NOV.1,2020_国立と妖怪

昨日はお昼から、国立で打ち合わせだった。おもえば国立駅をちゃんと降りて散策するのは初めてだったものだから、すごく新鮮だった。となりの立川は、たまに映画(主に爆音上映目当てで)を見に行ったりしていたから、なんとなく身に覚えはある。

国立は人のためにつくられた町という感じだった。駅前の滑走路をもとにした三叉の通りは、骨格自体は人間を通り越したようなスケールなのだけど、余白に人の活動がちゃんとあって、通り沿いの樹木はどの町よりも大きくて、モサモサしていた。似たような町が、どこかにありそうなのだけど、ギリギリで思い浮かばない感じ。全体的におおらかなスケール感だけれど、自動車中心になっていないというのは、かなり貴重な環境なのではないかと思う。

国立は清志郎の地元ということで、であれば「たまらん坂」がどこかにあるはずだろうと調べたら、割合駅の近くにあったので、散歩がてら立ち寄ってみた。RCサクセションをよく聴いていた中学高校あたりのことを思い出しながら歩いていた。

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あとから思い出したことだけど、「声にだして読みたくなるブログ」というブログ名をつけてくれたげんちゃんは国立高校の出身であり(ご夫婦ともに)、なんとなく縁を感じる町であった。ちなみにげんちゃんの名字は「國分」である。そしてげんちゃんはとても大きな人なのである。国立のまちのイメージとげんちゃんのイメージがぴったりと重なり、なるほどな……とひとりで何かを理解したのだった。


その後、お誘いもあり、「カフェおきもと」さんでおこなわれたイベントに参加。カフェおきもとさんは、歴史的価値な高い昭和初期の住宅(洋館と和館がある)を改修したカフェで、建物の雰囲気も、庭もすごくよかった(ちゃんとカメラ持っていって撮ってくればよかった)。国分寺最古の別荘建築という建物を受け継いで、私費で(!)改装し、カフェというかたちで運営することで、建物とそれをとりまく歴史を存続させようという試みがまず素晴らしい。そういう試みを、行政だよりでなく自力でやろうとしていることが現代的だ。カフェはとても人気らしく、テーブルでお茶を楽しんでいた叔母様二人組が、今日は入れてラッキーだったね、と話していた。さつまいもとレモンのジャム、かぼちゃとシナモンのジャムが売っていたので、どちらも買ってしまった。そういえば先日、兄の家の犬への挨拶で栃木にいったときに、とちおとめバタージャムなるものを買ったんだ。いつのまにやらジャム充。

この時代の建物を訪れるといつも、真鍮でできたとってやかぎの意匠にほれぼれとしてしまうのだけど、今回もやはりそうだった。いちどくらいは、かぎやとってを最初から設計してみたいなと思う、今日このごろ(習慣化した身体、がやはり自分のなかでは一貫したテーマなのだ)。広間(カフェのメインスペース)には大谷石の暖炉があって、まさに洋館の広間、という雰囲気ではあるのだけど、スケールが日本的というか、少しこじんまりした、どこか日常的なもので、その様式とスケールのちょっとしたずれが面白かった。この時代のこの場所でこそありえた空間という感じ。ここで、12月くらいにトークイベントをやらせていただくかもしれなくて、今日はその打ち合わせだったのだ。その下見もかねて、今日のイベント(隈事務所のやんくんと藤本壮介事務所の國清くんの対談イベント)に参加した。

 

國清くんのプレゼンで、都市における偶然性という興味と、妖怪という興味が繋がっているというお話があって(前者が卒制のテーマ、後者が修制のテーマだと)、それが個人的にはかなり新鮮だった。なんとなく自分なりに、妖怪(建築)なるものを理解できた気がしたのだった。

「はじめて何かを経験すること」とはどういうことだろうか。これははじめてだ、いままでにない、と感じられるときには、いまだなかった以前と、既にある以後とが、ともに思い返される必要があると思われる。こりゃ偶然だ、というときにも同様だろう。唯一の、はじめての経験でもある以後としての今から、様々な可能性に開かれていたはずの以前を見返していること。逆にいえば、いまだなかった以前において、既に、以後に起こる出来事を経験する可能性が、その予期が、潜在しているのだともいえる。この現在に埋め込まれた潜在性(複数の未来への分岐の可能性)と、ある持続のなかで経験する以前と以後の共存が、「偶然性」の条件だ。

「妖怪」という現象は、おそらく、「はじめて何かを経験すること」を複数人で共有する際に起こるのではないかと思われる。こんなことあるのか、という今までになかった経験を、自分も、となりの人も、そのまたとなりのひとも経験したとなると、それは限りなく不気味なことだ(だからこそ、そこには化物や死者のイメージが付与されるのだろう)。そうした偶然の共有(といういささか矛盾めいた出来事)を可能にしているのは、人々の生活をなんらかの仕方で規定している都市的な構造によるところが大きい(地形、街路の構造やスケール、法的な制度など)。その意味で妖怪現象は、都市で起こる個人的な経験として偶然性、とは決定的に異なっている。妖怪現象は複数人で共有されうる偶然性であり、その背後には必ず、生を規定するより大きな空間的・時間的枠組みが存在している。今日のトークも概ね、そういったことに関するものだったと思われる。後半ではリアルとヴァーチャルの話になっていたけれど、妖怪現象を上記の意味で理解するならば、まさに現実(リアリティ)に埋め込まれた潜在性(ヴァーチュアリティ)が問題になるわけで、終始一貫してこの問題について議論されていたのだなと(後になって)思い返される。