NOV.3,2020_方位論文

所要でカントの方位論文を読み直した。やはり重要な論文と呼ばれるだけある。

方位は、空間におけるある物が他の物に対してもつ関係──これが位置という概念の本来の意味であるが──のうちにはなく、方位はむしろ、こうした諸々の位置の体系が絶対的な宇宙の空間に対してもつ関係のうちに存するのである。およそ延長をもつものにおいては、それの諸部分がもつ相互の位置は、その延長をもつもの自身だけから十分に認識されることができる。それに対して、延長をもつものの諸部分の秩序がそこへと方向づけられているところが方位なのであり、この方位は、この延長をもつものの外部の空間に関係づけられているのであって、さらに正確に言えば、その外部の空間におけるそまざまな場所には関係づけられていない。なぜなら、〔たとえ外部の空間であっても、その空間の〕さまざまな場所ということであれば、それは、その当の外部の空間の諸部分が一つの外的な関係においてもつ位置に他ならないからである。だから方位は、そのようなものはなく、一つの統一としての普遍的な空間に関わるものであり、すべての延長はこの普遍的な空間という観点から、その一部とみなさなければならない。(……)この論考で私が目指している探求は、幾何学において見られるような延長の直観的判断の中に、次のことの明白な証明が見いだされえないかどうかということである、すなわち、絶対空間はあらゆる物質の存在から独立であり、それ自身、物質が並置されうるという可能性の第一根拠として固有の実在性をもつということである。(A377-378)

空間における方位の区別の第一根拠について, 植村恒一郎訳, 1768(カント全集3 前批判期論集3, 2001)

物体の関わる空間においては、その三つの次元ゆえに、三つの平面を考えることが可能であり、それらはどれも互いに直角に交差している。およそわれわれの外部に存在しているものについては、それらがわれわれ自身に対する関係をもつかぎりにおいてのみ、われわれは感覚器官を通じてそれらを知る。だからわれわれはまず、これらの互いに交差する切断面がわれわれの身体に対してもつ関係から、空間における方位という概念を生み出す最初の根拠を手に入れるとしても、別に不思議ではない。われわれの身体の縦の長さがその上に垂直に立つ平面は、われわれ自身との関係において、水平と呼ばれる。そしてこの水平の平面がもとになり、上および下という語で呼ばれる方位が区別されるようになる。この水平な平面の上には、他の二つの平面が垂直に立つとともに、それらは互いに直角に交差することができるから、その結果、人間の身体の縦の長さはこうした〔二つの平面が〕交差する軸と考えられる。すると、この垂直に立つ二つの平面の一つが、われわれの身体を二つの外面的に類似した半身に分割するので、それが右側と左側とを区別する根拠を与える。そしてまた、〔水平面に垂直な二つの平面のうちの〕もう一方の垂直に立つ平面が〔同様に身体を二つに分割するので〕、われわれが前方の側と後方の側という概念をもつことを可能にする。(A378-379)

物体の関わる空間においては、その三つの次元ゆえに、三つの平面を考えることが可能であり、それらはどれも互いに直角に交差している。およそわれわれの外部に存在しているものについては、それらがわれわれ自身に対する関係をもつかぎりにおいてのみ、われわれは感覚器官を通じてそれらを知る。だからわれわれはまず、これらの互いに交差する切断面がわれわれの身体に対してもつ関係から、空間における方位という概念を生み出す最初の根拠を手に入れるとしても、別に不思議ではない。われわれの身体の縦の長さがその上に垂直に立つ平面は、われわれ自身との関係において、水平と呼ばれる。そしてこの水平の平面がもとになり、上および下という語で呼ばれる方位が区別されるようになる。この水平な平面の上には、他の二つの平面が垂直に立つとともに、それらは互いに直角に交差することができるから、その結果、人間の身体の縦の長さはこうした〔二つの平面が〕交差する軸と考えられる。すると、この垂直に立つ二つの平面の一つが、われわれの身体を二つの外面的に類似した半身に分割するので、それが右側と左側とを区別する根拠を与える。そしてまた、〔水平面に垂直な二つの平面のうちの〕もう一方の垂直に立つ平面が〔同様に身体を二つに分割するので〕、われわれが前方の側と後方の側という概念をもつことを可能にする。(……)〔東西南北という〕世界の方位についてのわれわれの判断といえども、それらがわれわれの身体のそれぞれの側に対する関係において規定されるかぎり、それらは方位一般についてわれわれがもつ概念に従属している。〔方位という〕この根本概念とは無関係に、われわれが天空や地上に一定の関係を認めるものはみな、ものの相互の位置にすぎない。(……)〔星図や地理といった〕知識が役に立つのはただ、われわれが、そのように配列されたものや相互に関係をもつ位置の全体の体系を、自分の身体のそれぞれの側に関係させて、それぞれの方位に向けることができる場合に限られる。(A378-379)

私の身体は、私の主観的な世界においては、絶対空間の零地点に位置づけられ、方位を定位する根拠となる。そして空間や形態にかかわるあらゆる判断には、そもそもこの身体が勘定に入れられている。このとき、左右の感覚の違いに根拠を与えるようなものとして「不一致対称物」が想定される。超雑に要約すると、この論文ではこういった内容が議論される。方位という概念に先立つ(概念の枠組みを規定するような)幾何学的・空間的な条件があるんだ、と。

