SEPT.1,2021_シン・マサキキネンカンの写真

 もうずいぶん前のことになりますが、東京藝術大学青木淳研究室による展示「シン・マサキキネンカン」の記録写真を担当したので、ブログにもアップしました。久しぶりに写真をひと通り見たけれど、どんな空間だったのか、まだまだ鮮明に覚えているから不思議だ。記録写真を自分で撮ると空間そのものが身体に刻み込まれるような感触がある。この現象、なんか学術的な名称とかないのかな。

 いつかまた、写真を撮る仕事ができたらいいなと思う。建物の写真もっと撮ってみたい〜という強い気持ちがある(いつでもお待ちしております!)。写真、とても難しいけれど、誰かが一生懸命つくり上げたものを撮影するのは好きだし、楽しいし、とても光栄なことだなと思う。

 シン・マサキキネンカンの記録写真は、既存の状況からどう変化したかを撮るわけでもなく、設計者の意図そのものに注目するのでもなく、介入(らしき行為)によって促された既存への視線、みたいなものを残そうと思って撮ったのだったと思う。自分の身体が感受した感覚を、混ぜたり混ぜなかったりして撮っている。

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 もともとは、写真が仕上がったら研究室に伺って、写真を撮った身として展示の感想を共有しようという話だったのだけど、ちょうど緊急事態宣言が発出されたタイミングで、宣言が解除されたら伺いますと先延ばしにしていたらけっきょく解除されずに半年以上が過ぎてしまった。シン・マサキキネンカンはとてもおもしろい展示で、作品をレイアウトするということではなく、建物に何らかの仕方で介入する手付きそれ自体を見せる、という狙いのインスタレーションだったと思う(より正確には、建築家の介入を既存の環境と完璧に識別することの不可能性を経験させる、ということかもしれない)。「テンポラリーなリノベーションとしての展覧会」という位置づけがされていて(明確だ)、建築を専門としている人々がおこなう展覧会としての必然性があった。

 建築家の既存への介入の仕方には、経験する側が明確に感受できるものもあれば、多くの人々が見過ごしてしまうたぐいのものもある。あるいは、一回の経験じゃ見過ごしてしまうけれど、1年住めば見えてくる改変の痕跡もありうる。その介入の強弱のようなものは、たんに建築家の個性ということで片付けてしまえるものではなく、一種の技術として非常に重要だと思うのだけど、実際に議論されることは少ない。ましてや、ひとつの建物に強い介入と弱い介入が混合することなど稀だ(これはすごく高度なことだと思う)。展示という枠組みは「注意深く見る」態勢を見る側にもたらす。シン・マサキキネンカンは展覧会というフォーマットを借りたリノベーションという制度の上演・実験だったと思う。建築空間の改変は、もちろんストレートに知覚の問題だけれども、同時に芳醇な意味のネットワークへの(移動や付加といった物的な動作による)介入でもある。たしかそんなようなことを展示を通して感じて、青木研で話を聞いてからまとまったテキストにしようかなと考えていた。そんなことを、これらの写真と、断片的なメモを読んで思い出している。