AUG.2,2018_フィレンツェへ

  今日はイタリアに着いて最初の自由行動日で、ミラノ市内もまったく探索できていない状況だけど、いきなりフィレンツェへと向かった(この日しか予定が入れられなかった)。ミラノからフィレンツェは高速列車で2時間ほど、料金は35ユーロくらいだった。岡崎乾二郎の『ルネサンス 経験の条件』を読み、「ブルネレスキはマジで神」モードになってからの、「サン・ロレンツォ聖堂」やら「孤児養育院」や「パッツィ家礼拝堂」や「サント・スピリト聖堂」やらのブルネレスキ建築をあらかた巡るという、とてもとてもゴキゲンな日であった。

  ブルネレスキの作品に関しては、あまり撮ったわけでもないけど、フィルムの現像を待ってからまとめるとしよう。ブルネレスキの空間は、とにかく軽かった。物質的にはもちろんかなり重鈍なわけだけど、それはSANAA建築の内部空間よりもはるかに軽やかなものだった。まだ言語化できていないけど、あの異様な軽さはどこからきているのか。その空間の軽さは、アルベルティの強烈な正面生をもった建築とはどこまでいっても対照的だった。両者の対照性は遠近法、透視図の扱いという点でも同様で、ブルネレスキにとってのそれは単なる図法ではなく、本来一致することのない対象を射影変換で重ね合わせること、であった。


  今回の旅で携行した本は出発前日に届いた福尾さんの『眼がスクリーンになるとき』と岡崎さんの『経験の条件』で、『経験の条件』の方は行きの飛行機であらためて読み込んだのだけど、これは本当に奇跡的なテキストだなと思った。以前読んだときはというと(4年くらい前だが)、これほどの衝撃はなかった。岡崎さんが何をいっているのか、何がいいたいのか、どこに向かっているのか、いまいち掴みきれていなかったのだなということが、再読してよくわかった。

  マティスを語るにしろ、ブルネレスキを語るにしろ、マサッチオを語るにしろ、岡崎さんの論旨は一貫している。それはバラバラな事物や状況や視線を、そのバラバラさはそのままに、どうやって秩序を与えるか、ということである。換言すれば、即物的な各要素がばらまかれていて、各々は自律的にふるまうのだけれど、それはなぜか無秩序ではない、と、そんな状況はいかにしてつくることが可能なのか、ということ。岡崎さんは、それを可能にする方法として、射影的な対称性を取り上げるのだ。

  自分もいつか、いや生涯で一度でいいのだけど、これくらいすごいテキストをかいてみたいと思うのだが、はたして。今回、『経験の条件』を前よりすんなりと読めたのは、岡崎さんの作品を見る機会が結構あったからだと思う。今回のフィレンツェではブランカッチ礼拝堂にも訪れて、マサッチオ・マゾリーノ・リッピの壁画をみたのだけど、完全に岡崎さんの絵の元ネタですやん!っておもった(実際は制作の方がはやくて、自分の絵画の理論を過去の歴史に事故的に見出した、ということだと思うけど)。岡崎さんの絵画を通して、マサッチオを理解することができた、というような。『経験の条件』で展開されている各作家への批評は、確実に、岡崎さん自身の実作とリンクしているものだ。そして、岡崎さんのテキストを信用することができるのは、ひとえに岡崎さんが良い作品(とぼくは思っている)を制作しているからであると思う。この人のいっていることなら信用できるな、ってやつ。これはすごく大切なんだと思う。ぼくも早く、世に出せる実作を建てたいなと思う。

  「批評」と「実作」をどう接続するのか(建築でいえば、「観察」と「構築」をどう接続するのか)、イマイチよくわからないという人がいたら、岡崎乾二郎の作品(とくに二枚組の絵画)をみて、『経験の条件』(のとくに5章)を読んで、そしてブランカッチ礼拝堂を訪れてみればいい。古典を解釈し、抽象化して、極めて現代的な作品へと昇華するその方法を、これ以上よく示している例をぼくはまだ知らない(岡崎さんの場合、実践のほうが先かもしれないけれど)。帰りの飛行機は『眼がスクリーンになるとき』のほうを読むと思うのだけど、こちらも楽しみだ。

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(Mamiya RB67 Professional, KL 90mm F3.5, Kodak Ektar100)