FEB.29,2020_交信

 午後の労働のあと、吉田志穂さんとduennさんの展示『交信』を見に、恵比寿のNADiff a/p/a/r/tへ。資生堂ギャラリーの展示を見逃してから吉田さんの展示はできるだけ行きたいと思っているのだけれど、今回は感銘を受けた。duennさんのつくる終わりも始まりもない音は、耳で聴くというよりも身体全体を振動させるような効果があって、スクリーンも音によって微妙にゆれていて、良い意味で頭がクラクラしてよかった。50分以上見てそろそろ一巡したかな?って思ったころに、アンプを揺らしたときの「カシャーン!」みたいな音がして、まだ一周してなかったのかと驚いた。聴き逃しちゃっただけかもしれないけれど。

 前回ユミコチバでみた展示の構成も(展示壁の使い方とか動線のつくりかたとか)おもしろかったけど、今回は展示の形式が抜群によかったように思う。空間に音が充満していて、そのなかでぶるぶる揺れるスクリーンに複数の異なる機材から光が投射されるという形式が、吉田さんがこれまでモノクロ写真でやってきたような、すべてのイメージをフラットに扱いながら、破片をつなぎあわせるようにひとつの出来事(物語なのか、あるいは伝記なのか)を語るような実践に実にフィットしているなと感じたのだった。インターネット上のイメージの不確かさとアナログ写真の確かさ、偶然と作為、「わかること」と「わからないこと」、らの境目をどんどんなくして、モノクロフィルムという共通の条件の上ですべて等価に定着させるということを、よりいっそう複雑に進化させるとこうなるんだろうなと思った。

 スクリーンの真ん中に大きく投射されるのはプロジェクターの光で、たぶん5分に一回くらい?の感覚ででイメージが切り替わりつつ、わからないくらいにゆ〜〜っくりと動いていた。この右側にアナログのスライド映写機の光が投射され、プロジェクターとは異なるリズムでがしゃりがしゃりと写真が切り替わっている。左側にもアナログ映写機(CABINのちょっと安っぽい感じの)の光が写っているのだけれど、こちらはずっと同じイメージのまま。窓がふたつあって、まんなかに青い謎のオブジェクトがある、ぎりぎり室内だとわかるぼやけたイメージが、あたかも写真かのようにスクリーンに映されている。後になって、これと同じ室内の写真が“ピントが合った状態”でプロジェクターから投射されたために、この青いオブジェクトはブルーシートだと判明する。つまり、イメージそのものはピントがあった写真であり、ピントがぼけているのはおそらく映写機のレンズの操作によって、ということに事後的に気付かされる。「ピントをぼかす」という(すごく写真的な)操作がなされた地点が、イメージを撮影した段階ではなく、イメージを投射する段階にあったということを突きつけられて、ぼくは意表をつかれた。そもそも「ピントをぼかす」という操作が撮影時のレンズで行われたのか映写時のレンズでおこなわれたのかは観賞者には識別不可能なはずなのに、ぼくは無意識のうちのこのイメージのぼやけを撮影時のものだと考えてしまっていた。そういう、自分のなかで凝り固まっていた観賞における約束事がほぐされるような感覚が、ここであった。

 イメージの制作に対して作家が介入している箇所が作品のあらゆる段階(イメージの撮影・取得・加工・映写、配置……)に点在していて、破片のように散らばったそれらは星座のように、次第に像を結んでいく。思い出したのは、以下の門林さんの記述。

映画のメディウム固有性は、デジタル時代に初めて危機にさらされたとしてよいのだろうか。ここで二つの立場を対比させてみたい。

①映画は今日、ポストメディウム的状況にある。なぜなら、デジタル時代において、映画のメディウム的条件は、その物質的支持体であるセルロイド・フィルムに還元できないからである。今日、必要とされているのは、映画の存在論を、その単一の物質的なメディウムに還元することなく再構築することである。

②映画はその誕生の瞬間からつねにすでにポストメディウム的状況にあった。なぜなら、映画のメディウム固有性は、グリーンバーグにとっての絵画のメディウム固有性とは異なり、映画に固有の単一の物質的支持体に存するのではないからだ。むしろ、映画のメディウム固有性は、一連の技術的支持体(フィルム・カメラ・映写機・スクリーン・映画館など)と、映画的経験を構造化する一連の約束事のうちに存している。

 この双方が、慎重な検討に値する重要な問題設定であり、これまでのところ映画理論は、主に①の立場から出発してクラウスのポストメディウム論に関心を寄せてきた。しかしながら、私の考えでは、映画理論がクラウスのポストメディウム理論から汲みとるべき教訓の核心は、むしろ②で定式化した立場のほうにある。

門林岳史: メディウムを混ぜかえす──映画理論から見たロザリンド・クラウスの「ポストメディウム」概念 , イメージ学の現在: ヴァールブルクから神経系イメージ学へ, 東京大学出版会, pp.258-259, 2019

 R. クラウスが既に指摘しているように、とりわけ映画(およびヴィデオアート全般)におけるメディウムの固有性は、複数の装置が集合・協働する条件と、それを経験する際の「約束事」(convention)によって規定される。それはいま僕らがポストメディウム的に状況にいるから、というわけではなくて、おそらくカメラという技術(とそれによって写真や映像が半ば自動的に生産されていくシステム)が発明されてからずっとそうなのだろう。今回の吉田さんの作品では(恐ろしいほどの簡略化だけれど)、アナログ撮影された写真がデジタルデータ化されてプロジェクターで投影され、その隣にコンピューターのスクリーンをポジフィルムで撮影したイメージがスライド映写機で投影されて重なって……みたいなことが起こっている。加えてインターネットで取得したイメージをプリントし、そこに物理的に光を当てつつアナログのモノクロフィルムで複写して……みたいなことがなさているので、事態はますます複雑になる。

 吉田さんの作品には、ぼくらが暗に抱いている写真への信頼(authenticity)を、新たな知覚の形式を組み立てるためのひとつの素材として取り入れているようなところがあると思う。ものすごく不確かな(ということにしている)Web上のイメージと、信頼できる(ということにしている)ポジフィルムを用いた記録写真みたいなものが、様々な手段を用いて混合されひとつのスクリーンにレイアウトされる。オーセンティシティのコラージュといってもいい。そういうものが一枚のイメージにも叩き込まれているし、インスタレーションそのものにも現われている。結果としてそれを見るとき、イメージの真正性=写真の記録性?)に関わる常識はこっぱみじんに撹乱されてしまって、イメージのもつテクスチュアそのものと出会うような経験をする。誰かの、どこかの、事物や場所に関する記憶を、生々しく頭に植え付けられてしまったような。そういう知覚体験が、写真のもつ質感とか、映写機とプロジェクターの描写の違いやエッジの差異(アナログ映写機のエッジはがたついていたりぼやけたりしているけれど、プロジェクターの光はパキっとしている)なんかも慎重に加味しながら設計されている。

 網のようなものに虹色の映像がプロジェクトされた、ベランダかどこかの夕闇の風景を撮った写真がすごく印象に残っている。この写真が、プロジェクターとスライド映写機の両方からスクリーンに投射されて、反転しつつ、重なっていた。

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