APR.2,2021_シン・エヴァンゲリオン劇場版:||

 先週と今週で計2回、シンエヴァを見てきたネタバレあります。未見の人は気をつけてください。まず率直に、すごくよかった。エヴァという作品の最後として理想的かもしれない、と思えた。この納得感はどこからくるのか、と見終わった後ずっと考えている。「ケリをつける」というというセリフは劇中何度も出てきたけれど、まさしく今回の映画自体がエヴァンゲリオンという作品にケリをつけるために作られていた。それはばらばらなものに事後的な整合性を見出すことで、その事後的な整合性の発見と発出の仕方において、今回の映画は非常にすぐれていると思われた。

 内容にまで踏み込むとキリがないのだけど、特に感動したところを書き残しておく。まず第三村。この展開を前半で挟んだことが、本作(というかエヴァというシリーズ全体)がうまくいった最大のポイントだと思われる。第三村というのはつまるところリアルな生存の場(現実)であって、シンジはこの現実のなかで立ち直ることになる。田植え作業が描かえる場面なんてエヴァでは絶対ないと思っていたのでかなり衝撃的だった。田植えも含めて、作物を育てたり、人間や猫が子供をつくったりということが重要なテーマになっていた。子供が生まれ、作物が育ち、生活し、老いて死ぬということ。それはつまり、時間が経過していることだ。自身がニアサードインパクトのトリガーになったこと、そしてカヲルの死によってどん底まで落ちてしまったシンジを救うのは、まさしく14年という歳月によって大人になったケンスケとトウジだ。このふたりは、旧TVシリーズから25年という歳月を経た観客の視点を代弁しているように思えた。大人になってしまったふたり(ぼくら観客)が、時間がとまったままのシンジやアスカを救う。本作の「納得感」は、エヴァンゲリオンというシリーズが引き受けてきた時間を作中に構造的に取り込んでいるからこそではないかと思われる(それは色々と批判を呼んだQから既に仕込まれていたわけだけれど)

 現実を救うのはフィクションであり、逆にフィクション世界を救うのは現実だということ。両者の相互補完的な関係について、映画のラストと対になるようなかたちで、この第三村でのエピソードが効いている。フィクションとリアリティの同時性というテーマは旧劇場版でもかなり重要だったし、さまざまな手法で表現されていたけれども、同じテーマでもここまで違うかというくらいギャップがあった。旧劇ではとにかく徹底して観客に嫌悪感を与えるような表現を盛り込みまくることによって、見ている側に「現実」を突きつけるような(劇場にいながら我に返るような)手法を取っていたけれども、新劇では第三村という別の回路で(かなりまっとうな仕方で、素直に、ど真ん中ストレートな表現で)現実とフィクションの関係を描くことに成功している。ぼくは旧劇場版のあの「気持ち悪さ」も大好きだけれども、新劇場版のようなやり方での突破はとても現代的だなと思う。ラストがかなり凡庸な郊外の風景をかなり凡庸に映したカットで終わるのもとても良いと思った。凡庸な風景のなかにフィクションを見出すことの救いのようなものをちゃんと提示してくれていたと思う。

 Qから引き続き登場している黒いプラグスーツを着た綾波の最後もすごくよかった。ものすごくよかったと思う。第三村での綾波は、あきらかに子供(というか幼児かな)として描かれている。ろくな教育も受けず、親からの愛情も受けず育った人間が、徐々に人間的な精神を獲得している過程が描かれている、という感じだろうか。Qで登場する黒い綾波の冷淡さの原因はあくまで「環境」にあって、本人のパーソナリティにあるわけではない(「綾波は綾波だ」というシンジの言葉にもあるように)。だから第三村での出来事はネグレクトを受けた子供の救済、という見方もできると思われる。

 時間の経過する第三村(現実)で綾波は生きていけないけれど、最後に自身の生の持続を望みながら、シンジにS-DATを託す。S-DATがまさしく象徴しているように、「おまじない」や「縁」という言葉は本作には何度も出てくる(「おまじない」は委員長から綾波へ、「縁」はカヲルくんからシンジへ)。ばらばらな時間軸や引用元、異なる表現技術、断片化された制作者の内面らを、ぎらぎりで統合し繋ぎ止めているのは、まさしくこの「おまじない」とか「縁」といった非論理的な要素──儀礼や偶然性といった類のもの──だったりするのが興味深い。それなのに(だからこそ?)、物語の結末として納得感があるところに着地しているのだから。

