JULY18,2018_建築における幾何学 / R. エヴァンス

 ロビン・エヴァンス(Robin Evans)は1993年に49歳という若さで急逝してしまった建築家・建築史家である。彼のテキストは興味深いものばかりなのだが、なかでも有名なものは、『Translations from Drawing to Building and Other Essays』(The MIT Press, 1997)に収められている「Mies van der Rohe's Paradoxical Symmetries」と「Figures, Doors and Passages」だろうか。前者は題名からしてグッとくる読者が多そうだが、例えば田中純さんも著作『ミース・ファン・デル・ローエの戦場』(彰国社 , 2000)のなかで引用していたりするような、ミース研究における重要なテキストだ。ここでは従来のパヴィリオン建築がもつ「左右の対称性」をバルセロナ・パヴィリオンが徹底的に拒否する(すなわち平面図における非対称性を徹底的に志向する)一方で、逆説的に「上下の対称性」を内在させていることについて考察されている。

 後者のテキスト「Figures, Doors and Passages」に関して個人的に印象に残っているのは、ピーター・メリクリのETHでの教育活動を総決算した『Maerkli: Chair of Architecture at the Eth Zurich』という書籍で特権的に全文おさめられていたことだ。メリクリの建築教育において、あるいはメリクリ自身の設計活動において、重要なメルクマールとしてエヴァンスの活動が位置づけられていたのだろう。このテキストではエヴァンスが「マトリクス型」と呼ぶプランニング(パラーディオがその典型として挙げられるが)と「廊下型」のプランニングが対比的に扱われ、後者に内在する政治的背景が暴露される。そこでは絵画や文学といった建築以外の表現媒体の分析が非常に重要な役目を担っているが、とはいえ絵画的見地を建築に「適応」させるのではなく、あくまで両者の「共通の根」を探っていくというスタンスがとられている。個人的にはその論の運び方が、非常に共感するところだった。

 

 ぼく自身の研究(建築における幾何学とスケール)に関わってくるのは、エヴァンスの『The Projective Cast: Architecture and Its Three Geometries』(MIT Press, 2000)という書籍だ。ロビンの妻であるJanet Evans氏によると、ロビン・エヴァンスは本書の最終章のノーツを書いている途中に急死した、とのこと(本書Forewordより)。つまり彼の遺作が本書にあたる。内容に関して興味のある方は今村創平さんがわかりやすくまとめてくれているので、一読するといいだろう。

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 端的にいって本書の目標は、「建築における幾何学」あるいは「建築におけるドローイング」というものの所在を「心のなかの理想的なイメージを具現化する」という伝統的な居場所から脱去させることであり、そしてそれらを、設計者と建築物のあいだ、正射図法-軸測投影-透視図法のあいだ、想像とスケッチのあいだといった、様々な媒体を「移行」する手立てとして書き直すことにあった。媒体を移行する手立てとしてのドローイングは、その翻訳過程において多分に誤謬の可能性を含みうる。だからこそエヴァンスは、その過程にこそ、建築物を創造する源泉をみていたのだろう。

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△「The Projective Cast : Architecture and Its Three Geometries」by Robin Evans

 本書のIntroductionの内容の一部を紹介してみよう(読書時にメモ程度に残しておいた訳なので本当に期待しないでください)。本書でエヴァンスが試みようとしていることが、少しでも伝わればいいなと思う。

幾何学と建築はそれぞれ独立した主題であるが、建築には常に幾何学が内在している。建築における幾何学は、あるときは物理的に定義される数学的な存在として、あるいは単に言語的なタームとして捉えられている。幾何学は建築を構成する必要不可欠な要素である、と理解されているが、一方で幾何学自体は、決して建築に依存するものではない。建築における幾何学的な要素というのは、どこかでしっかりと製造され準備が整い次第供給されるような、いわば建設用のレンガのようなものとして考えられているのである。建築家は幾何学を生成するのではなく、消費している。少なくともそれは、建築理論の歴史を見直すものにとって必然的な結論になるだろう。(……)基礎はきわめて堅牢である必要があり、それは基礎の”不活性さ”により成立している。”生きたモノ”よりも”死んだモノ”のほうが、扱いやすい。彼らは面白みもないが、トラブルも少ないのだ。丈夫さと安定性を求める建築家からすると、最良の形状は確かに死んだ幾何学であり、そしてそれらの多くは恐らく、建築とともに形作られてきたものである。”死んだ幾何学”という言葉で私が表現したいのは、もはや内側からの発展がないような幾何学の側面である。 ユークリッドによって規定される三角形や矩形、円は、幾何学的な「公平性」(equity)としてかなり使い古された主題である。 使い古され、これらの要素がもっていた”神秘”が失われていくにつれ、建築家の関心は次第に薄れていく。一方で、神秘的な価値が切り下げられた状態において、これらのふるまいは完全に予測可能であり、翻ってそれらの価値は上がるのだ。 結果は予見できる。 ”死んだ幾何学”は、不確かさに対する接種なのである。(pp.xxvi-xxvii)

