JULY25,2018_オブジェクト指向存在論③

○久しぶりに日高敏隆を読んだが、やはりとても面白い。建築が専門じゃなかったら、動植物の生態学を研究してみたかったな。高1くらいまではたしか獣医を将来の夢欄とかに書いていたのに、いつごろどう間違って建築学科の方へ来てしまったのか、いまとなってはもう覚えていない、、。癒しを求めてコンラート・ローレンツの『人イヌにあう』(ちなみにこれは父がすごく好きなエッセイだ)を引っ張り出してぱらぱらめくっていたら、ダナ・ハラウェイの『犬と人が出会うとき』をまだ未読であることを思い出す(ずっとamazonの「あとで買う」にはいっている)。ハラウェイは恥ずかしながらまだちゃんと読んだことがないのだけれど、とてもとても興味を持っている。がしかし、もうしばらくは書籍に費やせるお金がない、、ぐぬぬ、、。

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Canon AE-1 Program, FD F1.4 50mm, Fujifilm SUPERIA PREMIUM 400)

 

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2. フッサールにおける対象付与作用と感覚的対象

 

 個体的なオブジェクトを重視するという方針は、上述してきたように、現代哲学における相関主義(思考と存在の相補的な関係、すなわち人間の事物への「アクセス」のうちにおいてのみ対象を捉えていくというカント以来の哲学的伝統)を否定し、人間中心主義からの離脱を目指すという文脈から据え置かれたものである。このときハーマンは、解体(undermining)も埋却(overmining)もしない仕方で対象そのものを思考するためのモデルを、フッサールハイデガーから引き出している。

現象学は、あまり認知されていないが、オブジェクト指向思想のより同時代的な系譜をなしている。わたしはここでフッサールハイデガーの両者を念頭に置いているのだが、彼らはそれぞれオブジェクト哲学に対して異なった革新をもたらしたのである。*1

現象学におけるひとつのパラドックスは、それが「事物そのものへ(to the things themselves)」の回帰を標榜していたのにもかかわらず、フッサールハイデガーはいずれも観念論者として、全てを人間にとっての事物へのアクセスの問題(それが現れる限りにおいての問題)としてしまったことだった。しかしハーマンが見出すのは、現象学に内在するある種の実在論的な側面である。

フッサールは志向性の領野に留まりながらも、その領野の内に、ある魅力的な亀裂を見出していた。(……)志向的対象には、一つの統一された本質の核があり、その周囲を表層的な偶有性が回っているのである。ハイデガーの場合、状況が異なる。彼は、志向的領域を超えたところにある実在的世界に対して本当の関心を寄せていたからだ。道具分析に見られるのは、人間の直接的なアクセスから退隠(withdraw)している実在的なハンマーやドリルなのである。(QO, p.38.)

ハーマンは、フッサールの議論における対象付与作用から、現前する(感覚的に認知できる)統一的対象がもつ性質との絶え間ない闘争を見出し、ハイデガーの道具分析から、対象の組み尽くせない、あらゆる認知から引きこもった実在性を見出す。

 

○感覚的対象と感覚的性質

 フッサールにとって重要な論敵は、ロック、バークリ、ヒュームらによるイギリス経験論であった。イギリス経験論において対象は「性質の束」であり、モノの性質はそのすべてが人間の心の働きとして生じる内的な経験で、そこからたとえば、習慣による性質の連合(ヒューム)を見出す。対してフッサールメルロ=ポンティといった現象学の系譜における議論は、形態(Gestalt)から出発する。リンゴの赤と、バラの赤と、私の身につけているマフラーの赤が異なる赤であるように、あらゆる性質は、ある対象に帰属することによってのみ意味を獲得するのだ、と。

