらえられていたとする。それでも、その部屋に入る人にとって、ただそこになにかがあるといった程度の知覚を得ているだけなら、それは床、壁、天井といった環境(空間)を構成している一要素でしかない。ところがその形象をはっきりと認識したとき、その暖炉は図像として機能し、明確にそれがなんであるかを対象物として示すことになる。もっとも、私たちは多くの場合、そこになにがあるという程度の知覚を持っても、それがなんであるかを気に留めずにその環境にとどまっている。そのようなところでは、その暖炉はいま述べたように環境化(空間化)していると言える。 ところで、そのような部屋はたいへん暖かく和やかな良い雰囲気を持っている場だと感じられることが多いかもしれない。あるいはその部屋にいたときには気づかなかったが、そこを出て他の場へ移ったとき、その今いた部屋がたいへん居心地良く、気分の良い部屋であったことを感じることがあるかもしれない。どうして、そのどうということもない部屋がそのような雰囲気を持つ空間として働きかけていたか。それは、それがあることすら気づかなかった暖炉が(だからこそ空間化しているのだが)、その空間に働きかけていたことによると言えないだろうか(……)ところがその暖炉の形象が好ましいものとして所有対象化された物の図像を現象させ続けていれば、その場にそのものが持ちうる願わしい雰囲気が形成されていることになる。(……)つまりそこでは、そこにいる人間は意識しない状態で、自分でも気づかない状態で、その暖炉の形象、図像を見ているのである。(……)本人の意識の裏側、無意識的なところにおいて、所有対象としての図像が記号作用を起こし、その図像の判示的意味(コノテーション)によってその場の気分、雰囲気(イメージ)が形成されているということになる。*12

ここでいわれている「環境化する」という感覚はその後、「対象としての建築 / 環境としての建築」という対概念に昇華され、より明確なコンセプトとして言語化されることとなる。もちろん前者はハイデガーの定義でいう「手前」にある状態を指し、後者は「手許」にある状態を指しているとみていい。加えていうならば、「環境としての建築」は「意味の零度の場」や「透明な器」という言葉でパラフレーズされていたものであり、つまるところ坂本さんは一貫して、建築の「手許性」の重要性を主張し続けてきた、とぼくは考えている。そのためには家形的なアプローチもあれば家型的なアプローチもあるし、両者を徹底して拒否した先に、未だ意味にそまらぬ形式を建築に実装する可能性も考えられるだろう。いずれにしろ、家形と家型は明確に別の道具なのだ、ということを、今回は書き残しておきたかった。

*1:坂本一成+多木浩二: 対話・建築の思考,住まいの図書館出版局, pp.48-49. 1996

*2:坂本一成: 覆いに描かれた〈記憶の家〉と〈今日を刻む家〉ーー建築でのアイデンティティと活性化 / 建築の外形を例として, 新建築1980年6月号

*3:坂本一成: 建築としての住宅──乾いた空間のために, 新建築1971年10月号

*4:坂本一成: 〈具体〉そして関係へ, 新建築1976年11月号

*5:坂本一成: 平面を通して―建築を語る言葉, GA HOUSES No.4, 1978.10

*6:Ibid.

*7:ここで述べられている、室という水準における分節(アーティキュレイション)すなわち構成材という水準における統合(インテグレイション)について詳しく展開した言説が「柱の意味の基盤」(『インテリア』1978.4)であり、室という水準での統合(インテグレイション)について詳しく展開した言説が「部屋の意味の基盤―異化と同化の間に」(『インテリア』1978.11)となるとおもう。

*8:坂本一成: 構成の形式としての建築, 小さい建築に大きい夢を, 1994

*9:坂本一成: 平面を通して―建築を語る言葉, GA HOUSES No.4, 1978.10

*10:坂本一成: 〈住むこと〉、〈建てること〉、そして〈建築すること〉, 新建築1978年12月号

*11:Ibid.

*12:坂本一成: 建築における図像性ーー建築のかたちの意味V 建築での図像性とその機能, 建築文化, 1986.2