FEB.7,2021_あらゆるところに同時にいる

ユリイカの佐々木さんの文章(「DEC.29,2020_乳児の移動、モノの遮蔽」で紹介した)がすごくよかったので、佐々木さんの最新の書籍を読んでみた。タイトルから内容がとても気になっていたのだけど、やはりかなりおもしろかった。

 本書のタイトル「あらゆるところに同時にいる」(To be everywhere at once. Being everywhere at once)は、ジェームズ・ギブソンが最後にまとめた著書『視知覚へのエコロジカル・アプローチ』*1の後半に二度書いたフレーズである。
佐々木 正人: あらゆるところに同時にいる アフォーダンスの幾何学, 学芸みらい社, p.6, 2020

 ギブソンはオリジナルな「幾何学」を探っていた。
 紀元前300年頃にはじまるユークリッド幾何学は、「点」は部分に分割できない、つまり広がりがなく、どこでも同じ(等価)であると定義した。「線」には長さはあるが幅がない。「平面」は無色で透明である。これらの単位から「抽象幾何学」の世界が描かれた。
 ギブソンは、ユークリッド幾何学は心理学には使えないと考えた。ヒトや動物は何もない「空間」ではなくて、物質と媒質(空気と水)、そして物質が空気中に露出している「面(サーフェス)」に囲まれている。面が透明であることはない。面は、「平面」のような思考の産物ではなく、じっさい周囲のどこにもある。面は見ることも、ふれることもできる。
 抽象的な単位ではなく、自然にあることから幾何学はつくれるだろうか。ギブソンは、自然の幾何学を『視知覚へのエコロジカル・アプローチ』の前半に四つ提案した。それは「生態幾何学」と名付けられた。
Ibid., p.7

 佐々木はギブソンのアフォーダンスの理論を紹介した研究者としてよく知られていると思うけれど、本書はギブソンの晩年の著作について考察した内容になっている(加えて、それと関連する佐々木さんの論考が多数収められている)。アフォーダンスは環境に埋め込まれた情報を動物がどういう仕方で獲得しているか、という議論だったと思うのだけど、本書で展開されているのはアフォーダンスにも接続しうるような視知覚へのアプローチ。これに関しては、視覚(光)と聴覚(音)の差異に注目するとわかりやすいと思う。

 どこかで固いものどうしがこすれたり、衝突すると、振動波が空気につたわる。それは同心球状の波面を空気中に広げる。波はそばにいる動物身体の表面をわずかに振動させる。動物は、球面波の中心として衝突の方向を知る。身体の表面に到達する波の系列は、衝突ごとに異なる。たとえば、地面に落ちたガラス瓶が割れずに跳ねていれば、波列は規則的な感覚で到来する。瓶がグシャッと割れれば、不規則な波列がいちどきに身体に突きあたる。
 オペラでは、弓と弦、弦と指、金属や木製の管とヒトの息、ヒトの声帯と息が擦れている。起こる振動波は多様で、それらの混合は複雑である。その振動波がつぎつぎと聴衆の身体表面に到来する。このきわめて特殊な振動波を全身に直接浴びるためにヒトは劇場に足を運んでいる。陸生動物を包囲する空気には、物質どうしの衝突に起源を持つ振動波の場がある。それも周囲を知る情報である。

Ibid. p.15

 陸生生物はつねに空気に包囲されている。そしてこの空気は、物質どうしの衝突に由来する振動の「中心」を動物に知らせる媒質(メディウム)になる。動物はそこで、ある程度は、複数の「中心」を同時に知覚することができる。たとえば僕は今、遠くのスピーカーから流れるモンクのソロピアノを聴きながら、目の前の電子ケトルのなかのぶくぶくという音、窓の外で鳥(おそらくムクドリ)が鳴いている音、を同時に聞きながらiPhoneで文章を打っている。それぞれの音が異なった「中心」を持っていて、それらがなんとなくどれくらいの距離・方向で自身の周囲に展開しているのかを、感じ分けることができる。もちろんそれには限度があって、中心の数がある閾値を超えると、音は「かたまり」としてしか聞こえなくなると思うけど。

 触覚による物質表面のテクスチュアや、物を持ったときに感じる慣性などと同様に、空気が伝達する振動や匂いは一種の情報だ。しかし、視覚(光)となるとどうだろう。通常、視覚情報は、網膜に対象の像が結ばれることによってもたらされるものという解釈がなされる。視覚情報は像や脳を介してもたらされるものであり、その際、光線それ自体は限りなく透明な媒質とみなされる。霧が立ち込めているといった特殊な状況でもない限り、空気による「抵抗」はないものとみなされる。これは単純に、秒速約30万メートルで進む光と、秒速約340メートルで進む音の、両者の性質の違いに由来するものと思われる。しかしギブソンの視知覚へのアプローチは、光と空気の衝突を「なかったことにしない」ことをコアとしている。むしろそこからもたらされる情報(というか空気と光の衝突によって基礎づけられる環境)こそが、視覚を条件づけているとギブソンは定位し直すのだ。空気抵抗をベースにした視覚理論。ギブソンは「像の認識」という過程以前に発生している視知覚の情報獲得を議論の対象にしようとした(「像」や「脳」といった第三項を媒介としない、環境と身体の直接的な交渉を問題にしようとする姿勢は、ギブソンの研究において一貫しているものだ)。彼はいわば、ノイズに埋め込まれた情報について考えていた。

