MAR,10.2019_アアルト展の会場設計について

 告知もかねて、「アルヴァ・アアルト -内省する空間-アアルトの図書館と住宅」展の会場構成にあたって考えていたことを書いていきます。

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 この展覧会はアアルトの住宅と図書館の内省的な空間の質に注目したもので、中心となる展示物は模型、とくに断面模型となるということは、こちらに会場デザインの依頼がきた当初から決まっていた。与えられた時間は一ヶ月強とものすごく少なく、予算もそうとう限られていたので、できることといえば展示台をどう設計するか、そしてそれらをいかにレイアウト(配置)するかということのみだった。ということで、とてもささやかな仕事だったのだけれど、与えられた条件のなかで、できる限りのことはしようと思った。

 展示空間はこざっぱりとしたホワイトキューブというより、どこにでもある小さな市民ギャラリーのような雰囲気で、お世辞にも展示壁はキレイとはいえないし、地下の図書館の動線上に配置されているので、実際の展示に使える面積は広くない。とはいえ大きなガラス面があることや展示室の奥に窓があることはおもしろく、かつ、来場者の多くは必ずしも展示を第一目的に来ているわけではなくて、建築会館にきた「ついで」に見ていかれるのだろうと予想された。人の往来が頻繁で自然光がたっぷり入る。あと床がきれい。条件としてはこんな感じで、決してわるくはない *1

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 今回の展示タイトル「内省する空間」でも示されている「内省」というものをいかに思考するか、という問題が、会場デザインで終始意識していたことだった。内省すること、自らの考えや行動を深くかえりみること。展示の公式な英題は「introspective space」だったけど、個人的には「place for reflection」もしっくりくる 。内面に自発的に潜り込んでいく、というよりは、鏡にうつった自分をふとした瞬間に目撃する、というイメージのほうが、すごく直感的にではあるけれど、アアルトの建築の内省的な感触にマッチするように思う。

 鏡の空間、たとえば。そこで私は、鏡に反射する私自身をみる。私はそこで、私に似た像が私を模倣する瞬間と出会い、それと同時に、その反転した状況──眼の前のイメージを私自身が模倣する瞬間──とも出会う。フィリップ・ソレルス、そしてロブ=グリエを引きながら展開する宮川淳の一説を引用しよう。

似ていること、あるいはイマージュの根源的な体験。《僕》はたえず見つづけているが、しかし、それは鏡に映して、いいかえれば、現実の対象をではなく、すでにイマージュをであることは象徴的だろう。ここではイマージュはもはやなにものかの再現、いいかえれば、その背後にあるべき意味なり現実なりに送りつどけるのではない。それはそれ自体としてのイマージュ、単純に、そして純粋に似ていることなのであり、イマージュはいわばその背後によってではなく、その表面、それ自身の現前においてとらえられている。似ていること、このイマージュの根源的体験であり、魅惑であるもの、いや、それによって《僕》がとらえられているのだ。まさしくこの鏡のなか。(……)同じものであり、しかも同時にほかのものであること、それがあることとは別のところでそれ自体であること、それゆえに、ある〈中間的な〉空間、「表と裏、夜と昼──というよりも蝶番のように表と夜、裏と昼、そのどちらでもなく、しかも同時にその両者であるもの」、いわばこの非人称的な〈と〉の空間そのものの浸透であり、それがすべての自己同一性(「彼が彼と自分の肉体を占有しており、彼と彼の大きさを占めておりーー道のほこりにまみれてそこにある二本の足ーー時間と空間のすべてを占めており、それをかんづかれることなく離れようとする彼の努力にもかかわらず、ついに逃れうるものでもなく……」)をむしばむのだ。(……)この鏡の空間、この二重化の体験、この自己同一性の裂け目、それは《彼》が、たえず、そしてたとえば、車を全速力で疾走させることによって空しく期待していたものにほかならないだろう。しかしそれはまたすぐれて〈本〉の空間ではないだろうか。