 たとえば、平面上の描かれた三角形の相似条件(二組の角が等しいorすべての辺の比が等しいor二組の辺の比とその間の角がそれぞれ等しい)を考えると、鏡像関係にあるふたつの三角形はこの条件を満たすことがわかる。直感的にも、鏡像関係にあるふたつの三角形は線対称移動(反転)、つまり裏返して重ねることができる。しかし、3次元空間(「延長について直感する諸判断」においては事情が異なってくる。たとえば球面の異なる半球にに描かれたふたつの三角形の場合、両者が上記の相似条件を満たす場合であっても、裏返しに反転しても、両者が一致することはない。同様のことは、たとえばまったく同型だがまったく逆方向に溝がほってあるボルトや、人間の左手と右手の関係にもいえることである。平面においては相似になるような図形でも、三次元では決して重ねられないもの。方位だけが両者の差異になるようなもの。これが、左右の感覚の違いに根拠を与えるもの=不一致対称物、であるとカントは指摘する。

ある物体がもう一つの物体と完全に等しくかつ相似であるのに、その同じ限界の中に囲まれることができない場合、それを私はその不一致対称物と名付ける。(……)たとえば人間の手のような物体である。その手の表面のすべての点から、手に向き合って置かれた板に向かって垂線を引き、さらにその垂線を板の反対側に、表面から板までと同じ長さだけ延長してほしい。そして、そのように延長された線の末端を結ぶならば、そこに物体の形をした表面ができるはずで、それが元の物体の不一致対称物なのである。つまり、もし最初の手が右手であれば、その対象物は左手ということになる。(A382)

以上から次のことが明らかになった。すなわち〔一〕空間の諸規定は、物質の諸部分の相互の位置から帰結するのではなく、〔反対に〕そのような位置こそ空間の諸規定の帰結である。〔二〕それゆえ諸物体のもつ性質のうちには、諸区別が、それも真の諸区別が見いだされるのであり、その諸区別はもっぱら絶対的で根源的な空間にのみ関わる区別なのである。というのも、ただそのような絶対的で根源的な空間によってのみ、物体的諸事物〔相互〕の関係が可能になるからである。〔三〕その絶対的な空間は、外的感覚の対象ではなく、〔反対に〕それこそが一切の外的感覚をもはじめて可能にするところの根本概念であるが、まさにこの理由から、われわれが、ある物体の形態の内に、純粋な空間に対する関係のみに関わるところのものを見て取ることができるのは、その物体を他の〔たとえば不一致対称物のような〕諸物体と対照することによる他はないのである。(A383)

これが本論の結論ということになるのだけど、これを自分なりに、ものすご〜く噛み砕くと次のようになる。まず、不一致対称物(たとえば左手と右手)が存在するためには、以下の条件が要請される。

1. 左手と右手の形態が同一(部分相互の諸関係が同一)。

2. 両者が、共通の尺度となる座標軸に布置されている(尺度の同一性)

1は関係性の問題(ライプニッツ的な)であり、形態の問題である。このときスケールは存していない。対して2は尺度の問題である。ある座標の上に左手と右手の両方を乗っけて、共通の尺度で測れるようにしておかないと、両者の正確な比較なんてできない、と。ニュートン的な絶対空間がここで要請されていることに注意しよう。このとき、たとえば左手と右手の表面をすべて点に還元すると、各々の点は(x, y, z)のような座標点で明示できることになる。加えて、不一致対称物を「われわれが認識する」ためには、以下の条件を追加する必要がある。

3. 座標系の原点に観測者の身体が置かれていること。

この座標軸(絶対空間)上にて、ふたつのオブジェクトの対応する諸部分の座標が(x, y, z)と(x, y, -z)というように、一軸だけ正負が反転しているような状態になれば、「不一致対称物」の存在を証明できる。では当の座標の原点は何によって与えられるかというと、それは身体以外にありえない。つまり、座標系のゼロ地点に観測者の身体が置かれていること(対称面をあたえるのは我々の身体である)が不一致対称物を認識するための条件である。いわば鏡の位置に私がいること。私の位置によって前、後ろ、右、左、といった方向が規定されていること。

「純粋な空間に対する関係のみに関わるところのもの」は、こうした不一致対称物の「座標のゼロ地点からの観測」によってのみ、可能になる。それはつまり、(x, y, z)と(x, y, -z)を比較するということであり、あるひとつの軸の正負の反転だけが、純粋な情報として取り出されるということになる。で、それこそが方位の正体だ、と。左手と右手の関係性(かたちがおなじだけど重ならない)を実証的に明示するためには、ライプニッツ的空間観とニュートン的な空間観を折衷させ、さらにその中心に身体を置くことが必要不可欠になってくる。これは帰結じゃなくて前提です! ということなんだけれど、ここがカントの面白いところだし、ほんまかいな、というところでもあるのだろう。それはともかく、カント的な空間観が、方位に関するこの論文にコンパクトに要約されているのはとても興味深い。