FEB.11,2021_記憶の仮託

 月曜日、横浜のST Spotで屋根裏ハイツ『加害について』を見た。少し未来(おそらく私たちが50-60歳くらいのころ?)の団地の集会室が舞台の演劇。横浜STビルの地下の、ドアを開けると一般の方が普通に歩いているという小劇場で、換気もかねてドアが開けたり閉めたりされる状況でかなりリアルな設定の演劇を見るということがまずとても不思議で、おもしろかった(座席が入り口に向かって配置されていたのが効いていた)。認知機能に障害をもつ中年の男性を中心に、集会所を管理する職員、団地の他の住民などが、何気ない会話を繰り広げる。配慮や気遣いといった行為のなかにも、安全性への配慮や保身といったものが背後に潜んでいて、それは時として加害となりうる。公共的な空間の枠組みみたいなものが、大きな声で痛みを主張できない人に、ぐっと何かを堪えるような瞬間をもたらしてしまう。ビルの廊下へとつながっているドアが閉められると、劇場はとてもしずかになって、換気扇の音だけが響いてくる。孤独さを音に変換したような環境音をドラマに組み込む演出がとてもよかった。また、若年性認知症の男性がスマートフォンを滑らかに使用している感じが「少し未来」であることをとても鮮やかに示していて、それも印象的だった。

 主人公の認知症の男性が、かつて友人と海に行った話を、他の異なる登場人物らへと断片的に語るシーンがあった。本人が話したことを忘れてしまうために、このエピソードは劇中何度も語り直される。集会場の職員は「はいはいまたその話……」みたいになるのだけど、よくよく聞いてみると、異なるディテールと異なる語りの文句が、語り直しのたびに浮かび上がっていることがわかる。あきらかに別の記憶との混同が起こっているにも関わらず、この海の話はどこか真実味を帯びていた。単一のエピソードから、記憶の取り間違いを通して、そのひとの人生そのものが垣間見えたからだろうか。

 昼食にいった職員が、徘徊を防止しようという配慮でドアに鍵をかけたため、主人公が集会所に閉じ込めらるというシーンもあった。集会所でひとりになった主人公は、忘れ物のスマートフォンを通して、見知らぬ女性と長いあいだ電話をする。電話が終わり、他の登場人物が集会場に戻ってくる時には、電話をしていたことを本人は忘れてしまっているから、密室で展開されたこの一連の会話は「なかったこと」になって劇はどんどん進んでいくのだけど、もちろん観客はそのことを覚えている。他者の記憶を世界につなぎとめておくための座、という役割を、観客が担うことになる。これが今回の劇の非常に重要なところだと思えた。帰り際、僕も他者の記憶を知らず知らずのうちに仮託していたりするのだろうか、と考えていた。あるいはその逆も。僕は記憶力が悪いので、自分は忘れているけれど他者は覚えているということがよくある。そのたびに申し訳ない気持ちになるのだけど、でもそれによって、他者や社会とのつながりを感じるということもある。僕にとっての「公共性」は、自分が忘れてしまった過去を僕ではない誰かが覚えている、ということなのかもしれないと思った。

 夜、キッチンの換気扇をつけてタバコを吸っているとき、ふと、いま流れている時間のことを、10年後の僕は覚えていないだろうな、と思うことがある。もしかしたら何かのきっかけで思い出すこともあるかもしれないけれど、でも、僕が死んだらどう考えても、この瞬間の世界の眺めは世界から完全に消滅してしまうのではないか、と。個々人の生はそういう瞬間で満ち満ちている、ということに、途方も無い気持ちになる。写真をとることや、日記をつけることや、柱に伸びつつある身長の傷をつけることは、そういう途方もなさへのわずかばかりの抵抗なのだろうか。でも、いくら写真をとっても、チーズに空いた穴のようなもので、生は世界につなぎとめておけはしない(が、かけがえのない)瞬間で溢れている。

 今日、いつか話してみたいなと思っていた人にもう会えないということが突然わかり、呆然としてしまうということがあった。個人的な交流はないのだけど、その人の作品はとても好きで、次回作がもう見れないということにとても落ち込んでしまった。でもまちがいなく、その人の生のはしっこのはしっこにある断片でも、僕は覚えている。それが大切なことなのかどうかはわからないけれど、確かなことだとは思える。