JULY12,2018_建てることの権利について

○今月の『10+1』に掲載されている福尾匠さんによる論考「プロジェクション(なき)マッピングあるいは建てることからの撤退」がとてもおもしろかった。今月はヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展の日本館の特集で、選考段階でいろいろ問題があったことが記憶に新しい本展だけれど(国際交流基金がヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展キュレーターを異例の再選考。結果は変わらず|MAGAZINE | 美術手帖)、来月の頭にミラノで行われる国際図学会(http://www.icgg2018.polimi.it/)で発表する予定で、ついでにヴェネチア・ビエンナーレを見に行く予定なので、本展に関しては『10+1』の事前情報を頭にいれつつしっかり見てこようと思う。

 それで、もちろんキュレーションをおこなった貝島さん青井さんのトークイベントの書き起こしも必見なのだが、福尾さんの論考では、本展が「ドローイング」のみを展示物として選択した点に関して、とりわけ軸測投影図に焦点を当てて切り込んでいくことで、本展がおのずから現代建築のデッドロックを示しているというところにまで突き進んでいる。必見です。

10plus1.jp

 終盤にかけてのアクソメを巡る議論に関しては、加藤道夫さんによる同じく『10+1』での論考「バウハウスの図的表現──その建築における軸測投象の使用について」(1999)が補助線になるだろう。多分に響き合っているので興味のある方は合わせてどうぞ。

tenplusone-db.inax.co.jp


  両論考において書かれている通りなのだけれど、バウハウス以前の軸測投象というのは、あくまで「説明」のための表現手法だった。ちなみに「説明」によるアクソメの極北はおそらく、(エンジニアでもあった)オーギュスト・ショワジーの『建築史』において描かれる「見上げアクソメ」ではないだろうか。これは空間・構造・構法の視点を一体化し図示するため、おそらくかなり四苦八苦して開発された手法であり、ショワジーの独特の建築観を反映しているという意味では単なる「説明」を超えた表現であると思う。『建築史』は1899年出版だが、軸測投象が「つくる道具」となるのは20世紀に入ってから、デ・ステイルとバウハウスにおいてである。福尾さんはテオ・ファン・ドゥースブルグの「カウンター・コンストラクション」(1923)とブロイヤー作画の軸測図(1923)を挙げており、両者を同一の軸測投象という手法を用いながらも対比的なものとしているが、両者の差異は重要であり、前者は「4次元」を平面上でいかに扱うのかという問題を、後者は「規格化された空間単位を組み合わせ」という問題を前景化している(このあたりの議論に関しては、福尾さんがとりあげているYves-Alain BoisのMetamorphosis of Axonometryに加え、エヴァンス(2000)*1、スコラーリ(2012)*2、加藤(2011)*3、フランプトン(2015)*4の序論、ヘンダーソン(2015)*5あたりを参照のこと)。これに関しては、加藤さんが以下のように位置づけているので引用しておこう。

「確かに、軸測図は、投象手段の開発としてはバウハウス以前の産物であり、また、二〇世紀初頭の他のモダニスト達にも使用されたという点では、新たな空間表現でもなければ、バウハウスによって開発されたものでもない。しかし、ここで見たようにバウハウスの建築理念とその表現手段としての軸測投象が密接に関わり合うことで、結果として独自の空間表現がもたらされる、すなわち、軸測投象という手段の応用の内に過去の軸測図とも同時代の他の軸測図とも異なる展開が読みとれるのである。

 いずれにしろ両者においては、軸測投象が「説明」という領分を超え、「つくるための道具」として、各々のプロジェクトがもつ独自の理念の実現に向けて用いられているのだ。「構築に向けた射影」としての建築におけるドローイングは、単にプロジェクトを認識可能なものにするためだけではなく、より実体的な何かを生み出すものであるはずだ(はずであってほしい、、)。想像とドローイング、ドローイングとドローイング(例えば平面図とパースペクティブ)、ドローイングと建物、そして建物と私たちの眼の間にはつねにある一定のギャップが挟み込まれている。そして、ギャップを挟み込まれつつもつながっている。それらをつなぐものは様々な表情を持った射影 [projection] であり、それらは多分に誤謬の可能性をもった翻訳プロセスであることは忘れてはならない。建築家はしばしば、その翻訳プロセスにおける「誤読」こそに、創造の可能性を見てきたのだから。

 

 では本展において提示されるドローイングの数々、とりわけ軸測図についてはどうなのだろうか。僕らはそこに「つくるための道具」としてのダイナミズムをみることができるのか、あるいは、それらはあくまで不活性な「説明のための道具」にとどまるのか。カタログを読む限りではあるが、本展覧会のドローイングはたしかに、各々に大変切実な問題を扱ってるにせよ、いや、だからこそ、後者に偏っているような印象を受ける。しかしこの点に関しては、展示されるほとんどのドローイングが「なんらかのプロジェクトの一部として制作されたもの」であることを考慮に入れる必要がある、と。福尾さんがこの点を「まんべんなさとそれに付随する情報の浅さ」と批判されているけれど、これは作者の方にではなく、キュレーターの方に説明責任がある問題であることは明らかだと、僕もそう思う。