  フッサールにとってもうひとりの論敵は、彼の師匠であったブレンターノである。ブレンターノにとって、心的なものと物理的なものを区別するのは、前者の作用が常に「何らかの対象」に向けられているということであった。私の愛情や悲しみは、何らかの対象に向けて注意をむけているとき、すなわち「志向(intend)」している際に生じるものである(内在的対象性)。一方でブレンターノは、愛や憎しみといった判断や認知ーーすなわち志向(対象の生成)ーーに先立って、なんらかの性質や質感の束が心に「現前」していなくてはならない、ということを強調した。心的な作用はなんらかの対象に差し向けられているが、それ以前の段階として、ある性質や質感がフラットな立場で知覚されているのだ、という図式。たとえばブレンターノの弟子のひとりであるカジミェシュ・トヴァルドフスキは、心の外にある対象(実在)と心のうちにある内容(性質)を明確に区別し、こうしたブレンターノの議論をより強固なものにしている(『表象の内容と対象について』)。しかしフッサールの主張は、あらゆる精神作用が対象付与的(object-giving)であるとしている点で、こうした既存の定式とは距離をとったものとなっている。

『論理学研究』においてフッサールは、明確にブレンターノのモデルを修正し、意識は現前でなく、“対象を与える作用”から成るものだと述べているからである。そしてこれは、些細な違いではない。というのも、現前においては、どんな場合であれ、あらゆる性質のディテールが対等な資格をもつことになるからだ。(……)フッサールの場合、意識の中にあるものが全て同等なわけではない。意識の内在的な領野に議論を限定しているとはいえフッサールは、トヴァルドフスキによる対象と内容の区別をその領域の内部で用いるために取り組んでいるのである。(QO, pp.42-43.)

フッサールはブレンターノのモデルを修正する際に、「内在的対象性」(心的な作用のターゲットとなる、意識のうちにある志向的な対象)については引き継ぐものの、「性質の現前」(内在的な対象に先立ち、性質はフラットに現前する)については否定した。フッサールは、意識に現前するあらゆる性質は、あらかじめ対象に紐づけられている、と考えたのだ。加えてフッサールは、トヴァルドフスキとは異なり、はっきりと観念論的な方針をとった。意識の外にある自然を完全にカッコに入れ、意識が原理的に観察できない対象のあらゆる可能性を議論から排除したのだ。「〔フッサールにとって〕事物は、隠れた生命力や固有の因果的な力をもってはおらず、それが今あるいは将来意識に現れる可能性がある限りにおいてのみ「実在的」なのである」(QO, p.40.)。トヴァルドフスキは「対象」を意識の外へ、「性質」を心のうちに置いたが、フッサールは(徹底した観念論者であるがゆえに)両者をいずれも意識の内部に置く。フッサールにとって、性質だけではなく、志向的な対象もまた完全に現前しているのである。こうしたフッサールの態度は、観察者から自立した存在についての「思考停止」であったが、この「思考停止」を対価として支払った結果、フッサールはオブジェクトに関するある革新的な認識を手に入れたのだとハーマンは指摘する。それは、ひとつの統一的な対象が、複数の性質に引き裂かれているという奇妙な事態である。

ひょっとしたらフッサールが、夕暮れ時に、希死念慮を抱きながら、百メールの距離を保って給水塔の周りを歩いたことがあったかもしれない。塔を観察しつつ悲しい気持ちで道なりに歩いていくとき、その塔は絶えず様々に異なるプロフィールを見せる。彼は各瞬間に新しいディテールを経験するだろうが、そのとき塔はその都度新しい塔へと変化するわけではない。塔は、むしろ、多種多様な知覚を通じて現前しながらも同一であり続ける一つの統一された「志向的対象」なのである。塔はつねにある特定のプロフィールを通じて出会われる。このことを、フッサールは“射影”(Abschattung)と呼んだ。(……)対象とは、その内容が何度も絶え間なく変化するにもかかわらず、つねに同一であり続けるものなのだ。(QO, pp.43-44.)

