SEPT.17,2023

水戸のARTS ISOZAKIで梅原徹「Pallarax +Drive」展にかけこむ。会期終了まぎわで、なおかつその後に予定が入ってしまっていたから、30分ほどしか滞在できず残念だった。なので完全に理解できているかはわからないけれど、とてもおもしろかった。

展示室には千波湖周辺で録音された環境音を間欠的に鳴らすスピーカーが三台。低音を鳴らす4つのウーハーが付いたユニット。フルレンジスピーカーが7つ付いたユニット。高音を鳴らすスピーカーが5つ付いたユニット。各ユニットのスピーカーから音が一定のリズムで断続的に(音が鳴っていない空白の時間をはさみ込みながら)鳴っている。計11個のスピーカーは各々にことなる環境音を発していて、4つの周期で低音が、5つの周期で高音が、7つの周期で全音域の音が、同期しつつ、順番に鳴っている。すなわち、展示では異なる周波数帯の3つの音が重なっているのだが、そのパタンは140通りあって、13分ほどで一周する。

マイクによって集音された音が、スピーカーによって異なる周波数帯に寸断され、切り刻まれた音群はさまざまな重なり方を見せ、あらたな「環境」(音)を立ち上げている。この経験が驚くほど「空間的」であるというのが、今回の自分の感想だった。

 

おそらくこの作品を捉える上で有効なダイアグラムになるのは「カントールの塵」じゃないかと思う。

 

 

このフラクタル図形は、一線分を3等分し、その中央の1/3を取り除く、という過程を再帰的に繰り返すことで得られる「塵」の集合だ。「空白を含む」という指示がある一定の規則で全体から部分へと準拠的に連続していく(すべての新しい指示がひとつ前のものから引き継がれる)ことが重要な点だ。というのも、このフラクタルがもつ可能性は、準拠的(形式的)な指示によって生成されているがゆえに、ものすごく部分的・局所的な塵(部分)からもとの一本線(全体)に辿り着くことができる点にあるからだ。

 

梅原くんの作品が「空間的」と感じたのは、聴覚的な経験がそもそも空間的だということではない。むしろこの作品のなかで、数秒という単位に切り取られた環境音は──「まばたき」という比喩が示しているとおり──聴覚的でありつつも視覚的な対象になっているようにも思えた(音バージョンのスナップショットというか)。「Pallarax +Drive」の、断片化された音が重なっている状況を聞いて、なんとなく、徐々に、この音が録音された環境の全体が頭のなかに立ち上がっていく感じ。この感覚を「空間的」と呼んだのだ。

建築も都市も、一望することはできない。あるのは局所的な経験だけだ。たとえば玄関の経験、廊下の経験、リビングの経験、庭の経験はすべて局所的なものだが、それらを統合することでわれわれは「家」というまとまりを仮構している。ばらばらで、無関係でさえあるかもしれない局所的な経験を束ねあげるさいに要請される枠組み、これが「空間」じゃないかと思う。だから梅原くんの作品はとても空間的だと思ったし、建築的な経験(がもつ形式性)が織り込まれているなとも感じたのだった。この作品には多分、「環境」をまるごと別の場所に移植しうるような可能性があるのだと思う。録音を別の場所(たとえば森のなかとか)でやって、ぜんぜん異なるコンテキストの室に設置したりするとどうなるのかな、と思ったりして、今後の展開が気になった。