MAY.18,2019_共生①

ハーマンの新刊のメモ、ブログに書いていなかった。この本は「共生」というキーワードが出てきたので個人的はけっこう収穫が大きかった。以下、メモ。

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モノについての知識には基本的に二種類しかない。つまり、われわれにはモノが何でできているか、そしてモノは何をしているかを説明することができるという二つである。こうした知識を得るには、このモノをめぐる大雑把な説明をモノそのものによって置き換えるという代償を必ず払うことになる。(...)われわれが対象を、その構成要素や効果についての説明で代えようとするさいには何かが変わる。専門的に言えば、対象を言い換えようとする試みは、つねに対象を掘りくずしundermining(下方還元)、掘りあげovermining(上方還元)、掘り重ねるduomining(二重還元)ことになる(Harman 2013)。

グレアム・ハーマン: 非唯物論 オブジェクトと社会理論, 上野俊哉訳, 河出書房新社, p.17, 2019

芸術や建築の作品は、下向きに物理的構成要素に還元されたり、また上向きに社会=政治的な効果に還元される場合、そうした還元を行なう専門科学がそのつど何を試みても、間違って理解されてしまう。どちらの方向にせよ、知識が決まって依って立つ、そのままの言い換えに抗って還元に従わないような何かが芸術や建築の作品のうちには存在する。(...)いかなる理論も依って立つ条件について哲学的に反省する傾向があるかぎりで、モノたちの究極の不可知性や自律性を、それがモノたちについて考えるさいに組み込まなければならない。(...)対象への関心は「唯物論」ーー今日の知的生活において何よりとても大事にされている言葉のひとつだがーーへの関心としばしば混同されている。

Ibid., pp.22-24

題名にもなっているけれど、ハーマンはK. バラード、M. デランダらの「新しい唯物論」と自身の理論の差異を強調し、自身の立場を「非唯物論」として位置づける。

唯物論に対する自然な対立項は「形式主義(フォルマリズム)」という言葉にあるが、この語はオブジェクト指向の方法とは無縁な種類の抽象的な論理=数学的な手続きと密に結びつきすぎている。この理由から、私は右のようなアプローチに対する反対語として非唯物論(immaterializm)を提起する。

Ibid., pp.26-27

OOOを唯物論的なものとして(建築でいえばノイエ・ザッハリヒカイト的な、即物主義主義的なものとして)受け取ってしまうのはけっこう深刻な誤謬で、むしろここで問題にされているのは形式だ。というか、形式の捉え方をアップデートして、よりシンプルな図式で捉え直すことができるような道具として彼の議論は有効だよなと思う。たとえば以下のような記述は重要なものであるように思われる。

しかし、OOOについてはよく次のような間違った思いこみがある。曰く、OOOは対象に焦点を絞るゆえに、人間を排除し、消滅させることによって当の対象にいたるに違いない、と。OOOに寄せられる誤解をはらんだ疑問の多くが、この同じ間違った思いこみにもとづいている。「人間がいないとしたら、芸術はどんなことになってしまうのか?」「人間がいない建築とはどんなものに見えるだろう?」と。問題は所与の状況から人間を"差し引く"ことではなく、人間とはただ外部から注視する特権的な観察者というより、人間自身、ある共生における“構成要素”であるということなのだ。人間自身が対象であること、また人間は、自分がいる時間と場所の単なる産物であるのではなく、自分が直面するどんな境遇に対しても抗えば抗うほど、対象と同じように人間はより豊かに、また意義ある存在になるということ、われわれはこうした点を忘れてはいけない。