ここで注目すべきは、志向的な対象は射影(その時々現れる対象のプロフィール)の“束”ではない、ということである。ここでは対象の形相が、性質を「足し合わせる」ことによって得られるものではなく、逆に射影を「差し引く」ことによって得られるものだとされている(形相的変更)。例えば目の前のリンゴは、丸みを帯びているとか、甘いとか、赤くツヤツヤしているとか、冷たく固い肌触りであるとか、とにかく多様な偶有的特徴で覆われている。ぼくがその対象を「リンゴ」として認識できるのは、それを様々な角度から観察したり、味わったり、肌触りをよく確認したりしながら、対象が変化する様子を様々な仕方で確認し、それでも変化しない核心のようなものを認識するからだ。時間や空間の変化によって移り変わる質感と、時間や空間の変化に抗する持続性を見極めること。これによってぼくらは事物を特定の対象として認定している。フッサールにとっては、心的な作用において現前するものは単なる性質ではなく、さまざまな表情をもった志向的対象だったが、その志向的対象は常に"過剰"に現前しており、周囲を覆うノイズを払い落とさなければ、その本質を見極めることはできないものなのだ。

 混乱が伴う「志向的」という用語の代わりに(例えば、分析哲学者はしばしば志向的対象を人間の意識の「外部」にある対象のこととしている)、ハーマンは「感覚的(sensual)」という用語を用いることを提案している。「感覚的」という用語は、あくまで意識の内側の問題を扱っているということが明確である、と。これによって、フッサールの議論を、同一性を保ち続ける「感覚的対象(sensual object)」と、様々に移り変わる「感覚的性質(sensual qualities)」の間の緊張として理解することができる。

 

○実在的性質

 しかしそれだけで議論は不十分である。たとえば目の前のリンゴAとリンゴBが、ほとんど同一の感覚的プロフィールを所持しているとしよう(少なくともぼくにはそう「見える」)。しかし、両者はあきらかに別個に存在しているし、異なるオブジェクトであることは明らかだ。どちらも「リンゴ」というカテゴリーに属しており、両者の差異はぼく自身の視点からは認知できないものの、両者の間には明らかに、カテゴリーには還元できない何らかの差異が存在する。ハーマンはこのような、対象がそれ自身であるために、個体であるためにどうしても必要な形相的性質を、「実在的性質(real qualities)」と表現する。

ここで私たちが手にしているのは、一つの感覚的対象と様々な実在的性質という奇妙な組み合わせである。奇妙というのは、形相的性質は、感覚的対象が存在するために必要であるが、あらゆるアクセスから退隠しているからだ。(……)この特定のオウムをそれ自身たらしめているものを分節するには、実在的な性質の分析が必要なのであって、この性質は裸の状態では決して現前することがなく、ただ知性によって暗示的ないし遠回しに示唆されることしかできないのである。(QO, pp.50-51.)

対象の感覚的な性質をひとつひとつ「引き剥がし」(これはまさに「分析」するということそのものであるが)、対象の形相的性質を垣間見ることが、フッサールにとって理論的意識の役割であった。しかし、フッサールは形相の適切な直観(知性の働きによるカテゴリー的直観)が可能であるとしている一方で、ハーマンは形相への直接的なアクセスをはっきりと否定しており、それはただ間接的に、暗示(allusion)によってのみ可能としていることに注意しよう。

このようにして、感覚的対象は、宇宙における二つの重要な緊張ーー感覚的対象vs感覚的諸性質、感覚的対象vs実在的諸性質ーーにとって交差点の役割を果たしている。(QO, pp.55-56.)