しかし、建築における幾何学やドローイングといったものは、必ずしも“不活性”であるわけでもない。エヴァンスは次のように述べている。

各章で私は、幾何学が必ずしも建築を安定させるわけではないことを示している。建築における幾何学は、採用時に必ずしも安定しているとは限らないし、後に不活性になるものや、中には死後に生を得るものも存在する。また幾何学の役割に関する認識は、集団的な見落としに大きく影響を受けていることも示す。建築における幾何学が発見される最初の場所はおそらく建物の形態、とりわけドローイングにおける形態であろう。そこでの幾何学は、そのほとんどが無表情で不活性である。しかしその幾何学は、建物が構想される段階において、終始一貫活動的なものであった。思考と想像、想像とドローイング、ドローイングと建物、建物と私たちの眼。それらをつなぐものは様々な表情を持った射影であり、射影に基づいてモデル化したプロセスである。これらはすべて、不安定な領域に存在する。これから私は主張するのは、この不安定な領域で発生する幾何学と建築の関係性に関する興味深い問いである。「構成(composition)」は、建築における幾何学が往々にして探求される領域で、この問題の要点であると考えられているが、それ自体では意味を持たない。「構成」がすべての意味を獲得するには、それをとりまくいくつかの種類の射影、準-射影、擬似的な射影空間を通過し、知覚できる形態へ変換される必要がある。これが本書の主題となっている。(pp.xxx-xxxi)

ここでは「射影(projection)」という用語が、数学的な定義よりも広範な意味で用いられていることに注意しよう。「射影」が示すのは、観測者、遠近法図、正投影図、設計対象といったものの間で生じるイメージの変換である。立体造形物である建築の構想は、常に2次元への射影を媒介しておこなわれる。

建築における「構成」と「射影」の区別は、数学における幾何学のそれと対応している。 最初に登場したのは、事物の測量によく適応した幾何学だった。 これらは古代ギリシア人によって一貫した命題体系に編成され、ユークリッド原論による古典的な解説を獲得し、ここから線、面積、および角度の比と均等性とともにユークリッド幾何学が考察されていった。抽象的で、机上の空論であり、実用性から遠くはなれていたのにも関わらず、これらは人工物の形成や建物の配置、土地の測量という作業に用いられ、それらを翻訳し直すこととなった。そして後に、土地の測量というその起源とはもはやなんの関わりもない幾何学、射影幾何学が登場する。

幾何学に対する注意は、ゆっくりと慎重に、対象それ自体から、影や地図、絵といったそれらのイメージへと移行した。我々は直感的に、硬直した対象から伝播したイメージが突発的・発作的ではないしかたで絶え間なく変形される様を認識することができるし、基本的なイメージを持たずとも、いくつからの異なったイメージから対象の素性を統一的に認識しうる。同様に、リジッドな対象の「イメージ」が伸縮自在であることを直感的に認識することもまた容易である。変形の一貫性はあるものの、測定された長さや角度は維持されない。ユークリッド幾何学の書籍上の図形が、型板のように直接的に材料に用いることができる一方で、射影幾何学における図は常に逃亡的で活動的な、手の届かないアイテムなのである。射影幾何学の発展の鍵となる認識は、視点の応じて形態が変化する一方で、視線は変形しないということだった。そのためここでは、硬直した対象は、対象そのものから変換の媒体に変化する。射影として最も想像しやすいのは光学的な現象で、アンリ・ポアンカレは物理学的な主題に関し、「ここで述べておきたいのは、測量幾何学は固体の研究であり、射影幾何学は光の研究であるということである。」という対比を設けた。ウィリアム・アイヴィンスらの研究を参照して、感覚的な識別をここに加えることもできるだろう。すなわち、物理的に事物を隣り合わせることで図形の合同を判定するため測量幾何学は「触覚の幾何学」であり、観測点が一致するかどうかで図形の合同を判定するため射影幾何学は「視覚の幾何学」である、と。ポアンカレ自身が示したように、どちらの特徴づけも完全な真実ではなく、いささか乱暴なものではあるものの、これらは両者の差異の大雑把な兆候を示すものであり、ここから私たちは、建築構成(architectural composition)がなぜ固有な冒険的企てを内在するものであるのかを理解することができる。つまりメートル法を用いた視覚的な判断による組織化においては、測量幾何学(触覚の幾何学)と射影幾何学(視覚の幾何学)の混合がおこなわれている、と。おそらくこれが、建築における幾何学を取り巻く混乱の理由である。(pp.xxxii-xxxiii) 

建築における構成(文脈としては「construction」の意味合いも含まれている)のもつ特有の性質が、「測量」かつ「射影」であると。換言すれば、建築における構成は、三次元立体の二次元への射影であると同時に、そこには必ずスケールが存在する。序論でさらりと触れられているところなのだけれど、これは非常に重要な指摘である。

