SEPT.23,2018_帰ってきたGMC

先週の土曜日の話になってしまうのだけど、近美のゴードン・マッタ=クラーク展を再訪した。土曜日限定で公開されていた奥村雄樹さんの「帰ってきたゴードン・マッタ=クラーク」(Welcome Back, Gordon Matta-Clark)という映像作品をみるためだ(企画展のほうをもう一度ゆっくり見たかったというのもあるのだけど)。これがべらぼうにおもしろかった。比較的新しいこの作品では、星野太さんの『奥村雄樹―ジュン・ヤン』で書かれていたこと以上にすごいことが起こっていた気がする(当然貫かれている理論はあるものの)。下のリンクの作品。
https://www.muhka.be/programme/detail/1109-yuki-okumura-welcome-back-gordon-matta-clark

本作の零地点は、はたからみると「意味がない」あるいは「根拠はない」が、同時にとても切実でもあるGMCと奥村の共通点(とても個人的な身のうえ話)であり、それをふまえた「奥村雄樹、GMCの生まれ変わり説」(という設定)である。だからこそ、「奥村雄樹によるゴードン・マッタ=クラーク」ではなく、「帰ってきたゴードン・マッタ=クラーク」。ざっくり内容をいえば、GMCの生まれ変わりを奥村が演じることで新たに生まれたGMC=奥村という謎の人物が、GMCのかつての友人であったフロア・ベックス氏にインタビューをするというもの。フロアさんはInternational Cultural Center in Antwerpのディレクターだった人で、GMCが病気で無くなる前年の作品「オフィス・バロック」の仕掛け人であり、同時に彼の友人でもあった人だ。フロアさんは帰ってきたかつての友人に向けて、(というていで)、GMC=奥村に話しかける。GMC=奥村は生まれ変わりによって失ってしまった当時の思い出を教えてもらうと同時に、自らの死後の状況についても尋ねていく。

一種のフィクション。一種の演劇。しかし本作品では、フロアさんも奥村さんも、GMCという存在を仮構しきれない瞬間が随時はさみこまれる。虚実が反転(あるいは共存)しうる仮想的な場の構築。本作ではフロアさんも途中から本当にゴードンを想うように話しているようにみえるし、奥村さん自身も、自分自身のパーソナルな出来事を語っているのか、あるいはGMCになりきって語っているのか、判別ができない局面が何回もあった。自由間接話法的な(個人的には最近まで読んでいた『眼がスクリーンになるとき』で試みられていたことにとても重なると感じていた*1)、“ I ”や“ You ”がだれのことを指す代名詞なのか、よくわからなくなるような局面。ここがとても面白かった。

本作が主として取り上げるのはGMCの「オフィス・バロック」という作品だ。展覧会でいえば最後のフロアで模型付きで展示されていた作品で(ここで展示されていた映像には当時のフロアさんが出てくる。構図も同じような感じで)、個人的にはフードを除いて一番おもしろいなとおもった作品だった(フードに関してはGMC個人の作品とは言えない気がするので外すけれど、とても好きだった)。本作は一望性の有無という点でこれまでのビルディング・カットと大きく異なるものであり、カット全体を見渡せるポイントは図面をのぞいてほとんど存在しない。記録映像でGMC本人が語っていたように、この作品はこれまでのような「一撃」の作品ではない。これは市が安全上の問題から外形のカットを認めなかったということに由来していて、この制約から、建物内部の垂直方向の操作や変形を主題とする方向へ、方法上の変更を求められた。多層的なドローイングとして建物をカットすること。歩き回って、建物と戯れ、穴をくぐり抜け、断片を記憶の中でつなぎあわせることで、各人がドローイングの生成(一望的ではない全体の獲得)をおこなうのだ。一撃で全体のイメージを獲得するのではなく、部分の経験をむしろ「演算」すること。これは極めて建築的な問題であり、GMCの実践において、建築家の端くれである自分が最も吟味しなければならないのは本作だろうなと考えていた(がゆえに、奥村さんの作品はかなり衝撃的におもしろかった)。切断によって接続すること。破壊ではなくむしろ修復のために、穴をあけること。これまでの作品で断片的に試みられていたこれらの問題が、制度への抵抗のなかで全面化する。

