MAY,19.2019_共生②

 共生、つまりあるオブジェクト同士の(仮設的な)接続関係を考察することは、建築をオブジェクト指向的な仕方で把握する際の重要なポイントとなる、ように思う。OOO的に建築を考えるということは、たぶん奇っ怪な、weirdな形態を生み出すことではなく、あるいは即物的なアプローチをとることでもない。重要なことは人間も、モノも、環境も、あるいは関係や出来事や歴史もおしなべて「対象」というまな板にのせて思考可能、ということだと思う。だからたとえば、身体のある部分と周辺環境のあるエレメント、そして建築物を構成するある部分の一時的な共同関係を新しい「オブジェクト」として捉えていくような態度がそこでは可能だ(もちろんそれは特殊な思考ではないけれど、そういった思考をラディカルに推し進めていく道筋を開拓していくことは重要だ)。そうした身体、環境、モノ、出来事、関係等々をいったんその構成要素にほぐし、そこからいくつかをピックアップして新しい対象を生成していくようなことがオブジェクト指向建築(OOA)の可能性としてまずあるのだとぼくは思っている。そういうわけだから、「共生」という現象が問題になるわけだ。

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 ハーマンの新刊に目を通したあと、生物学の(つまりは本家本元の)「共生」について、これは避けて通れないだろうということでちょっと調べていたのだけど、生物学者である栗原康さんの『 共生の生態学』という本になかなか興味深い記述があったのでメモ。

たとえば、ワニの皮膚にとりついた寄生虫を食べるエジブトチドリ、サメの鰓室(さいしつ)に入って寄生虫を食べるクリーナー・フィッシュ(清掃魚)、イソギンチャクの触手のあいだに住んでゴミをとりのぞき、イソギンチャクの刺胞によってほかの魚から守ってもらっているクマノミ(スズメダイ科)、排泄物をアリに提供し、アリによって守られ運ばれているアブラムシなどは、たがいに利益を交換しあった相利共生の例として知られている。 しかし、これらの共生はしょせん自然界のネットワークの一つの網の目にすぎない。一つ一つの網の目を細かく見れば、相利共生のほかに、一方のみが他方から利益を得る偏利共生、一方が他方の犠牲によって生きている寄生 - 宿主関係、両者が共倒れになる拮抗関係、一見両者がマイナスもプラスも得ない中立関係などが存在する。 

栗原康: 共生の生態学, 岩波書店, p.1, 1998

いうまでもなく、個々の微生物は宿主のために住んでいるのではなく、宿主もまた微生物を生かそうとして草を食べているのではない。基本的には遺伝子の指令にしたがって生き、増え、死んでいくが、両者が合体すると、あたかもたがいに生かすことを目的としているかのようにふるまっている。考えてみればまことに不思議なことで、昔から多くの生物学者を悩ましつづけてきたテーマである。 

Ibid., p.20

長い時間をかけて互いに互いの形質を変えるという相互作用の累積(共進化)の結果、ある目的に付随する別の行為が他の存在者の利益となるようなことが起きる。それが結果として「あたかもたがいに生かすことを目的としているかのようにふるまっている」ふたつの異なる対象の仮説的な接続関係を生む。

食う-食われる関係の場合は食う者のほうだけが利益を得ているように見える。 しかし、食う者がいることで食われる者の集団のなかから逃げのびる能力にたけた者が選びぬかれ、食われる者がいることで食う者のなかから捕食能力にたけた者が選びぬかれ、こうして両者の能力が向上してきたと考えるならば、これも共進化と考えることができる。 

Ibid., p.21

互いに互いが「選択圧」としてはたらくことで、捕食-被捕食関係も「共進化」として考えられる、と。おもしろいのは、適切な捕食-被捕食関係に置かれていることが、捕食される側の生存にもプラスにはたらくということだ。たとえばウサギとキツネの場合、ウサギは捕食され、キツネは捕食する側にあるわけだけれど、この場合ウサギが一方的に不利益を被る、わけでもないのだという。というのも、キツネ(あるいは他の捕食者)が存在しなかった場合、もちろん捕食される心配のなくなったウサギは一定の期間で急激にその数を増やすわけだけれど、ある頭数の閾値を超えた途端に食料共有と頭数のバランスが崩れ、食料を食い尽くしてしまったその地域のウサギの群れは飢餓で一気に全滅することになる。他方、キツネの捕食能力があまりにも高い場合も問題だ。キツネはウサギを食い尽くしてしまいウサギは全滅、食料がなくなったキツネも全滅、ということになる。

捕食者の捕食能力や被食者の逃避能力は概して不完全で、それほどすぐれたものでないこともバランスの成立にとって重要な条件となる。 

Ibid., p.30

ポイントは、キツネの捕食能力が“適度に低い”ことであり、それによってウサギの頭数を適切なバランスで減らし続けること、である。草食動物を食べ尽くしてしまわないように、ほぼすべての肉食動物の捕食能力は「ちょっとだけ低い」バランスをとっているらしい。これはすごくおもしろいことだと思った。ある対象同士が共生関係にあるとき、能力や性能の低さがプラスに働くこともある。これは生物に限ったことでもない気がする。

今日われわれが知っている生物の習性や行動や形態は、過去における攻撃-防御関係や食う-食われる関係の歴史的所産と見なすことができる。(…)コウモリは超音波を発して反響音を分析して夜行性の獲物をとらえる。トラザメは砂にもぐっている獲物の筋肉の活動電位を探知する。シビレエイは強力な放電をして獲物を気絶させる。ヒトデはムラサキイガイの放出した物質を感受する。ハチクマはスズメバチに刺されても平気なように頭部に硬い毛をもっていて、ハチの幼虫をねらって食べる。センザンコウはアリに刺されても平気でアリを常食にしている。マングースやジャコウネコは毒ヘビを殺す術を心得ている。 以上は、相手の防衛戦略を突破しようとしてたどりついた形質である。 ハチやアリは危険を知らせるために警報フェロモンを出す。スズメガは超音波を探知して活発な逃避行動をしめす。イモリの一種はヒルに対して忌避物質を出す。イソギンチャクはウミウシに刺胞で対抗する。割れ目や穴への逃避や、自分自身の環境の一部に似せるカムフラージュ、目出す色彩や形や臭気・音声などによって捕食者に自分の危険性や不快さを知らせる警告、警告的な動物に姿形を似せて捕食者をだまし捕食から逃れようとするベーツ型擬態、そのほか威嚇行動、擬死、集団防衛など、いずれも捕食者からの防衛の結果あみだされた習性である形態である。

Ibid., pp.22-23

捕食-被捕食関係も含めた共生関係(相利共生、偏利共生、寄生 - 宿主関係、拮抗関係、中立関係など)に置かれることで、生物は非常な性質・形態を各々にもつことになった。それは特定の目的に超特化した性質・形態だが(いわば生物は超合理主義なわけだけど)、一度手に入れた性質や形態は、特定の防衛対象や攻撃対象“以外”にも有効で、あらゆる使用効果に開かれている。そしてあらゆる生物は状況にあわせ、自らがもつ性質や形態を酷使することだろう。この事実じたいが単純に、ぼくには大変おもしろく感じられる。