3 JAN. 2022

あけましておめでとうございます。今年もどうぞよしなに。

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外は氷点下という状況で、食べるものが無限に出てきて、こたつに入りながら駅伝とか見てると、ほんとうにあっという間に時間が過ぎていく。秒。本当は1月にある展示の準備とか文章の執筆とかしようと思ってたのだけど、無理だった。ぜんぜん無理だった。フリーズしたよう身体が動かなくなり、次第に眠気がやってくる。テレビの緊張感のなさがちょうどよくなってくる。でもこうしてぐーたらすることってすごく久しぶりで、これ自体、心身のどこかの回復になっている気はする。

僕が帰省したのは30日で、兄夫婦と兄の家の犬もその日の深夜に実家に到着した。31日は日中に兄夫婦がでかけたので、夕方まで兄の家の犬と遊びながら家で過ごしていた。兄の家の犬(ポメラニアンと柴犬のミックス、通称ポメ柴)は最初は震えていたのだけど、次第になれてきて、休むことなく遊ぶことをずっと要求してくるようになった。とくに外に散歩に出て、生まれてはじめての雪を経験してからの兄の家の犬(名前は茶々)は本来の姿を取り戻したように元気になって、こちらとしては安心だった。家のなかをずっと走り回っていた。ぶるぶる震えている姿もかわいかったが、茶々よ、犬はこうでなくてはいかん。この日の夜、すなわち大晦日は紅白を見ながら年越しそばを食べたりして平和に過ごしていたが、大泉洋がエヴァに乗ったあたりでブレーカーが落ち、そこからまさかのブレーカーが上がらないという異常事態が起こり、10分くらい闇のなかにいた。時間が経つとブレーカーは無事にあがり(冷却時間みたいなものが必要だったみたい。ほんとうによかった)、年を越した。

1日になると兄夫婦と兄の家の犬は帰っていった。この日の夜は友人との新年会が20時から富山市であったので、たしか16時くらいに自宅を出発した。はりきって家を出たものの、富山駅についてから会の開始まで3時間ほどあり、かといって1月1日なのでやっている店も少なく、困ってしまった。ひとまず喫茶店に入ってみたものの、18時閉店ということでさらに困ってしまった。しょうがないので駅前の串カツ田中に入り、生中と季節の串カツセットを頼み、読書をして時間を過ごした。メルロ=ポンティの『見えるものと見えないもの』と川瀬智之さんの研究本を並行して読んでいた。これまでメルロ=ポンティはほんとうにさっぱりで、どれだけ読んでもずっとわからなかったのだけど、川瀬さんの解説でようやくわかるようになった気がする。

一九四〇年代のメルロ=ポンティの著作である『行動の構造』と『知覚の現象学』で、奥行きとは、ある空間で知覚される対象がどの程度知覚者から離れているかという場合の、その距離、またはその対象の、知覚者に近い側と遠い側との間の距離のことである。奥行きの知覚が可能なのは、現在の知覚が対象についての過去や未来の知覚を同時に含んでいるからである。
 さらにメルロ=ポンティは、現在までに積み重ねた経験の連続のなかで、過去の経験は現在の経験のうちに同時的に奥行きとして含まれていると言う。これは空間的な意味での奥行きとは異なった意味での奥行きである。メルロ=ポンティにはこれら二つの意味の奥行き概念が存在し、どちらでも同時性が問題になる。
川瀬智之: メルロ=ポンティの美学 芸術と同時性, 青弓社, p.15, 2019.

両立しえない眺めの同時性としての「奥行き」は、空間的なものでもあり時間的なものでもある。同時性は個人的にはずっと考えているトピックなので(エリー・デューリングが建築空間と同時性について書いていて、そこから)、メルロ=ポンティの記述を追っている。串カツ田中ではさらに牛串、ヒレカツ、れんこん、アスパラガスを追加した。新年会の会場となった店では湯豆腐とぶりのしゃぶしゃぶやおさしみや焼き魚やよくわからないコリコリしたお通しや締めのうどんなどを食べた。

明日関東に帰る予定だ。年末年始に実家食べたものを今、思い出している。目をつむるとさまざまな味が走馬灯のように頭をよぎる。お刺身(マグロ、ブリ、タイ、サーモン、イカ、バイ、エイヒレ、甘えびなど)、そば、味噌ラーメン、お雑煮、エビフライ、黒作り、数の子、キャベツたツナのトースト、さつまいもが入ったグラタン、乾燥した豆菓子、ソーセージ、クリームパイ、バターどらやき(兄のお土産)、スイートポテト(兄のお土産)、栗の入ったあんこ巻きロール(兄のお土産)、適当に買ったら博多土産だったチョコパイ(僕のお土産)、生もみじまんじゅう(広島のいる友人のお土産)、おせち(さまざまなもの)。ウエストが少しきつい。