Ibid., pp.73-74

むしろ重要なのは、人間を特権的にあつかうのではなく他の対象とフラットな構成要素として位置づけ、その上で人間と他のオブジェクトの「共生」に注目することだ。

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哲学者G.W.ライプニッツは、有名なモナド概念のもとに、曖昧な点は残るものの、哲学における対象について論じた、否定しようのない代表格である(Leibniz 1989, pp. 213-24)。ライプニッツの理論には他にも様々な問題があるが、なかでも彼が強く主張したことは一方の単純で自然な諸実体と、他方での複合し人工的な集合体との絶対的な区別の主張である。ANTは柔軟なので、列車から弾頭、動脈硬化にいたるまであらゆることがらを十全に説明できるのに対して、ライプニッツは複雑な集合体が個体的なモノとしても数えられるという可能性をあっさり斥ける。(...)ライプニッツはこう考えを進める。「もし機械が一つの実体であるとすれば、手を握りあう輪になった人間たちも一つの実体であり、軍隊もそうなるだろうし、ひいてはあらゆる多数の実体もまたそうだということになる」。簡単に言えば、彼は機械や輪になった人間、そして軍隊を実在として認めてしまえば、どんな行き当たりばったりのモノの組み合わせも一つの実体として数えられなければならないと主張する危うい道に追いこまれるのではないかと苦慮している。(...)「同じ平面で組み合わされる諸部分が、そうした接触以上に一つの真の実体を構成するのに適しているとすれば、オランダ東インド会社の構成員たちはことごとく、積まれた石以上の一つの実在する実体をなすことになるだろう」。 ライプニッツはこの最後の点を背理法による証明と解している。一つの実体としてのオランダ東インド会社という考え方があまりにもあからさまにバカげているので、誰もついぞまともにはとりあわないとでもいうように。しかし、この対象の単一性こそ、わたしの議論で擁護したい点なのだ。

Ibid., pp.51-53

本書はこのあたりからオランダ東インド会社(VOC)を通した対象同士の「共生」を考察していくことになる。具体的な名詞を通して語ってくれるのでわかりやすかった(具体的な議論はメモしないけれど)

非唯物論の方法は大方の変化をうわべだけのものと見て、重要な変化は概ね“共生”の事例に見いだす。この共生という概念を手短に説明しなくてはならない。 普通の理解では、「対象(オブジェクト)」という語は、おうおうにして生きていないもの、持続的で人間以外のもの、あるいは物理的物質からなる存在者を意味する。非唯物論はこうした基準には反対であるということは見てきた。われわれは、ある一つの存在者は、その構成要素にも効果にも還元しえないかぎりで、ある対象(オブジェクト)として適っていると考えている。つまり、対象は掘りくずし(下方還元)や掘りあげ(上方還元)といった方法によって汲み尽くされないかぎり、そのように考える。もちろんこれらの方法も、それぞれにたびたび成果をもたらしているのだけれど、この光に照らしてみると、VOCの対象性(対象としてあること)は、どんなしかるべき懐疑からもはみ出ているように思われる。(...)われわれが「対象」と呼ぶものに対応する用語である実在的仕組みを同定するためにデランダが用意した便利な基準をVOCは満たしている。(1)VOCはその部分に対して事後的にふりかえることのできる効果を明らかに有している。つまり、従業員の生活や経歴を変え、島民を奴隷に落しめ、アジア各地を領土の再開発や要塞化を招き、これまでにない都市に/からスパイスを流通させること。(2)VOCはちょうど新しい部分を明らかに生み出している。つまり、その必要に応じて特別に秩序づけられ企図された艦隊、新しい交易拠点、会社の紋章を印した新たなコインといった諸部分。(3)VOCにはその構成要素には見いだせない創発的な属性もある。個別に見ていけば、VOCの多くの兵士や艦船は英国の海運やモルッカ諸島の村民にほとんど脅威にならなかっただろう。だが、いったん組織されれば、統一体としてのVOCは恐ろしく、しばしば執念深い戦争機械となる。