宮川淳『鏡・空間・イマージュ』, 美術出版社, pp.33-34., 1967

アアルトの建築に登場する「本を読む空間」のことごとくが独特の内省的な空気をまとっているのだが、これは上記の宮川の指摘と決して無関係ではない(それどころかかなり深いところで関係していると思う)。この内省的な空間の質は「マイレア邸」や「ルイ・カレ邸」にみられる小さな図書室に限った話ではなく、「ヴィープリの図書館」や「ロヴァニエミの図書館」といった公共建築でも同様のことだ。ある種の切断的な、外部と切り離された独特のスケールをもった場所を、アアルトはしばしば読書空間として用意する。

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△左から「ロヴァニエミの図書館」、「ルイ・カレ邸図書室」、「マイレア邸宅ウィンターガーデン」©小泉隆 *2。 

 本を読むこと。この行為は、宮川が指摘しているように、対象に深く没入する(我を忘れる)経験であると同時に、自分自身を深く顧みる経験にもなりうる。我を忘れること、と、顧みることの絶え間ない往還、安定したコギト=自己同一性の二重化、その先に、「想像力にとって、もはやなにものかのイマージュなのではなく、イマージュそのものの根源的なイマージュにほかならない(『鏡・空間・イマージュ』, p.62)ものが現れる。「本を読む空間」の特異性はこの点にあるのであり、アアルトがそういった状況にたいしてどういった物理的環境を与えているのか、ということが、本展の重要なテーマである(とぼくは勝手に考えていた)

  こういった認識を前提として、会場構成としては展示物と一対一の関係で向き合うことが大切だと考えた。ひとつの展示物を複数人で同じ場所から眺める、ということではなくて、ひとりの鑑賞者がひとつの展示物を独占すること。 「あなたと私」という鑑賞者と展示物の対話的状況をつくること。本を読むように模型と出会うこと、宮川の表現を借りれば「鏡(あるいは〈と〉)の空間」にできるだけ接近した状況を限られた展示スペースのなかで用意すること。であればコンセプトは単純明快で、展示物の鑑賞位置を分散・独立させ、展示空間をできる限り広く使いながら配置すること、が必要条件となる。そのうえで、鑑賞者と展示物のひとつのセット──「ここ」からの眺め──が、展示室内に、どの方向をむいて、どの高さで、いくつあって、それらはどのような仕方で相互に関係しているのか、という問題を精査することが、自分に与えられた役割であると考えた。

 

 少し脱線するのだけど、ティルマンス(Wolfgang Tillmans)のいわゆる「散らし貼り」は、流行を通りこし、もはやスタンダートともいえるような写真の展示方法になっている。が、ティルマンス以外の人の展示を見ている限り、この展示形式はしばしば誤解されているのではないか、と思ったりする。ティルマンスの発案した展示方法の要は、展示室全体に星座のように、あるいは楽譜のように写真を配置したときのそのグラフィカルなかっこよさではなく、もっと即物的に、写真の鑑賞位置が展示室内に分散すること、だとぼくは思っている。つまり散らされるのは写真ではなく、鑑賞者の身体だ。

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△ Layout of Wolfgang Tillmans 2003 Tate Britain exhibition “If one thing matters, everything matters”

 ティルマンスの展示方法が大きな示唆を与えてくれるのは、展示空間をもっとも特徴づけるオブジェクトは、実は展示物ではなくそれを鑑賞する人間の身体なのだということだ。あなたがある作品をじっくりと見ているときに、他の鑑賞者の身体がどの位置にあり、どのような角度を向いていて、どれくらいそこにとどまっているのか。展示室において、複数の鑑賞者が特定の場所に集中しているのか、あるいは分散しているのか、で、作品の経験のされかたはまるっきり変わってしまう。鑑賞経験における他の鑑賞者の身体の位置を勘定に入れて会場構成をおこなうこと。ティルマンスの名前を(大変おこがましいと思いつつも)わざわざ挙げたのは、今回ぼくが考えていたことは、まさにこういうことだったからだ。

 