 「ドローイング」を展示の主題としつつも、各プロジェクトが対象化する複雑で具体的な諸問題を、あたかもブルドーザーで整地するように「フラット」にした先に見える風景はなんなのだろうか*6。そして、かたくなに「メイド・イン・トーキョー以後」をキュレーションの対象とすることもまた、なぜなのか。少なくとも僕らは、本展が顧慮しなかった「バウハウス以降」から「メイド・イン・トーキョー以前」までの間において描かれた、無数の「構築に向けた軸測図」を知っている。

 結果として、現代建築の行き詰まりを、本展は逆説的にはあるが極めて鮮やかな形で示してしまっているのではないか、と、福尾さんの論考は投げかけている。福尾さんのこのような疑義は、例えば去年のSDレビューでの乾久美子さんの指摘*7ともそう遠くないものであるように思われる。この際だから言ってしまうけれど、「メイド・イン・トーキョー」は(僕自身多分に影響を受けているわけだが)決して「作る」ためのヒューリスティクスにはなりえないのだと思う。「メイド・イン・トーキョー」はあくまでリサーチとプレゼンテーションのための手法であり、「つくるための理論」はまた別のところで用意する必要があるわけだけれど、それがまだ見つかっていないから、こんなややこしい事態になるんじゃないか。これは、最近のアトリエ・ワンの仕事に多くの若い人々(ぼくのまわりだけかもしれないけれど)が感じている失望感と無関係ではない。「観察すること」が素朴に「構築すること」に連続するという幻想を捨て、「観察」と「構築」を結びつける具体的な方法をできるだけ批判的に、かつ高速に、調査・検討・教育するための場こそが、求められているのではないのか。

 

  話がそれてしまったが(「メイド・イン・トーキョー」に対する評価は、本展のもつ「形式」への批判、あるいはそれが翻って照明する構造的な問題とは切り離して考えなくてはならない)、本論考のまとめとして位置づけられている次のような問いに対して、建築家はいかに返答できるだろうか。

問題はつぎのようにまとめることができる。現代の建築ははたして、「権利問題」として、建てることを肯定できるのだろうか、と。

「建てること」は、「なぜ」、そして「どのように」、正当化されるのか。「権利問題」はカント哲学における重要なタームだが*8、つまるところ僕らは「建てること」の正当性を基礎づける条件を再-発明する必要があることを突きつけられているのだ。それはつまり、建築家が「建てること」の前提としてきたあらゆる諸条件を明確にし、それらを吟味すること、かと思う。

 とはいえ、何を事実として、何を権利とみなすのかは、各々の考察に委ねられていると考えて、ひとまず問題ないだろう。「権利問題」ーー「建てることの正当性の所在」に向けた問いーーが、どういった諸要素により、どういった仕方で構成されているのかということに関する考察は、だからこそ、各々の建築家によって異なるものになるはずであり、そしてそのずれ、空白地帯にこそ、独自の「組立」を考案する可能性が残されているのだと思う。各々が、各々の仕方で、創造的に「権利」を立ち上げること。福尾さんの論考は、それを僕らに促しているのだろう。僕らはそれによって、「建てること」の正当性を、各々の仕方で基礎づけなければいけない(この一点にこそ、「建築理論」が要請される余地が残されている*9)。既存の問題に対して、既存の方法で弥縫策を講じ続けるのではなく、だ。「たんに建てる」ということは、そこではじめて可能になる。

 

○著者の福尾匠さんについては、『アーギュメンツ#2』での論考「映像を歩かせる:佐々木友輔『土瀝青 asphalt』および「揺動メディア論」論」や、「クロニクル、クロニクル!」のサイトで見ることのできる『シネマ』の解説動画で既に知っていて、同世代の大変明晰な研究者だなといつも襟を正す思いでその活動を注視していたので、このようなかたちで建築に関わるテキストを書いてくれたことをとてもうれしく思う。

www.chronicle-chronicle.jp

福尾さんといえば、迫鉄平さんの展覧会評もキレキレだったことも記憶に新しい。迫さんの展示は(同時期にマキファインアーツで行われていた荻野僚介さんの展示と一緒に)絶対みにいこうと思ってたのに、会期を数日間違えていたせいでみられず、かなり後悔していたのだけど、この展覧会評を読んでますます行けなかったことを後悔した。

bijutsutecho.com

 

 さて、上記で引用した加藤道夫さんの論考が次のように締めくくられていることを、最後に記しておこう。福尾さんと加藤さんの記事を合わせて読んで欲しいのは、この指摘があるからである。ぼくらはこのことに関して、よくよく考えなければいけない。

また、バウハウスの軸測図は、その多様性という点で他のモダニストとの相違が認められる。そこには、バウハウスに招聘された建築分野以外の指導者達の影響も無視できない。その多様性は、おそらくバウハウスが自己の内にさまざまな個性を内包することで、他のモダニストの考えを吸収、展開する集団としての潜在力を有していたことにあると考える。