Ibid., pp.56-58

読者はわたしの「共生」という言葉の使い方が、ジル・ドゥルーズによるそれとどのように異なるのかと思うかもしれない。パルネとの対話ではドゥルーズの次のような発言が読める。「「仕組み」(動的編成=作動配列 assemblage)の唯一の単位とは共=機能作用のそれであり、〈共感〉であり、共生である」。「重要なのは親子関係では決してなく、同盟関係と合金関係である。それは遺伝、子孫ではなく、伝染、疫病、風である」。ドゥルーズが共生という言葉で実際に言おうとしていることが何であれ、この文からすると、彼がOOOが言う場合よりも広い意味あいで語っていることは明らかである。あらゆる同盟関係や合金関係(伝染、疫病、風には言及しないにせよ)が共生と数えるに足るにしても、この大事な局面でドゥルーズは力にならない。というのも、この「共生」という語にわれわれがこめた狙いは、ANTによって広くいきわたった様々な関係の概念を切りつめることにあるからである。その代わり、われわれは、識別できる相互影響にただ帰結するのではなく、その様々な関係項のうちの一つの実在性を変える、特別なタイプの関係のことを話題にしているからである。

Ibid., pp.66-67

たしかに共生は、いったん生ずれば動詞で記述されるが、この概念の核心は言語的には名詞で表現される二つの対象の接続にある。

Ibid., p.72

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オランダ東インド会社(VOC)を通したアクター・ネットワーク・セオリー(ANT)の批判的検討と対象同士の「共生」への着目を通して得られたポイントは以下の通り(ここだけ書き出してもなんのことやらという感じだけど)

1 ). アクターではなく対象

→行為=活動に先立って存在するオブジェクト

2 ). 唯物論ではなく、非唯物論

→唯物論はけっきょくのところ、対象の構成やその外側にあらわれる効果に対象を置き換える。

3 ). ある対象はそれがもつ関係によってではなく、非関係によってよりよく知られる。

→対象の活動段階における、自律性へと向かうステップに注目する。

4 ). ある対象は、それが成功することによってよりも、直近の失敗によってよりよく知られる。

5 ). 社会的対象を理解するカギは、社会的対象間の共生を追うことである。

→共生、つまり複数の対象が接続し、一時的に単一の対象かのようにふるまうこと。

6 ). 共生は、ある対象の活動のうちでは相対的に早く現れるだろう。

→対象間の共生は、別の選択を可能にする空間を減ずると同時に、ある対象のある特定の関係性の径路への依存を進める。

7 ). 共生はひとたび対象の性格が捉えられてしまえば、無限に柔軟に変化できるわけではない。

→「どんな社会的対象にも、自らがとりうる行為の路線がそこを超えてしまうとすっかり視野を狭めてしまうような後戻りできないポイントがある。」(p.148)

8 ). 様々な共生は強い共生にまで熟成していく弱い紐帯である。

→はじめは弱い紐帯であった(つまり実験や冒険として試みられた)対象間の共生は、徐々に生きた活動を危険に晒す過剰な依存のつながりへと行き着くことになる。

9 ). 共生は非相互的である。

→対象AからみたAとBの共生と、対象BからみたBとAの共生は異なるもの。

10 ). 共生は非対称的である。

→対称的関係: 共通の特徴や利害のによって一緒になるような関係。

11 ). 出来事としての対象は、対象としての対象の残響である。

→対象としての対象。仮説や理論、モデル、成功例、プロトタイプの先行性。

12 ). ある対象の創生は、相互的かつ対称的である。

→「ある社会的対象の出現は、冒険に向かう精神よりも利益を尊ぶ精神に左右されている。他方、共生に関しては、この逆もまた真実である。」(p.153)

13 ). ある対象の終焉は、その紐帯のもつ過剰な強さから生じる。

14 ).あるオブジェクトの熟成は、それがもつ共生の拡大からみちびかれる。

15 ).あるオブジェクトの凋落(デカダンス)は、それがもつ共生を文字どおり解釈することからはじまる。

→「どんな対象もいつも自分のカリカチュアーーつまり、容易に真似できる、簡単にマスターできるベタな内容ーーになってしまうがゆえに刷新が必要なのだ。」(p.156)