 もうひとつ突筆すべきはやはり戦闘シーンで、とくにカメラがエヴァの腕に固定されているようなカットが何箇所かあったのだけど、Q以上に洗練されていてすごいと思った(冒頭のパリのシーンでの8号機のメカニックなんかはこのカメラの動きをやりたいがためにデザインされているようにも思えた)。L結界密度が高い地域=コア化した場所では重力がバグっているという設定があって(だからこそ第三村のケンケンの家の近くでは電車が浮いていたりするのだけど)、こういう重力から解放された空間でのアクションであれば3Dでの戦闘演出がハマるんだなと思った。Qの冒頭も宇宙空間の戦闘シーンでめっちゃよかったし……。ヴンダーからコードで接続された戦艦が盾になったりするのも相当かっこよかった(もろ特撮じゃん、と)。覚醒した初号機をエンジンにしているヴンダーとなんらかのかたちで接続していれば、かなりの質量をもったものでも自由に空中を浮遊できてしまう、ということなんだろう。8号機のメカニックと同様に、これがやりたいという演出の画が先行していて、物語内の理論=設定は事後的に設定されている気がする。そこがおもしろい(一度物語内での理論がフィックスすれば、そこからまた別のおもしろい画を取り出すことも可能だから)

 とはいえ、旧劇にあった何かが失われている気もする。たとえば旧劇のアスカの最後の戦闘シーンはロボットアニメでも屈指の場面で、とりわけ戦略自衛隊との戦闘の際の2号機の挙動は異常に滑らかで、そこでは明らかに、アニメでしか表現できない何かが埋め込まれている。画面のなかのあらゆる重みが、つまりは物性が、正確に(身体の部位毎にに絶妙なデフォルメを含みながら)描画されている。こうした旧劇で達成した(とりわけ重力表現における)アニメーションのヤバさは、シン劇場版では見られない。だからこそ「重力がバグっている世界」という物語内の理論が事後的に要請された、とも考えられる。

 重力から解放された世界で残されているのは、レイアウト(アングル)を、つまりは画面内の構図をどうするかという問題しかない。戦闘シーンに限らず、画面の中の諸要素が「ここしかない!」みたいな位置にレイアウトされているのは庵野監督のすべての作品に共通されているのだけれど、そのレイアウトの徹底っぷりはシンエヴァがずば抜けているように思われた。こうした「アングルのかっこよさ」がなぜ追求されなければいけないのか。ひとつは、カットを増やして情報量を過剰に詰め込むような演出を避けるという意味があるんじゃないか。庵野さんのようなコラージュ的な制作手法を取る作家が自身の手法を推し進めていくと、もうひたすら要素を細かくして、過剰にカット割を増やし、観客が受け取る情報量を増加させるしかなくなってしまう。まさしく旧劇で採用されたのは、断片的な映像をサブリミナル的に大量に詰め込むことで観客をパニックに陥れ、思考停止させたところで実写の映像につなげるという演出だった。シン劇場版はどうかというと、アングルがバシッと決まっているので、カット割自体はあまり多くなく、むしろ止め画中心でストーリーが進行する。旧劇とは真逆の方針といえると思う。

 「アングル」が重要になるもうひとつの理由は、いかに共同で制作を進めていくか、というところにある。Amazon Primeで庵野さんのプロフェッショナル仕事の流儀を見たのだけど、すごく面白かったのは、画コンテを作らずに画面の構成を検討する手法が採られていたことだった。脚本がまずあり、それに即してセットを組み立て、俳優が実際に演技をする状態をモーションキャプチャーで記録する。そうすると、3Dデータからアングルの位置を無数に取り出すことが可能になる。かなり大きな模型を作って、小さなカメラで画角をどこにするのかアレコレ検討するということもされていたみたい。こうした制作方法自体は映画を作る工程としては別に珍しくないと思うのだけど、重要なことは、こういった回りくどい工程は、庵野さんが「画コンテを作らない」と明確に宣言しているからこその、しかたなく発生している工程だということ。アングルの事後的な決定は、自分のなかのイメージだけで物語世界が作られてしまう事態を脱構築し、複数人での仮留めの選択と編集を中心にした──「偶然撮れてしまう」可能性を多分に包摂した──制作体制を可能にする。これもまた、過剰に内向的になってしまった旧劇とシン劇場版を異なるものにしようという意志の現れではないかと思われる。

