OCT,31,2020_兄の家の犬

 栃木へとビュンとひとっ飛びして、兄の家の犬(名を茶々という)と面会してきた。芝犬と、ポメラニアン(orテリア系の何かしらの犬種)のハーフ、だったと思う(ちゃんと聞いておけばよかった)。驚異的なかわいさであった。圧倒的であった。まどあどけなさも残っているが、なんとなくワンワンとしての自我が芽生えつつあるという絶妙な時期に会えてよかった。

f:id:o_tkhr:20201111003219j:plain

f:id:o_tkhr:20201111003257j:plain

f:id:o_tkhr:20201111003335j:plain

△母に抱かれる茶々

 ひとりの人間の一生に、人以外の動物がはいりこんでくるのは、いつごろからなんだろうか、とふと思った。生まれてからずっと、家に犬や猫や鳥がいるというひともいるだろうけれど、ぼくのように、物心がついてから、というひともいるだろう。ぼくの場合は、5-6歳くらいのときに秋田犬(アイコンにしている今は亡きポチ)が家にやってきて、そのことはかなりの衝撃的な経験として、記憶に刻まれている。それこそ、ポチのことを思い出すと、当時の家具の間取りや、音声、6歳くらいの目線から見た町の風景なんかも、断片的だけれど思い出されてしまうくらいに、それはもうかなり衝撃的な出来事だったのだ(ポチの毛の手触りとか、そういう触覚的な経験がなかったら、もしかしたら幼い頃の記憶はほとんど忘れてしまっていたかもしれない)

 自分の人生に、まったく不可逆な仕方で、その存在が織り込まれてしまうということが、ペットがいるということの、大きなことなんだと思われる。その存在をきっかけにして、過ぎ去った出来事を思い出したり、その存在をとりまく音や匂いを(つまりは生き生きとした世界そのものを)思い出したりすること。それは多分お互いにそうで、人間の側からだけではなく、犬や猫らにとっての人間も、そういう存在なんだろうと思われる。