10 JAN. 2022 「手入れ/Repair」展について

個展について振り返らねば、と思いつつ、一ヶ月以上が過ぎてしまった。というか二ヶ月くらいが過ぎようとしている。展示は7週間ほど前に終わった。正確には、11月21日に終わった。でも、展示室への手入れが会期中に終わらずもう数日続いたり、25日に「竣工式」と称して展示の振り返りトークイベントをやったり、撤収が27日だったりしたので、21日に終わったという気はしていない。むしろ28日くらいに終わったという気がしている。だから僕は今、一ヶ月半くらい前に展示は終わった、という気持ちでいる。

 

「手入れ/Repair」は何をやった展示だったのか。以下、ステイトメント。

床を剥がして建物の手入れ(Repair)をする。床下には真っ黒い土が見え、これが約60年間封じ込められていた地面だと気づかされる。人が集まるための物質的条件である地面は、手入れの解体と再構築に常に関わり、そのたびことに現れる。

不具合や動作不良に追いつめられた人間は、自らの身体とありあわせの道具を用いて、手入れをおこなう。不具合はふとした瞬間に生じ、そこに蓄積した時間をあらわにするものだ。手入れは、具合の悪さをさしあたり乗り切るために行われるが、それは同時に、対象が抱え込んでいる忘却された時間への介入でもある。居たくないところから逃げ出すにしろ、集まるところをつくるにしろ、居場所にまつわる不具合やトラブルは、地面に対する何らかの身ぶりや工作を通して解決されるほかなく、自らで選び取った場で生き通すための創造行為は、地面と身体の接面において様々な葛藤と工夫を生じさせる。

60年代のフーテン族、新左翼暴動事件、唐の状況劇場。90年代のダンボール村。現在のトー横キッズたち。新宿は断続的かつ局所的に、自治的な場の確保に向けた出来事が生じ続けている稀有な土地だ。しかし、居場所をつくるための地面との接点の新たな発明は、法の整備と取り締まりの制度へとプログラムされ、再帰的なものとして、繰り返し都市の構造に組み込まれてきた。集合し、現れるための形式は、即座に、「壊す」ための口実へ成り代わる。

この展示は、建物への物質的な介入と、建物が存在している土地の歴史や記憶への応答を、手入れというフォームのもと、ひとつながりの工程のなかで、入り混じった仕方で開示する試みである。展示室の床板を一旦すべて取り外してから、床下の基礎を補強し修繕した床板を取り付けるまでの一連の工程が、約二週間の会期を通して公開される。

露出した約60年前の地面が再び閉じられるまでのこの一連のプロセスのなかに、60年代から現在にかけて新宿で発生した5つの事件が、儀礼的な修復の身ぶりとして織り込まれる。都市空間での居場所の確保にむけた“危険”な身体はここで、「壊す」ための口実から、「直す」ための身ぶりへと転じる。

展示に際して、キュレーターからはふたつの条件が出された。ひとつは、図面や模型によってここにない構築物について代理表象するたぐいの、いわゆる建築展のフォーマットは採らないこと。もうひとつは、現代美術から展示や表現の方法を借りるということもしないこと。徹底して建築ということに固執しつつも、従来の建築展とは別の仕方での展示のあり方を考案すること。そのための「フォーム」をつくること。

そんな難しい課題に対して、僕らは「手入れ」(Repair)という解答をした。展示室の床を剥がして、床下の補修をし、再び床を閉じるという過程を開示する。加えて、その土地の歴史や事件をリサーチし、改修の身振りや工程のなかに取り込む。今回は新宿で過去に発生した仮設的な場所の確保を目的とした事件について、そこでの工作行為や法律の問題などに注目して、写真家の高野ユリカさんや弁護士の飯野さんとともに調べた。そしてその結果を劇作家の三野新さんと共有し戯曲を制作してもらい、改修の行為者である僕たちが、建物の改修と同時並行で上演を行った。改修過程で発生するさまざまな物品や補修中の床板などは改修過程に応じた相応しい位置に配置されるが、その結果として、上演の舞台装置ができあがってくる。舞台装置ができたら、30分ほどの短い戯曲を上演し、また釘を打ちはじめる。戯曲=フィクションを介して、土地のリサーチと建物の改修が結びつけられる。舞台の組み立て(=フィクションの準備)と展示空間=支持体の手入れ(現実的な問題の解決)の同時性が、今回の展示のコアにあったと思う。この「研究」と「建築すること」を設計図や模型といった媒介物なしに結びつけるという試みは、博士号をとったばっかだけど大学には所属していなくて、同時にまともに設計事務所で務めることなくいきなり独立しちゃったという、自分自身のリアルな現状の反映でもあったと思う。

