OCT.9,2020_身体を与えられた環境

 『タコの心身問題』に興味深い一節があった。本書の本筋の議論というわけではないところなのだけど、今上野でやっている展示の内容とも少し関係しそう。

視覚代行器TVSS = tactile vision substitution systemsと呼ばれる機械がある。これは、視覚に障害を持つ人たちを補助するために考案されたものだ。ビデオカメラと、それに接続されるパッドから構成される。パッドは、使用者のどこか(背中のことが多い)の皮膚にあてる。カメラがとらえた映像は、皮膚で感じられる何らかのエネルギー(振動か電気刺激)に変換される。しばらくの間、訓練をすると、カメラがとらえた映像を単に皮膚を押される形状のパターンとして感じるだけでなく、そこにある空間と物体の所在として体感することがある程度できるようになる。たとえば、視覚代行器を使用中、カメラの前を犬が通り過ぎたとする。視覚代行器のシステムは、その映像情報を、圧力や振動などのパターンに変換して、使用者の背中へと伝える。訓練を積んだ使用者は、単に背中に圧力や振動を感じたというふうには経験しない。目の前を何かの物体が通り過ぎたと感じるのだ。ただし、そういう現象が起きるのは、使用者がカメラの操作をできる場合に限られる。つまり、外部から入ってくる刺激に自ら能動的に関われる時に限られるということだ。たとえば使用者は、カメラを被写体に近づける、あるいはカメラのアングルを変える、といったことができなくてはならない。最も簡単なのは、使用者の身体のどこかにカメラを取りつけておくという方法だろう。そうしておけば、何か気になるものがあれば、近づいてその姿をより大きくすることもできるし、あるものを視界に入れる、視界から出すということも自由にできる。主観的経験はこの場合、行動と感覚情報との相互作用と密接に結びついている。感覚と行動の間の瞬間瞬間のフィードバックが、感覚情報の受け止め方に大きく影響するのだ。

ピーター・ゴドフリー=スミス: タコの心身問題 頭足類から考える意識の起源, 夏目大訳, みすず書房, p.98, 2018

視覚代行機*1はカメラの入力信号を触覚的な刺激へと変換し、たとえば背中に、その刺激を伝達するものらしいのだけれど、この即物的な機械によって視覚や聴覚に頼らずとも「空間を感じる」という経験が起こるということがとても興味深い。

 この機械がもたらす特異な経験において重要なことは、対象の位置と大きさ、距離のような情報が、自分の行動と連動するということ、それ自体だろう。「空間」なるものを成立させているのは、視覚や聴覚といった感覚器官の特性というよりはむしろ、行動の中心となる自分の身体と周囲の環境との間のフィードバックなのかもしれない。というか、自らの身体に入力される複雑な情報を統制し、自分の行動に対応させて処理していく際のOSのようなものとして、空間という認識の枠組みが発生するということだろうか。というと、池上高志さんがしばしば原始的な生命のかたちとして紹介する「動く油滴」を思い出さずにはいられない。

......無水オレイン酸というオリーブオイルの主成分をpH11ぐらいの高アルカリ性の水溶液に入れると、水和反応が起こりオレイン酸が生まれます。オレイン酸は疎水基と親水基を持っているので、親水基を外側にして油をぐるっと取り囲むんです。普通ならそれでおしまいですが、表面張力に変化が起きて油滴の表面にそって対流が生まれると、今度は対流が新鮮な油を表面に押し上げ、その反応が起きるところを先頭として、溶液中を勝手に止まったり曲がったりしながら進んでいくのです。だいたい20分ぐらいもすると止まってしまいますが、これを見ているとまるで生命がそこにいるようでしょう?*2 

池上さんが「生命的なもの」として注目する油滴の動きの原因は、油そのものにあるわけでもなく、それをとりかこむ水溶液にあるわけでもない。生命的な現象の動機は、両者の「あいだ」にあるのだ。なんとなくぼくには、ぼくらが空間と読んでいるものも似たような位置にあるんじゃないかと思える。空間は私の身体の外側にあるのでも、内側にあるのでもない。つねにその両者のあいだ、いわば「身体を与えられた環境」にしか存在しない。だからこそ、厚みをもった時間のなかで、動きがあり、自らの身体が起点となって世界の見え方が変化する、ということが、空間という問題系を語る上で最大級に重要なんだということに改めて気づかされる。近づけば大きくなり、遠ざかれば小さくなるということは、それほど単純な事態ではない。

 「感覚→行動」と「行動→感覚」が、互いにフィードバックしながら同時に引き起こされるときにのみ、空間は生起する。が、建築分野において空間に関する議論というと、どうしても前者に傾いてしまう。建物の形状や素材がどういった感覚をもたらし、それが人々にどういった行動をもたらすか、ということだ。だからこそ後者の議論、すなわち行動が感覚にもたらす影響について、今後もっと積極的に論じていかなければいけないように思われる。インターフェースとしての身体によって与えられた、いまだ定義しえない感覚(あらかじめ主体に属していた感覚の反復でもなく、かといって外部対象に完全に帰属するのでもない感覚)、ある種の事件性をもったその感覚のインパクトは、いかなる仕方で記述できるのか。

 とかなんとか書いていると昼休みが終わりそう。今日の朝は先日作ったカチャトーラを食べたので、まだぜんぜんお腹がすいていない。朝からガッツリ肉だ。この料理はたまに作るけど、今回はいつもよりもビネガーを多めに使ってみた。作った初日はちょっと酸っぱいかな? という味だったのだけど、時間が経つほどに酸味は消え、旨味だけが凝縮されてきている。作戦成功だ。

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