 光源から直進する光は、眼に入る前に空気を通過している。そして空気中に大量に浮遊している塵や水分子と衝突し、全方向に散乱している。音とは異なり、圧倒的に速く、かつ圧倒的な密度でこの衝突・散乱が起こるので、私たちが経験している光というのは散乱に散乱を重ねた光ということになる。ギブソンはこの光の状態を「アンビエント・ライト」(包囲光、あるいは環境光)と名付けている。音に例えるならば、森のなかで風が吹いたときの「サーーー」というホワイトノイズに近い音が、状態としては近いんじゃないかと思う。そこではあまりに多くの箇所で葉と空気の、葉と葉の接触が起こっているから、ひとつひとつの音源の「中心」を特定することはむずかしい。結果として、「サーーー」という環境音が “なんとなく周囲から” 聞こえてくる。光に関しては、常にホワイトノイズ的な状況が起こっている、というのがギブソンの立場だと思われる。光源から放たれた光は秒速約30万メートルの速度で進み、空気中の塵や水分子に衝突・錯乱することで包囲光となって環境を充たす。空気中のあらゆる箇所が、光源になる。いたるところに「中心」がある。

 

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△光線は空気中の塵や水分子と衝突することで、散乱を無数に繰り返す(Gibson,James J.: The Ecological Approach to Visual Perception, Hillsdale, NJ: Lawrence Erlbaum Associates, p.49, 1986)。

 光は、私の周囲の布置されているあらゆるモノに衝突・反射しながら私の眼に達し、環境のレイアウトを情報として知らせてくれる。そしてモノの表面から跳ね返ってくる光は、そのすべてが異なる角度(立体角: ソリッド・アングル)で眼に到達する。この角度の違いこそが、環境のユニークな情報を私たちにもたらしてくれる。

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△目玉おやじだ!(Ibid., p.72)。立体角はそのすべてがユニークで、どれひとつとして同じではない。

 たとえば、テーブルにコップが置かれている。コップの向こう側には本が置かれていて、一部がコップによって見えなくなっている。その向こう側にはテーブルの木の模様が見えている。テーブルの向こう側にはおそらく床があって、カーテンの影をうっすらと映していると思われる。

 テーブルに置かれたコップは「像」として認識される以前に(そこに意味が見いだされる以前に、と言ってもいいかもしれない)、周囲の別の表面との立体角の差異という重要な情報を私たちにもたらしている。注目すべきは、包囲光は「今は見えていないあらゆる表面」をも同時に照らしているということ。だからこそ、椅子から立ち上がって数歩もすると、隠れていた諸表面が現れてくる。ヒトは、動物は、以前の「眺め」(諸表面の立体角がつくる構造)を覚えている。そして、他のアングルからの眺めを束ねることで、周囲の環境のモノの位置関係=レイアウトを導出している。これが「見る」という経験だ。

 ある特定のアングルからテーブルの上のコップを見ているとしても、その「眺め」には他のあらゆる箇所からの「眺め」がもたらす情報が埋め込まれている。これこそ、「あらゆるところに同時にいる」(To be everywhere at once. Being everywhere at once)の意味だ。移動なしに「見ること」は成立しない。より正確に言えば、移動によって獲得される複数の「眺め」とその「束ね」なしに、「見ること」はできない。繰り返すけれど、これを可能にしているのは、空気による光線への介入だ。自然光は音や匂いと同じように空気の干渉を受けていて、無数の散乱を繰り返している。それによって、環境全体が光で満たされている。その物質的前提があるからこそ、異なるアングルや位置から、時間をかけて、同一の対象を観察することができる。視覚経験の根本に「動くこと」を組み込むのはかなり思い切った考え方だと思うけど(少なくとも固定された「枠」を前提とする人口遠近法とは大きく異なる考え方だ)、僕は大いに支持したい。視覚を「像」の問題から「移動」や「テクスチュア」の問題へと転換することは、視知覚とアフォーダンスの理論を結びつける意味があったのだと思われる。「動く」ことを前提としない視覚理論は、生態学的に非常に不便だったということなんだろう。

 ギブソンの一連の研究には、動物があくまで音や匂いと同じような仕方で光を捉えている、という仮定がある気がする。そうすると、音の「遅さ」と光の「速さ」があらゆる点で視覚と聴覚の差異をもたらしているという話になる。音の振動波の中心は、割合特定しやすい(能動的に動く必要はそれほどない)。対して自然光は光源(太陽)を除いては中心(すなわちモノの位置)の把握が難しい。だからこそ、能動的な動きとその演算が要求される。これは個人的には発見だった。たしかに耳には蓋がなく、360度開かれているけれど、目には瞼があるし、眼球は動く。耳は受動的だけど、目は能動的な動きを前提としているように思う。いや、そのように進化した、ということか。耳や目の形態は、光や音の性質や、地面や木々、空気中の塵や水分子といった環境を構成する諸要素の「うつし」と言えるのかもしれない。

*1:邦訳『生態学的視覚論―ヒトの知覚世界を探る』古崎敬訳, サイエンス社, 1986