FEB.25,2021

 午前中、裏山で「ノーツ」の書影を撮った。この雑誌は毎回テーマがはっきりと決まっているので、書影もそれに合った場所で撮っていくのがいいのかな、と考えていた。今回は庭がテーマなので、野外で撮るのがいいのかなと思って、天気も良かったし、風もおだやかだったので、えいやと撮った。物撮りってほとんどしたことないのでやり方が全然わからないのだけど、外だとライティングの技術とかは関係ないのでむしろ気楽だ。なるようになれ。

 ちなみに部屋にはあたらしく裏口のドアができて、そこをでるとコンクリートの土間が広がっている。外に電源もあるので、DIYや作品制作にはとてもありがたい場所だ(実際、棚やテーブルを作る際にここで丸ノコ使ったりサンダーかけたりしたけど、非常に便利だった)。この土間の先に斜めの床があって、ここが書影を撮るのにピッタリだった。書影用の場所じゃないかと思うくらいだった。日中はここに、木の影がうつったりしている。

 

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 ちなみに今回の雑誌、左ページがインタビューの記録、右ページが注釈という構成になっているため、レイアウトの際に大幅なカットが必要になった(メモをとれるような余白を大きく取りたい、という思いもあって)。割とがんばって書いた人物解説などはすべてカットになってしまったのだけど、もったいないのでここに掲載して供養しておこうと思う。南無……。これらはカール・テオドール・ソーレンセンの「「庭」の起源」という翻訳文に付した注なので、一緒に読んでいただけると本文の理解がしやすい部分があるかもしれないです。

スティン・アイラー・ラスムッセン(Steen Eiler Rasmusse, 1898-1990)はデンマークの建築家・都市計画家。『経験としての建築』(佐々木宏訳, 美術出版社, 1966)では歴史的な広場や建築だけではなく、コルビュジエやアアルト、アスプルンドなどの近代建築の実例を観察し、それらを形態や様式ではなく、現象という視点から分析している。教え子にヨーン・ウッツォンがいる。

ウィリアム・チェンバーズ(Sir William Chambers, 1723-1796)はイギリスの建築家。18世紀のイギリス建築界に大きな影響を与えた人物のひとりである。建築史家のH. F. マルグレイヴは、チェンバーズの著書『公共建築論』(Treatise on Civil Architecture, 1759)を「イギリスにおけるパラーディオ主義の終焉を示すもの」(『近代建築理論全史1673-1968』加藤耕一監訳, 丸善出版, p.106, 2016)として位置づけている。本書のなかでチェンバーズは、ある一定の比率=プロポーションに教条的に固執することの非合理さを指摘した。比例に関する相対主義という、本質的に反古典的な態度である。18世紀のイギリスにおいて主題となりつつあった美学理論は、幾何学、対称性、比例といった従来の関心とはまったく異質な観点を前提とする概念──ピクチャレスク──であった。チェンバーズはパラーディオ主義の伝統を引き継ぎつつ、新たな美学理論との間で揺れ動いていたのである。背景にあったのは(イギリスの植民地的関心に由来する)中国に向けられたただならぬ関心であり、チェンバーズが中国について書いた著書の中では、中国庭園の配置の技法について章が割かれている(Ibid., p.116)

ウィリアム・ケント(William Kent, 1685-1748)はイギリスの造園家、建築家および画家。画家としてキャリアをスタートしたケントは、1720年代末には複数の景観整備に関わるようになり、1730年をすぎてからは建築に関心を向けるようになる。当時のイギリスでは、整形的なバロック庭園に対して、非整形の自然美が論じられはじめていた。この議論の重要な方向づけをおこなったのは詩人アレキサンダー・ポープであり、彼自身も「あらゆる造園はすなわち風景画である」という信念のもとに自邸の造園に取り組み、ケントは友人としてそれに協力したとされる。彼らのあいだを取り持ったのは、イギリスにおけるパラーディオ主義の主導者であったバーリントン伯であった。初期ピクチャレスク庭園の傑作とされるラウシャムの庭園では、風景画的な「眺め」を敷地内に複数用意すべく、樹木や彫像、建築物が地形と対応しながら慎重に配されている。

ランスロット・“ケイパビリティ”・ブラウン(Lancelot “Capability” Brown, 1716-1783)はイギリスの造園家。1741年、ブラウンはコブハム卿にストウ庭園の造園家として雇われた。当時、この屋敷の造園を指揮していたのは晩年のウィリアム・ケントであり、ブラウンはケントから多くを学んだとされる。ケントの引退後、彼は主任庭師としてストウ庭園の造園作業を引き継いだ。ブラウンは1750年代の中頃にはイギリスで最も著名な造園家となり、生涯で170以上の庭園を手掛けたとされる。 ブラウンは水や木々、自然の眺望などの自然の要素を取り入れることを好み、同時に彫刻的な要素を導入することを避けた。彼はしばしば小川をせき止めた人口湖を造成し、曲がりくねった小道や等高線に沿ってうねる芝生と組み合わせた。へニンガム・ホールでは、一本、数本、数十本からなる樹塊が100を超える数用意され、多種多様な密度で分散配置されており、これによって邸宅前面に展開する広大な風景に視覚的な変化を与えている。