 そして序論は、以下のような「建築と他の論題との間に発生する数え切れぬほどの交差」への言明によって結ばれている。こういうことをしっかりと位置づけるところに、エヴァンスの倫理観というか、真摯さが現れていると個人的にはおもう。

こういった状況を、他でも耳にしたことがないだろうか。幾何学的な図法と建物そのものが分離している状況を、書き言葉(エクリチュール)と発話(パロール)の分断と比較してみよう。発話こそが信頼できるものであり、そのユニバーサルな価値にも関わらず、書き言葉は発話の疑わしいコピーであり、補助的な道具であり、中古品あるいは二流品であるとする、哲学的な偏見は未だに存在するし、それらの実証に関しては数多くの検証が重ねられてきた。建築においても、幾何学的な図法に対して、建築そのものを優位に置くような先入観が存在してはいないだろうか。しかし、両分野に類似の状況がまたがっているのにも関わらず、私たちはしばしば、両者を比較するという(一部の人間にとっては否応なしに魅力的な)誘惑に抵抗するよう忠告される。ある種の類似性から文法理論と建築の状況を結びつけ、文法理論から得られた議論や専門用語のどれもこれもを建築に援用し、ぺたぺたと貼り合わせ、建築理論の帰結とすることは、極力避けるべきである、と。なぜならば、類似していることは同一であることではなく、正投影図は正書法でなく、ドローイングはエクリチュールでなく、建築は発話しないのだから。

とはいえ文法理論からは、慎重に取り組めば多くのことを学ぶことができるし、理論を探求するような主題において、それを控えめに参照することの価値は十分に認められている。建築における厄介な問題は、数学や自然科学、人文科学、絵画、文学など他の領域で導かれた優れたパラダイムが、いつも手元に用意されていることだ。それらは常にある代償を払いながら建築に用いられてきた。私たちはより高度に発達した他の領域から自身の理論を請い求め、そこに建築を副題として結びつけてきた。なぜ建築そのものの検討から建築理論を導き出すことができないのだろうか。それは建築が単体ではなく、常に他の領域と結び付けられて存在しているからである。もし他の領域と建築の間の差異を労を惜しまず識別したならば、両者を分離させることなく、互いの関係性をより明確に描き出すことができるだろう。建築は他の領域と区別されたまったく固有の領域ではあるけれど、一方でまったく自律的なものではない。建築はしばしば他の領域に触れているし、そこでは境界を超えた連続的な活動が起こっている。理論形成における重大な知的源泉は結局、建築と他の論題、たとえば幾何学の間に発生する数え切れぬほどの交差なのである。(pp.xxxv-xxxvii) 

 

 本書の副題である「Architecture and Its Three Geometries」について、「構成の幾何学(compositional geometry)」と「射影幾何学(projective geometry)」は序論で示されるのだけど、3つ目はこの段階では伏せられる(明かされるのは本書の最後のチャプターである8章の、さらにラストの記述においてだ)。Introductionの内容からは外れちゃう&ネタバレになっちゃうけれど、最後にこの内容について触れておきたい。

 エヴァンスは「建築における幾何学」の第3層を「記号内容としての幾何学(signified geometry)」として提示する。建築分野では、単純な幾何学図形はしばしば記号としての機能を担ってきた。正方形が合理性のシンボルとされたり、正三角形が三位一体のシンボルされたり。エヴァンスはこうした状況が非-ユークリッド幾何学の登場によって大きく変化していることを指摘する。非−ユークリッド幾何学は20世紀以降の美術家・建築家に多大な影響を与えたけども*1、それは3次元空間には原理的に構築不可能なもの、すなわち比喩的にしか用いることができないものだった。つまるところ、正方形や円といった幾何学図形が「何かを意味していた signifier(signifiant: シニフィアン)」ものであったのに対し、4次元空間や双曲空間は「意味されるもの signified (signifié: シニフィエ)」として扱われるのである。「記号内容としての幾何学(signified geometry)」というのは、20世紀以降の近現代建築において登場した、幾何学それ自体を比喩や象徴の対象として扱う態度を示している。それまでの単純幾何学図形がより上位の概念を表象するための「道具」であったのに対して、非−ユークリッド幾何学はそれ自体が様々な仕方で表象される「目的」になった。いわば幾何学の下部構造から上部構造への移行だ。具体的な事例として取り上げられているのは、テオ・ファン・ドゥースブルグの「カウンター・コンストラクション」やエーリヒ・メンデルゾーンによる「アインシュタイン塔」など。

 僕の研究ではエヴァンスの「構成の幾何学(compositional geometry)」、「射影幾何学(projective geometry)」、「記号内容としての幾何学(signified geometry)」という建築における幾何学の分類を積極的に取り入れている。最重要の既往研究といってもいいかもしれない、。いずれこの本の翻訳とかをできたらいいな、と考えていたりもする。

*1:以下の書籍が詳しい。

Henderson, L. D.: The Fourth Dimension and Non-Euclidean Geometry in Modern Art, The MIT Press, 2013. 2