 TVシリーズから一貫して、庵野さんはロボットアニメであることに固執していたのだなと、シンエヴァを観て理解した(旧劇場版ではそうならなかった、というか、なれなったわけだが)。エヴァンゲリオンはしばしば「私小説」だと言われるけれど、それは誤解なのではないかと思う。庵野監督は私小説を作ろうとしているわけではなく、あくまでこの作品はロボットアニメとして、一種のジャンル作品としてドライに作られていると感じられた。庵野さんの制作手法の本質は、やはりどう考えても、サンプリングを過剰に運用している点にあると思われる。それは同世代のスパイク・リーやタランティーノと共通しているのだけど、庵野さんの特異なところは、徹底して「自分自身を素材にしている」ところにある。サンプリングの対象というのは普通は自分の外部にあるわけだけれど、庵野さんの場合は自分の好きな映画やアニメ、特撮といった「作品」だけではなく、それらと同等の身分をもって、自分自身の経験や感覚が収集の対象になっている作品を参照するという態度が個人的な経験や感覚と決して切り離せないということに誠実に向き合っているのだと思う。そこを切り離してしまうと嘘になってしまう、と。だからこそ、庵野さんの作品は「信頼できる」と感じられる)。自分の内面にある言語化し難い感情や記憶も含め、それらはいったんばらばらな素材として収集され、作品の構成材として組み立て直される(ゲンドウやシンジ、アスカやレイといったエヴァンゲリオンのキャラクターは各々、“部分的”に庵野さんに似ている)。そこがおもしろい。それが私小説やないかと言われればそれまでだけれど、庵野さんの場合はあくまで作りたいのはジャンル的な作品であり、私小説的な要素は表現の対象ではなく、素材にすぎないという感じがする(それくらい、ドライに自分自身を“使用”している)。そこで、かなり興味深い事態が発生する。というのも、個人の感覚や記憶、趣味的な判断やこだわりみたいなパーソナルな要素は簡単には他者とは共有できないものだ。しかしロボットアニメや特撮といったジャンルにそれを適用すると、ジャンルの枠組みの強さとオタク的な共通感覚みたいなものがおそらくトリガーとなって、庵野さんの個人的な感覚が不思議とすっと観客に届けられる。オタク文化のある種の閉塞感みたいなものが、私的な要素を観客へと配達するための鍵へと反転する(だからこそ、エヴァを「庵野監督の私小説」とする見方に僕は結構抵抗があったりする)

 ジオラマでできたセットのなかでゲンドウらが乗った13号機とシンジ・レイが乗った初号機が戦うシーンは、エヴァ自体はけっこう安っぽいCGで、背景は(テレビシリーズを彷彿とさせる)セル画、みたいになっていて、つまり、異なる描画技術がひとつの画面に同居しているという状態で、目からウロコだった。安CGという「少し懐かしい感じ」があるからこそ、セル画を「もっと懐かしい感じ」としてはっきりと認識することができる、と。たしかに歴史と分かち難い(ノスタルジックな感覚を多分に含んだ)描画技術を、線の書き方や解像度の違いで同時に走らせるというのは、アニメでしかできないのではと感じられた。なにより、25年という歳月にわたるエヴァンゲリオンという作品に「ケリをつける」ためには、すなわち整合性を事後的に見出し表現するためには、複数の過去の同居みたいなことが画面のなかで、描画技術のレベルで起こるんだなぁと、感動した。

 終盤、ユーミンの「VOYAGER〜日付のない墓標」(林原めぐみver.)が流れるところがすごく心に残っている。エヴァ化した人々が人間に戻りながら地上に降りているシーンが泣けた。ユーミンはすごい。

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