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 そもそも「断面模型」というものが結構特殊な展示物で、ひとりの鑑賞者の身体が他の人間の鑑賞を妨害さざるをない構造をもっている。たとえば建築の展覧会で断面模型が展示されているとき、前の鑑賞者がその模型を見終わるまで手持ち無沙汰になってしまう、ということはしばしばあることだし、あるいは後ろに迫ってきている他の鑑賞者のプレッシャーを感じながら急いで模型をみる、という経験もまたしばしばだ。いずれにしても今回重要だったのは、当たり前のように模型の前に長時間いすわって鑑賞を占拠すること、それをしてもいいというような雰囲気をつくること、だった。であれば、他の展示物(テキスト、写真、図面)にも、断面模型と同様の効果を付加してやればいいのではないか、と考えた。たとえばアクリルが載せられた写真は、ギリギリ近くまで寄ってみないと何が映っているかわからない。机上のアクリル-写真は、少なくともスツールに座って模型を眺めているあいだは、展示室の空間的な広さを拡張するためだけの装置となる。

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 模型をじっくりと眺めたあと、首を動かした先に写真が見える。しかしその場所からは、写真に何が映っているかはよく見えない。展示物をみるためには、身体を動かして近づかなければならない。テーブルの上のテキストも同様の効果を持っている。その鑑賞範囲は壁面に配置されるテキストに比べ格段に狭い。

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 個々の展示物を鑑賞しやすいように配置するのではなく、むしろ特定の体勢を促すように、鑑賞におけるごく微弱な拘束を少しずつ展示物に加えていくよう、サイズや色、距離関係を調整していくこと。それによって、展示室内の鑑賞者の位置、体勢、首の角度、動線や移動の速さ、等々は散り散りになっていく。翻ってはそれが、展示物(とくに断面模型)とのじっくりした対話的鑑賞を約束するものとなる。什器は断面模型を座って見るための制作したもので、天板の高さは950mm。だから展示室の下1/3はスカスカで、視線が抜けた先には鑑賞者の足とスツールだけが点在する。天板の見付を薄くし、斜材がでてこない設計としたので、床のきれいさが際立ってくる、という想定。 

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 複数の知覚のセットにともなってあらわれるのは複数の断片化した「私」であり、それを段階的に統合していく(あるいは複数の相容れなさとして併置させていく)プロセスこそ、建築経験が生成する現場だ。であれば、まさに展示室で起こるであろうこともまた、うまくやれば、きわめて建築的な経験となるはずだ。現実の建築作品のリプレゼンテーションではなく、それによく似た、とはいえまったく別物の建築経験が生成する現場として展示経験を構成すべきだ、ということは、レイアウトの作業を進めていて強く思ったことだ。レイアウトによって複数のパースペクティヴを併置することは、今回の展示構成でとりわけ重要になった指針で、写真を選定し使用許可を交渉していたときから、それを配置する段階まで終始意識していた。展示室内に配置される現実空間の身体もさることながら、写真や断面模型によって立ち上がる架空の身体の位置(その建築のどこに自分が立っているのか)もまた分散・複数化させ、一望できない視点から建築の全体を再編成することがうながされる、ように。

 繰り返すけれども、今回ぼくがおこなったのは、作品の鑑賞位置を特定の位置に集中させないため展示物を適切にレイアウトすること、と、それらの寸法を慎重に決定していくこと、に終始している。ある人物、ある展示物、ある場所がつくるひとつの個別具体的な「ここ」からの眺めのセット──鑑賞者と展示物の局所的な関係性のもつれ──のレイアウトの検討、というと聞こえはいいが、作業は死ぬほど地味なもので、各関係者とやりとりをしつつ展示台や展示物の配置を微妙に変化させ、現場での即興的な判断の混入も受け入れながら修正と調整を延々繰り返す感じ。しかし個人的にはこの作業、意外と性に合っていたようで、すごく面白かった。会場構成、またやってみたい。

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*1:あとから聞いた話だけど、この場所は建築学会の報告的な場所として使われることが多く、展示什器をわざわざ制作したり、会場の構成をあれこれ練ったりすることはめずらしいみたい。

*2:今回の展示会では、建築家であると同時に自らの写真を用いた多数の著作を出版されている小泉隆氏に、写真をご提供いただいた。たとえば 小泉氏の著書『アルヴァル・アールト 光と建築』(プチグラパブリッシング, 2013)では「光」というテーマからアアルトの建築がきわめてフレッシュに捉え直されている。資料性も高く写真も美しい良書である。