感覚的性質(アクセス可能なプロフィール)と実在的性質(アクセス不可能なプロフィール)の交差点としての統一的ユニットとしての対象。これを見出したことがフッサールの重要な発見だったと。とはいえフッサールの議論はあくまで観念論にとどまるため、このままでは意識の外側にを扱うことができない。そこでハーマンは、フッサールの再解釈によって得たこれまでの知見を、ハイデガーへと接続していくのである。

 

○複数のパースペクティブ

 ここで少し話を脱線しよう。ハーマンは、意識に現前する対象(感覚的対象)のもつ「秘密」として、実在的な性質を設定した。ぼくにはこの問題が「対象=オブジェクト」を問題の中心に置くことによってもたらされている条件であるように思われる。対象とはそもそも、特定の視座=パースペクティブに依存した概念である。このとき、感覚的な対象の「秘密」とは、他のパースペクティブを想定したときに必然的にもたらされるものだとぼくには思える。第3者のパースペクティブを「留保」しているような感じ。

たとえば人間には紫外線を見ることができないが、昆虫は紫外線を見ることができ、逆に赤色が見ることができない。だから人間は赤からスミレ色までの色が均等に反射されているものを「白い」と感じるが、彼らにとって白とは、黄色から紫外線の光が均等に反射されている色である。ぼくらはモンシロチョウのオスとメスを簡単には見分けることができない。しかし有名な話だけど、モンシロチョウのメスの翅の裏は紫外線を反射する性質を持っていて、ゆえに、性的に動機づけられたモンシロチョウのオスにとって、メスの翅の裏の紫外線と黄色の混ざった色は彼らにとって非常に重要な意味をもった色として認知されているはずだ。キャベツ畑において、光を反射してキラキラと輝くメスの翅を、彼らは、それこそ「奇跡的な」存在として深い感慨を持って認知しているかもしれない。*2 *3

 「白」という色も、そして「モンシロチョウ」という名も、実は相対的なもので、あくまで人間からのパースペクティヴを前提とする限りのものである。ぼくらはモンシロチョウのメスがもつ「奇跡的な輝き」を永遠に実感することができない。ぼくらには永遠に観測することができないその性質は、しかし、絶対的な事実として存在している。これは、フッサール的には知性の働きによって、ハーマン的にはただ「暗示」によって知ることができるものだ。ここから先はぼくの想像になるが、ぼくらがモンシロチョウのメスの輝きを「暗示」として感知することができるのは、それを認識することができるオスの奇妙な行動があるからである、ように思う。つまり、第3者の環境世界での布置を通じて、ぼくらは「暗示」を受け取っている、と(さらにいえば、その暗示に貫かれた経験がきっかけで、人は理論の形成へと向かう)。このときオスは人間にとって、不可知(メスの翅の輝き)を認識するための媒介=メディウムとして働いている。

 

 ハーマンが区別する「感覚的性質」と「実在的性質」は、あくまで図と地の関係のようなものなのではないかと思う。感覚的対象の実在的性質は、対象の絶対的な「秘密」というわけではなく、ぼくらが人間である限りモンシロチョウの輝きを認知することができないように、あらゆるオブジェクトに、他のパースペクティブによる(私-パースペクティブからは認知できないような)性質が潜在している、ということなのではないか(究極的には、私が観測している対象の、対象にそれ自身による自己認識が残されている)。しかしハーマンの議論はここで終わらない。ハーマンがハイデガーの道具分析を再考することを通して提示する次なるアイデアは、あらゆるパースペクティブからのアクセスからも引きこもった、オブジェクトの絶対的な秘密(実在的対象)であり、さらに他者との関係を一切絶った「眠ったオブジェクト」の存在可能性である。意識に現前する対象(感覚的対象)における「秘密(実在的性質)」が、あくまでパースペクティブの複数性を前提とした「図 - 地」の「地」にあたるものであるとしたら、オブジェクトの絶対的な秘密(実在的対象)は、パースペクティヴの切り替えの「交点( - )」そのものの存在を示唆するものであるように思える。

  

www.ohmura-takahiro.com

 

追記

ここでの議論は人類学における遠近法主義を否定してスケールに関する独自の解釈を展開したマリリン・ストラザーンの方法とかなりシンクロするようにぼくには思える。あとでまた触れることになると思うけれど、ストラザーンは『部分的つながり』において、いかのような「カントールの塵」の図式を重要な形式として取り入れている。

 