この方法はどんな土地でも(権利的には)展開できる可能性があるから、建築展の新しいフォームといっていいはずだ。釧路の展示室であれば釧路の、ベルリンの展示室であればベルリンの歴史をリサーチすることになるし、その結果を踏まえた仕方で展示室の改修を行うことになるだろう。それと、今後は500キロの彫刻をここにおけますよ、といった具合に、僕らが展示のルーティンのなかに入ることで展示室自体が(ちょっとだけ)アップグレードするということが発生するのだけど、これは美術の展示の場に建築家が介入する新しい意義でもあると思えた。また、今回は床の改修だからその土地の歴史を調べて、改修に(改修=リアルな現実、に対する上演=フィクションとして)取り入れたけれど、壁であれば壁なりの、階段であれば階段なりの、天井であれば天井なりのリサーチの対象と、建築行為へのフィクションの介入経路があるだろう。そうした建築の部位ごとの展開も可能だと考えている。

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建築工事にまつわる各々の作業員は、基本的には指示されたことだけをやっている(だれも全体像を把握していない)けれど、数ヶ月経つとなぜかひとつの統一されたオブジェクトができあがってしまう。この不思議な出来事の指示書が工程表だ。人やモノの動きや場所を厳密な日割りのもとで指示する工程表は、だから、スコアや戯曲台本といったものときわめて近しいものだといえるだろう。数十分か、数時間か、数ヶ月か、という時間スパンの差異でしかない。僕らは建築というプロジェクトを、電気屋や大工だけではなく、劇作家や写真家、グラフィックデザイナー、弁護士、ファッションデザイナーなど、様々な専門の人々が出会うためのひとつの機会として、すなわち仮設的な共同体の立ち上げの場として、捉えようとした。工程表という表象はその試みをあらわすための適切なグラフィックだったと思う(時間がなさすぎてこれしか用意できるグラフィックがなかった、ということではあったのだけど、、)

建築をつくることにおいて、何が代替可能で、何が代替不可能なのか。作業員は代替可能で、建築家は代替不可能なものだ、という認識が、少なくとも建物を「作品」と位置づける際には働いているだろう。しかしはたして、それは本当なのだろうか? そうした(とても素朴な)疑問がベースにあって、今回のような展示を企画したし、実際にそれを実行した。きっかけになったのは今回の展示場所が新宿ホワイトハウスだったことだと思う。半年前の改修の際にも感じていたことだけれど、新宿ホワイトハウスという分厚い歴史的なコンテクストをいかに相手取るか、という問題には悩まされた。自分たちの専門が建築である以上、オリジナルの設計が磯崎新であるという過去にどういった態度を取るのか、という引力はどうしてもでも生じてしまう。だけど、意外なほど、改修時に僕らは磯崎さんのことを意識していなかった。もちろん磯崎さんの存在を蔑ろにしていたわけではない。そうではなく、自分が作業員になって労働をしているときには磯崎さんを感じなかった、ということだった(当たり前と言えば当たり前だ)。これがヒントになった。自分の身体が、あるときには設計者になり、あるときには作業員になる。これが、「磯崎を忘れる」ためのひとつの形式的な方法だと思えた。だからこそ、僕たち自身が改修行為の主体になる必要があった。床板を解体しているとき、そこに磯崎さんはいない。目の前にあるのは床板だけだ。

現状のポストモダン的な状況で僕らが生きていくために重要なことは、部分的な歴史の忘却だと思う。意識的な、と同時に一時的な、文脈の切断(cutting context)のための方法。あらゆることに文脈があり、先例があり、ウェブで調べれば簡単に膨大な情報にアクセスできてしまうとき、結果として手も身体も頭もすっかり動きが鈍くなってしまう、なんてことが、デザインにしろ、執筆にしろ、あらゆるところで起こっている。「理論」は、歴史を軽くするためのひとつの方法だ。もうひとつ、たんなる「労働」も、たぶん歴史を軽くするために役に立つ。今回であれば、物理的な解体によって磯崎新を僕らが一時的に忘却したように。そこではたぶん、代替可能だとされてきた建物を作るための様々な作業を、もう一度代替不可能なものとして位置づけ直す必要が出てくるだろう。それが今回の展示の、裏側にあったひとつのテーマだと思う。