SEPT.20,2018_リー・キット展

品川駅の西口をでて400mほど歩いたくらいで、ぽつぽつと降っていた雨が徐々に強くなり、50mほど進んだくらいでどしゃ降りになった。はいていたスニーカーはかかとの部分がすり切れて破けてしまっているので(そろそろ買い替えたい)、くつのなかは完全に水没し、ややげんなりしながらも歩く。国道15号は毎度のことながら喧しくって、この大雨もあり、トラックのタイヤがアスファルトを擦る音がより物質的に感じられて、ややげんなりしながらも歩く。

住宅街にはいると、あたりはとたんに静かになって、タイヤがアスファルトに接触する音は雨粒がアスファルトを叩く音へと変わる。靴の水没もそろそろ気にならなくなってきたころ、原美術館に到着した。前庭でたばこを一本吸って、げんなりした少し気持ちを落ち着かせる。ホープなのですぐに吸い終わって、建物に入った。キットさんの作品は撮影可能らしい。

展示室はとても静かで、この雨のせいか人もほとんどいない。最初の部屋はほとんど空っぽで、壁にかけられた絵らしきものが一点、プロジェクターで投影されている。プロジェクターが投影しているのは、ただの白い光のようだ。絵を見ようとすると、斜め左上あたりに、150%くらいのサイズの自分の影がうつる。髪がパサパサだなと思う。近くでよくみると、白い光で照らされた壁には細いグリッド上の線が走っている。これが投影された線なのか、壁の模様なのか、わからない。タブローに描かれているのは女性の後ろ姿で、プロジェクターの影になっている自分の姿と相似形となっているに気がつく。自分の影を見て、髪のけのパサパサぐあいを改めて確認する。

原美術館でやっているリー・キット展は、大変にすばらしかった。これほど美しい展示をみることはそうないだろう。感激した。彼の個展をみるのははじめてだったのだけど、もともと住宅である原美術館で開催されて本当によかったと思う。ホワイトキューブではなく、テクスチュアがあり、おおきな窓があって、窓の先に魅力的な庭があるような場所が、彼の展示にとてもフィットしていた(ベネチア・ビエンナーレでの彼の展示がそうだったと思うのだけど、強い素材感をもつ壁面での展示もみてみたい)。オブジェクトの配置、その色と質感とサイズ、距離、視線、微細な揺れ、スケールとパースペクティヴの輻輳。きわめて複雑で美しく単純な空間。オブジェクトというよりは、「空気」としかいえなようなものが展示室に描かれている。ジャンルとしてはインスタレーションなのだけど、この人はきわめて画家だなと思う。

 

こちらから、壁をへだてた向こうの部屋へ、プロジェクターで光が投影されている。光は半透明のプラスチックボックスごしに投影されていて、プラスチックボックスには投影された光が貫通し、手前と奥に、大きさの違うふたつのイメージを刻印している。これをみるに、どうやら展示室の風景を撮影した映像を、撮影された場所にぴったり重ねて投射しているみたいだった。プラスチックボックスから発射されるぼやけた映像が、展示室の輪郭を曖昧にしている。プロジェクターが照らす向こうの部屋には、何かがかけられている。この何かには、この何かを以前撮影した映像が、プラスチックボックスごしに拡散した光となって重なっているのだけど、距離が10mくらいあるので、輪郭はよりいっそう曖昧なものとなって、ここからだと、それが絵なのか、投影された光なのか、判別がつかない。近づいてみると、自分が影になってしまい、そこに何が描かれているのか見えない。眼がなれてくる。かろうじて何かが描かれていることがわかる。「shave it, carefully(慎重に剃れ)」(たしかそう書かれていた)。絵の具がきれいにうすく塗られている。

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うすいブルーのうすい布がかけられている。空調のかぜで、ひらひらと揺れるその布に、壁にかけられた少年(少女?)の写真を撮影した映像が投影されている。映像の写真も、同じくゆらゆらと揺れている。ここではない場所の風。おそらく空調の風ではなくて、窓から流れてくる風だろう、自然な揺れだ。あまりに自然な揺れだけれど、でも、撮影された揺れだから、これはフィクションだ。映像のうしろの、実物の布の揺れがそこに重なるのだけど、空調の風によるこちらの揺れは人工的で、なんだか嘘みたいだなとおもう。こっちのほうがフィクションだとおもっていたら、映像の写真は、とつぜんの突風でめくれあがる。めくれ上がると、スクリーンとなっていた布が突如として露わになる。掛けられていた布の青は、本当に綺麗な青色だった。あまりにも実在的な、あまりにも美しい青が、フィクショナルな状況の合間を縫って一瞬あらわれる。