 「建てること」の現代での困難さを乗り越え、そこでの「権利」を創造的に立ち上げていくためには、建築分野以外の知性との共同が不可欠である。既存の方法や理論を反省し、認識のフレームを押し広げ、より自由に、しなやかにものを考え、手を動かすことで、その先に、あらゆる人間の生を背後で下支えする、のびやかでおおらかな「新しい建築」を構築していくために、である。

 そのことを、例えば多木浩二はとてもよくわかっていたのだと思う。多木が、篠原一男や磯崎新、その下の世代の大橋晃朗や八束はじめ、坂本一成、伊東豊雄、長谷川逸子らといった建築家と(ある時期までは)積極的に議論を重ね、互いに互いの議論を自身のフィールドへと包摂しつつ、ある種の「共犯関係」を結んでいたという事態を、僕はけっこう素朴にうらやましいなと思っている。多木が立ち上げに関わった『10+1』という媒体だからというわけでもないけれど、同世代の福尾さんのような方がこうした記事を寄せてくれるという状況はとても嬉しいなと思う。『10+1』ブレてないな、という感じ。

 この記事を書きながら調べていたら、その福尾さんが、今月単著を出版されるそうである。下のリンクで「はじめに」を全文読むことができるが、ものすごく面白そう。楽しみだなぁ。

www.kaminotane.com

*1:Evans, Robin: The Projective Cast : Architecture and Its Three Geometries, The MIT Press, 2000.

*2:Scolari, Massimo: Oblique Drawing: A History of Anti-Perspective, The MIT Press, 2012

*3:加藤道夫: ル・コルビュジエ 建築図が語る空間と時間, 丸善出版, 2011

*4:Frampton, Kenneth: A Genealogy of Modern Architecture: Comparative Critical Analysis of Built Form, Lars Mueller, 2015

*5:Henderson, L. D.: The Fourth Dimension and Non-Euclidean Geometry in Modern Art, The MIT Press, 2013

*6:本展がラトゥールによる「フラットな存在論」にどれだけ依拠しているかはわからないけれど、キュレーターが積極的にアクター・ネットワーク・セオリーに言及していることから、この「フラットさ」のもつ問題の根の深さが伺える。ANTが浮き彫りにするはずの「純化」と「翻訳」のプロセスは、いったいに何に指し向けられているのだろうか。ANT的な分析は、たとえば既存の建築設計の潮流におけるある「支配的」な参照源を、特定の要素に注目しその「翻訳」の過程をひたすら追っていくことで明らかにするというかたちで用いれば、僕はとても有意義な手法であると思う。しかし、「説明のためのドローイング」と同様に、ANTもまた「つくるための道具」には決してなりえないものではないか、と、現状で僕はそう判断している。むしろANTを「つくるための道具」として建築家が用いることは、それが「フラット」で「万能」な理論過ぎるがゆえに、ぼくにはとても欺瞞に満ちた態度であるように思える。

*7:「コトづくりや改修に関わる作品の場合、コトづくりなどに対する評価と設計案としての評価は分離して考え、その両方が一定以上の質を担保していることは重要だと感じている。つまり、設計以外のクライテリアを隠れ蓑にして、設計の熟度の低さを補うようなことはあってはならないということだ。コトづくりは建築家やデザイナーでなくても、さまざまな主体が試みている時代である。また、コトづくりに関わっただけで評価される時代でもない。そうしたなかで、建築家でしかできないことは何かについての本質的な追求がないかぎり、このコトづくりや改修という要素は、設計を華やかにするトレンディな装飾でしかなかったなんてことになりかねない。」乾久美子: 新しい装飾への危惧, SD2017, 鹿島出版会, 2017年

*8:これに関して例えばドゥルーズは次のように述べている。「事実問題に、よりいっそう高度な問題、すなわち、権利上はどうなっているのか [quid juris?] という権利問題が続くのはそのためである。われわれが事実としてア・プリオリな表象を有することを確認するだけでは十分ではない。これらの表象が、経験に由来するわけでもないのに、なぜ、そしてどのようにして、経験に必然的に適用されるのか、それを説明しなければならない。なぜ、そしてどのようにして、経験の中で自己呈示する与えられたものは、われわれの表象をア・プリオリに規則づける諸原理と同一の原理に(したがって、それ自身ア・プリオリであるわれわれの諸表象に)必然的に従属するのか? これが権利問題である。」(ジル・ドゥルーズ: カントの批判哲学, 國分功一郎訳, ちくま学芸文庫, pp. 33-34. , 2008) 

*9:建築における「アプリオリな総合命題」を考えること。それは、「観察」と「構築」という、遠く隔たった両者を結びつける媒介の策定であり、そしてその媒介は「経験」によらない「あるX」である必要がある。つまるところこの「あるX」こそが、建築における「理論」である。「観察」を、経験に依拠しないしかたで拡張し、「構築」に結びつけること。そしてその実践によって獲得した「眼」で再び対象を見つめ直し、別のしかたで、対象と新たに出会い直すこと。「観察」と「構築」の間の、こうした無限のフィードバック・ループの媒介として「建築理論」はあるのだと、僕は思う。