NOV.29,2019_空間の触覚性

 Twitterでちょろっと書いたのだけど、10/24の鈴木了二×中尾寛トークイベントで(一部の人間にとってはたまらない組み合わせだ)了二さんが写真の被写界深度のことについて興味深いことを話しておられたので、メモ。

TDC / crafTecセミナー@ ゲンバー特別回 「鈴木了二 × 中尾寛」 | crafTec

 

 了二さんはこのトークで最新作の物質試行59「官舎プロジェクト」を自身で撮影した写真を見せてくれたのだけど、その写真は建築写真のセオリーからは大きく逸脱するものだった。思いっきり開放で撮ったほうが空間の物質性が捉えられやすい、と最近は感じてる、っておっしゃってたのがとても興味深かった。もうf1.4とかで撮っちゃうと。もちろん被写界深度は1mもないし、それは限界までレンズを絞って画面の隅々までピントを合わせるっていう建築写真のセオリーからは外れるんだけれど、こっちのほうが空間の質感が写るんだ、と。了二さんの最新の写真見て、確かにそうかもって思った。でも画面の隅々までピントが合ってるわけでもないのに(建築の表面の質感が正確に写されているわけでもないのに)──いやむしろそのほうが──空間の触覚性が捉えられるというのはどういうこのなのかなと、不思議に思った。

 

 おそらく了二さんのいう「物質性」は、人間の知覚の志向性みたいなものが勘定に入ってるのかなと思われる。私の眼の物質性と建材表面の物質性が衝突するところにこそ、建築空間の物質性は生じる。空間(空白、空隙)の物質性という矛盾は、眼と物質の事故現場におけるフィクションあるいはサスペンスだ、というわけだ。もちろん絞り開放でわかりやすいところにピントを当てちゃうと途端にキッチュでオサレな写真になってしまいそうなんだけれど、了二さんの写真はどれもなんか変なところにピントが合っていた、気がする。どこに焦点を当てると空間の物質性を捉えられるか、を検証するのは普通に設計のトレーニングになりそうだなと思う。

 たとえば、ある空間のなかに一本の柱が落ちてきている。その柱の存在は設計者にとって決定的で、現に空間の雰囲気の構築に非常に強烈な影響を与えているように思われる。このとき、f1.4みたいな極端な絞り値開放で柱にピントを当てて撮影してしまうと、もうまったくだめ。つまり柱だけにピントがあってしまっていて、その背後の壁や天井の廻り縁、巾木、手前にあるテーブルの切り花や右手に見える開口部のまぐさ、窓台、ガラスの反射、開口部から見える風景、などはぼやけている状態(あくまで架空の建築です)。このとき、写真はただの情報伝達になり下がり、柱が印象的な仕方で室内に落ちてきている、ということをただ伝える、ということになってしまう。建築家の意図を増長し、部位を象徴化するだけの写真。これならセオリー通りに絞って、垂直水平をちゃんと取って撮影してもらったほうがいいし、記録としてもそのほうがありがたい。

 では、柱とその2m背後にある壁とのあいだにある床面の、壁の手前50cmあたりの部分にピントがあっていたらどうだろう。パーケットフロアのあるひとつのピースだけにやけにしっかりとピントがあっていて、その奥にある巾木にも少しピントがあっているけれど、肝心の手前にある柱はぼやけてしまっていて、磨き丸太(ということにしておこう)の艶っぽいこげ茶色の質感だけが、ぼんやりと、左側に写っている。写真は建築のどの部位も対象化しない。「この部分を見ろ!」という写真家の意図や建築家の思いは排除されている。でもたぶん、さっきの写真よりもこの写真のほうが、空間の触覚性はうまく写る。

 

 ぼくらは普段生活していて、眼のピントを柱にあわせ、そのテクスチャを懸命に読み取ろうとすることなど、ほとんどないのではないか。むしろ床の一部を適当にぼーっと眺め、今夜の献立についてあれこれ考えているとき視界に一部に柱がちらっと写っている、ことのほうが多いと思う。「変なところにピントが合っている」ことは、実生活ではよくあることだ。

 さて、柱にピントを合わせた写真は「これを見て!」というメッセージが強く出すぎてしまうけれど、床の一部になぜかピントが合っているとき(すなわちピントをその部位に合わせている意図がつかめないとき)に写真が伝えるのは、“眼がどこかにピントを合わせている”こと、すなわち眼の物質性だけだ。たとえそれがフィクションだとしても(カメラ=眼というのはあくまで比喩だ)、そこでは志向性をもった人間の眼の様態が立ち上げられようとしている。ぼくらの眼はカメラと異なり、視界の隅々までピントをあわせることはできない。左をみて、右をみて、下をみて、そういう「眼の労働」を統合してはじめて、世界は認知される。そういう眼が存在していることを、その写真は伝えようとしている。そしてこのとき、眼の物質性と建築の物質性がぶつかるときに、空間は質感で満たされるのだと思う。空間に、何もない空虚に質感を感じるという矛盾は、主観性=subjectivityの蠢きなしには発生しえない。それなしには、表象することも困難だ。