「オフィス・バロック」では「交差する円」という形態上のモチーフを用いて、垂直方向への切断が組織化されていた。ぴったり重なり合うのではなく、ずれて重なり合うこと。これは建物内部での経験を串刺しにし、構造化するための形態的なルールで、「切断による接続」を目指したものであった。「帰ってきたゴードン・マッタ=クラーク」では、「オフィス・バロック」におけるこの構成上のモチーフ(ずれて重なり合う二重の円)を引き継ぎ、積極的に作品構造に組み込んでいる。たとえば、奥村は日本人であり、外見上GMCと共通点をもっているというわけではなく、むしろ遠い。が、それと同時にとても奇妙な共通点を持ち合わせてもいる(兄のこと、誕生日のこと)。奥村とGMCは、決定的なズレをもって部分的に重なる。このズレて重なる点が決定的に重要で、というのも、ずれながら重なった地点に「私」がいることで、「私」は奥村でもなくGMCでもないような(あるいはどちらでもあるような)存在へと位置付けられることになる。ずれ=切断的な穴によって、GMCと奥村の交換が(あるいは第3者への綜合が)可能になっている、のだと思う。また、「帰ってきたゴードン・マッタ=クラーク」という作品が提示する仮想世界において、GMCという存在そのものが(フロア・ベックスという主観と奥村雄樹という主観が共有する)一種の穴=媒体であり、両者はこの穴=媒介を通した奇妙なコミュニケーションをおこなっている。ゆえに、ディスコミュニケーションが露呈する瞬間が何度もうまれてしまう(フロアさんはゴードンとして奥村さんに話しかけ、奥村さんは奥村さんとしてそれに応答してしまうのだけど、それでもなんとなく会話が継続してしまうような)。本作品が美しいのはまさしくこの瞬間においてだ。
部分的に重なり合いつつも宿命的に切り離されたペア、というモチーフが、あるときには友情として、あるときには「オフィス・バロック」の物理的な孔として、あるときには死者との奇妙な交流の場として、いくつもの異なるスケールで展開される。モチーフはひとつの形式であり、それはモチーフ間の関係をもつくる。それは作品を構造化し、作品を作品外へと開く。

奥村さんは終始、iPhoneを自分の目の位置に構えていた。基本的に本作は田村友一郎さんが第三者的に撮影した映像で構成されているのだけど、フロアさんがこっちを向いているあいだは、すなわちiPhoneとフロアさんの目が合い、フロアさんが画面の向こう側にいる私たちを見つめる瞬間は、iPhoneで撮影された映像が挟み込まれる(これは映像が始まってから終わるまでの一貫したルールだった)。フロアさんとGMC=奥村の間にはさまれるiPhone、これが決定的に重要な気がした。この物理的な遮蔽物(であると同時に外界への窓でもあるオブジェクト)が、“ I ”や“ You ”を曖昧にし、GMCと奥村が識別不可能になる瞬間をつくっているような気がする。(同時に田村さんの撮影方法もおもしろかった。度々あった「よそ見」が何かとおもっていたら、後から考えるとこの作品の核心である二重性を撮影されてたんだろうなと、そんな箇所がいくつもあったり)。

///////////////////////////

明日から、イタリアの写真アップしていきます。見た建築については感想をはさみながら。
下はフィレンツェの写真。フライングアップロード。

(Canon AE-1 Program, FD F1.4 50mm, 記録用フィルム100)

そういえば「去年の記事を振り返ろう!」みたいなメールがはてなから届いて、去年の今頃は学会の写真を取り上げていたなあということを思い出した。ぼくは非常に忘れっぽいので、旅先の感想等々を振り返ることができるのはいいことだ。

*1:このあいだ金沢で、福尾さんと星野さんのトークがあったみたいなのだけど、もし奥村さんの作品構造と福尾さんのテキストの類似なんかが話題に出ていたとしら、それはマジで聞きたかったなと思う。