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一階で展示されていた絵画が、二階の展示室でも掛けられていた。と思いきや、一階で展示されていた作品を撮影した映像が無垢のキャンパスに投影されていたことがわかる(カメラがとつぜんガクッと動く)。プロジェクターから投射されるのは、窓からの光が眩しく絵画を照らしている映像だ。そしてその状況を写した映像は、目の前に掛けられている無垢のタブローも眩しく照らす。実際に掛けられているタブローを見ようとすると、プロジェクターで投影された絵画は見えなくなる。投影された絵画を見ようとすると、目の前に掛かるタブローは見えなくなる。眩しい光のほうを見ようとすると、光しか見えない。

この部屋には大きな窓があって(下の写真の右側)、この窓を撮影した映像が、90度回転して投影されている(下の写真の裏)。投影されている窓は実際の窓と同じサイズで、映像の下部に、字幕が静かに流れている。 映像をひととおり見たあと、実際の窓のほうを振り向く。窓には半透明の白いロールスクリーンが掛けられていて、その向こう側に庭の木々が見える。雨の音が聞こえる。窓台に、灰色のマグカップが置かれていることに気がつく。投影された窓の方に、マグカップはない。

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彼の作品で一貫しているのは「識別不可能性」だと思った。私は掛けられた絵をみているのか、投影された絵をみているのか、わからない。近づいてよく見ようとすると、私の身体=影が鑑賞に介入する。ますます見えない。いくつかの作品で見られた、展示空間をモチーフそれ自体としてあつかう手法によって、展示空間と作品の間に入れ子状の関係性ができ、そこに自分もプロジェクターの影として参加する感じはとても楽しかった。モダニズム的な抽象絵画でもなく、リレーショナル・アートでもなく、そのどちらでもありうるような。鑑賞者の身体が、最初から大事なものとして関数に組み込まれているのだけど、ただしそれはフリードが「演劇性」というほどのものではなく、たんにノイズとして、作品の識別不可能性を構成する素材のひとつとして勘定されている、という感じ。

実体としてそこにあるものと、フィクションとしてそこに投影されたもの、そしてそこに移されたもののリアリティと窓の外の木々の揺れが結託してひとつのイメージとなり、ぼくはそれらをうまく識別することができない。自分の身体ですら、影となって識別の邪魔をするのだから、ぼくにできることは、いままさに見えているものをそのつど・その距離において仮設的に知覚することだけだ。そして仮構された知覚が反転するたびに露呈するのは、色や、絵の具や、ささやかな言葉や、日用品たちの、「たんにきれい」であること。

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ミュージアムショップにいく。窓台のマグカップが販売されていた(キット本人によるオリジナルマグカップだったみたい)。あれ、でもこれ緑色だ。さっきは灰色だったのになぜ、、。展示されていた灰色のマグカップがほしかったので店員さんに聞いたところ、上で展示されていたのもこの色だったという。自分の見間違いに衝撃をうける。閉館ギリギリだったこともあり、展示室の暗さと、窓の向こう側の木々の緑色によって、マグカップは灰色に見えてしまったのだろうか(窓の向こう側が赤色だったらば、このマグカップはちゃんと緑色に見えていたのではと思う)。あのときの灰色が、宙に浮く。そういえば廊下に展示されていた作品に、「ぼくたちはほとんど何もみていない」というような言葉が書かれていたなと思い出す。陽光が入る時間帯に、もういちど来よう。

目の前に置かれた、「full of joy」と書かれた緑色のマグカップをみながら、この日記を書いている(結局買ってしまった)。ぼくはこの緑色をみながら、宙づりになってしまったあの灰色を思い出している。あの灰色を思い出すということは、窓台と、あの部屋の仄暗さと、ロールスクリーンの向こう側の木々の緑色と、雨の音と、90度回転した壁に投影された窓の映像ーーそこにマグカップはなかったーーを思い出すということだ。オブジェクト単体ではなく、それを包む環境をまるごと思い出すということ。それらのアレンジメントがなければ、あのときぼくがみた灰色は説明がつかないのだから。

 

灰色だとおもったら緑色だった。

思い出すのはひとつだけ。ロバート・ヴェンチューリの母の家だ。木々に囲まれたこの家のファサードは北向きなので、昼間にいくと逆光でグレーに見えるのだけど、よくよく近づいて見ると、深い緑色をしていることに気がつく。

18日、ヴェンチューリが逝った。享年93歳。5年前にジム・ホールが亡くなった日のことを思い出す。彼も93歳だった。ぼくにとって「現代」がはじまるのは、建築でいえばヴェンチューリだし、ジャズでいえばジム・ホールからだ。

ぼくは彼からあまりにも多くのことを学んできたし、これからも、あまりにも多くのことを彼から学ぶだろう。灰色だとおもったら緑色だった。ぼくは、灰色だとおもったときのことを、いつまでも忘れないでいたいなとおもう。合掌。

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(image by Wikimedia Commons)