 

 

 巨大なサイズで出力された写真が壁に展示されていて、それを実空間で鑑賞するような場合は、絞り値開放にこだわる必要などない。グルスキーやトーマス・シュトルートら写真を思い浮かべてみてほしい。遠くから彼らの写真をみても、情報量が多すぎてよくわからない、から近づいて、部分を懸命に読み取ろうとする。彼らの写真はたいてい隅から隅までピントがあっているが、展示室で巨大な(人間の身体に比べて相対的に大きい)サイズの写真を展示する、という鑑賞フォーマットがあるからこそ、それらの写真は鑑賞者を運動させ、そこでの経験は独特の空間の手触りみたいなものをもたらす。たとえばスティーブン・ショアの下の写真もそういうところがあって(この写真超好きなのだけど)、画面のなかに大きさの指標となるオブジェクトがなにもないので、スケールがつかめない。石ころのサイズを実感しようと思うと、この斜面のなかに自分の身体を投げ入れる(という想像をする)しかない。鑑賞者の身体が、鑑賞経験そのものに参加させられる。

 絞り値開放で変なところにピントを合わせた写真は、眼の物質性(主観性)がイメージそれ自体に刻印されている状態だったとすれば、ショアの写真は「鑑賞者の身体の投げ入れ」構造によって、主観性が否が応でも現象してしまうというものだ。イメージそれ自体に人間味があるわけではなくて、むしろ無機質なイメージが鑑賞者の身体を誘惑するのだ。

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△ Stephen Shore: Brewster County, Texas 1988

 

 安村崇の写真も、逆ベクトルで同じような効果を感じさせてくれる。テーブルの上のみかんを大判カメラで撮影した超高解像度の写真。大判で撮っているから、巨大なサイズで出力しても問題ない。このみかんの写真が幅2mくらいで出力されている状態を想像してみてほしい。このとき、写っているみかんは実際のみかんのサイズよりも数倍大きく、そして解像度は実際に自分の眼で見るときより数段高い、という奇妙な事態に遭遇する。「みかん」という極めて日常的な素材は、それがだいたい直径5cm前後だろうという情報を明確に指示する。だからこそ実際のみかんよりも大きく、かつ高解像度で出力されたこの写真をみるとき、鑑賞者は自分の身体が小さくなってしまったように感覚してしまう。日常的なモノは巨大化し、自分の身体は小さくなり、みかんの皮はみかんの皮であることを辞め、微妙に凹凸のある艶のあるオレンジ色へと変貌していく。そしてしばらく経って、ふと我にかえり、目の前に巨大なみかんが存在していることに再び気がつくのだ。「でか!!」。梶井基次郎の『檸檬(れもん)』を思い出すような、得体の知れないオブジェクトが目の前に現れたような感覚。ここでも鑑賞者の身体への強烈な働きかけがあって、空間の手触りみたいなものが表現されているように思う。

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△ 安村崇: 日常らしさ, 1999

 

 いうまでもなく絵画や彫刻をみたときに「空間」を感じる場合も、こうした身体の動員があってこそだろう。自分の眼や首、腰、足の裏といった部位が、作品の構成材の一部として取り込まれてしまうような場合に、空間がある、という感覚は生じるように思う。それは建築の場合もそうなのだ。建築家は特に苦労せずとも空間がつくれてるように思いがちだが、そんなことはない。大変なことなのだ。

 さきほどの柱のある部屋の例に戻れば、住民の主観性の蠢きみたいなものを踏まえたうえで、「ピントがはずれた状態の柱の知覚」を厳密に考えることができてはじめて、空間に触覚性が宿るのだと思う。意識から遠のいて、完全に生活の背景になってしまった、ピントが合わせられることのない建築の様々な部位の様態を、僕らは想像できているだろうか。テーブルで食事をとっているときに視界の隅で蠢いている、しかし確かに知覚された世界を構成している、ピントのはずれた柱、ピントのはずれた廻り縁、ピントのはずれた巾木、ピントのはずれた入隅の影、ピントのはずれた天井の模様、ピントのはずれた床の質感、ピントがはずれたドアノブ、らを、どう組織するのかという問題は、隅々までピントが合った建築写真がデフォルトとして流通する世界では、なかなか論点になりづらいのである。

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PENTAX 67, SMC TAKUMAR 6×7 105mm / F2.4, FUJI PRO400H