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ストラザーンについては以前まとめたことがあるのだけど(https://note.mu/tkhrohmr/n/n6d373bb5d715https://note.mu/tkhrohmr/n/nd99aae0c42a1)、ぼくにはどうもこの図式における空隙と、OOOにおける「対象」が連続したもののように思える。ストラザーンが提示する強制的・間欠的な「穴」と、ハーマンによる絶対的な秘密をもった「対象」。

  過剰なネットワークをむしろ「切断」することで意味を生み出していく可能性を探っているストラザーンの議論と、OOOにおけるオブジェクトの位置づけは、いわば「思考停止」の点を意識的に導入するという点でかなり似ているのではないか。OOOを実践に結びつけていくということは、対象化するという行為をより厳密に捉えていくということであると思うのだけど、それはつまり、対象化するという行為がなんらかの「絶対的に考えない点」を定めるということに繋がるということを自覚的にコントロールしていく、ということでもあるのだと思う。併せて、OOOにおいては構成要素への解体(undermining)は無限につづき、上方への埋却(overmining)は有限となっているのだけど、これもどこか上記のフラクタル図とリンクしているような気がする。これは単なる図式的な類似、というレベルではなく、、。いずれも、有限性を前提とした上でのホーリズム的世界観の脱臼にむけて、有効な議論になっているのだと思う。それと上記の二番目にリンクにまとめたのだけど、メラネシアの儀式においては、人間もブタも樹木もひとつのオブジェクトの構成要素として配置され、それが入れ替わり立ち替わりするという構造があって、これも極めてOOO的だと思う。

  話はぶっ飛んでしまうが建築でいうと、例えばコルビュジエが「のちに壊されるべき秩序」として単純幾何学を無-根拠的に採用する仕方ーー例えばヴェンチューリが指摘しているようなサヴォア邸における正方形平面の取扱い*4ーーがかなり近いように思える(あくまで一例として)。完全なる思考停止ポイント=オブジェクトを、どのポイントに設定するか、という議論が実はすごく大切なんじゃないかと思う。絶対的に考えない点を決めること。これについてはしっかり考察しなかればいけない。設計における思考停止のポイントには、「良い」「悪い」の評価基準が必ずあるはずなのだから。

*1:Harman, Graham: The Road to Objects, continent 1.3, 2011. / 邦訳『オブジェクトへの道』飯盛元章訳, 現代思想, 2018.1. / 以下、ROと略記。

*2:例えば→ http://karapaia.com/archives/51350804.html

*3:ここでは簡単のため、昆虫と人間のいわゆる「環世界」における差異を例に出している。ただ、ユクスキュルの環世界モデルは十分に魅力的である一方で、極論すれば神経系をもたないモノに関しては何もいうことができず、無機物はおろか、植物の認知世界に関しても十分に扱えない。OOOのもつ「動物」から「石」への跳躍は重要である。ただし、次回あつかうハイデガーの「世界内存在」のモデルがユクスキュルだったという説もあり(木田元さんがどこかで書いていたような)、あながち遠い問題でもないのかもしれない。

*4:たとえばヴェンチューリは「手のこんだ不一致が建築を活性化することもある。偶然性を考慮に入れることはよいけれども、すべてを偶然性に委ねることは許されない。例外を認めない四角四面の秩序は形式主義に陥ってしまうが、一方、秩序なき場当たり主義では混沌を招くばかりだ。あとで壊されてしまうにせよ、秩序は存在すべきである。... 近代建築のサヴォイ邸を例にとると、コルビュジエは厳格で支配的な秩序を設定し ながらも、その範囲内での例外的、状況的な不整合を認めている。」(ヴェンチューリ, ロバート: 建築の多様性と対立性, 伊藤公文訳, 鹿島出版 会, 1982.11, p.81.)と述べている。その他、「つじつま合わせ」(Ibid., p.95.)、 「秩序への反撃」(Ibid., p.102.)、「対位法的な解決」(Ibid., p.132.) など、 サヴォア邸に対する同様の指摘が多数確認できる。