JUNE.6,2020_ひっくりかえす

 ものすごく暑くなってきて、ほぼ半袖Tシャツ一枚で毎日過ごしている。せっかく窓を開けて気持ちのよい日が続いていたのに、エアコンつけないと真っ昼間はちょっときついような気候になってきた。もうすぐ梅雨だろうし、なんというか、快適にすごせる期間が短すぎる。自分の身体が軟弱になっているだけだろうか。元気にシャトルランとかやっていたあのころはもっと強かった気がする(もう絶対にやりたくない!!)

 熱くて死にそうなのは人間だけではなくて、小さな生き物たちもそうだ。道端でひっくり返って起き上がれなくなっている甲虫をよく目にするようになって、ああ、夏がきてるなと思った。生と死がめまぐるしい季節。いちおう、ジタバタしているコガネムシなどをみると、ひっくりかえしてやっている。ひっくり返した直後の虫は放心状態になっているので、心のケアに草や小枝を近くに置いてやると、割とすぐにみんな正気を取り戻して飛んでゆく。ちなみにこれは命を大切にしよう!みたいな聖人のような考えでやっているわけではなくて、心のなかでは「善行ポイントゲット……カルマが解消されていくぜ……クク……」といったような損得勘定がうずまいている。 

 

 その後、『昆虫の哲学』という本を買っていたのを思い出して久しぶりに読んでいたのだけれど、やはり面白かった。とくに第一章は、直接的に昆虫を扱うというよりは、その前段階としてスケールやサイズの議論に費やされていて、ぼくにもとっかかりやすい本の構成となっていた。なるほど昆虫をみて面白いと思ったり、気持ち悪いとか怖いとか感じる所以はスケール効果にあるのかもなと思う。以下、第一章から引用。 

大きさを、形とポジションという他のふたつの空間的要素と比較してみると、その特徴がはっきりしてくる。特別に手をくわえないかぎり、固体の物体はポジションを変えても、変化するとは限らない。私のエンピツは、手で縦に持っても、テーブルのうえに横ころがしても、変わらない。これに対して、ある物体の形を変えることは、変態させることで、それは、外見のこともあれば、内部構造のこともある。大きさは、ポジションよりも、その物体と密接にむすびついているが、形ほどのむすびつきはない。大型にしても小型にしても同じでありうる物体が存在するからだ。形が同じで大きさが異なるものは、初等幾何学にみえる。相似三角形や、他の相似形といった論理の産物もそうだし、昔話や神話に住みついている小人や巨人といった想像の産物もある。現代文学もこうした系譜を捨てていない。シュルレアリスムの詩人ロベール・デスノスの筆のもとで、「18メートルのアリ」が姿をあらわす。そんなアリが、ラテン語やフランス語やジャワ語をしゃべる「ペンギンやカモシカを大勢のせた荷車」を引くさまは、みんなをおもしろがらせる。

ジャン=マルク・ドルーアン: 昆虫の哲学, みすず書房, p.12, 2016

前述のような比較は、想像力を満たしてくれるうえに、論理にかなっているように見えるが、こうしたことを論じる人びとは、大きさの関係にはスケールの変化を考慮に入れなければならないことを忘れている。てっとりばやく言ってしまえば、空気抵抗は無視するとしても、動物の長さが二倍になれば、その筋力(筋肉の断面、すなわち表面積に比例する)な四倍になり、重さ(容積に比例する)は八倍になる。(……)一般の人たち、いや教養人にさえ知られていないが、スケール効果は、建造物の耐久性にかかわるだけに、アリストテレスが『政治学』のなかで、「都市国家には、動物や植物や道具など他のすべてのものと同じように、それにふさわしい大きさがある」と論じている箇所を読むとよいだろう。船の大きさにしても同じで、大きすぎても小さすぎても進むことはできない。おなじく、「人口が少なすぎる国家は自給できず」、大きすぎると、人びとの集団としては存在しえても、制度や機関をそなえた国家にはなりえない。

Ibid., pp.17-20

個々の実在には決まった大きさがあるというアリストテレスの言説は、古代の宇宙観について知られていることと合致しているので、驚かされるようなものではない。これに対して、現代の生物学者が考える「適切な大きさ」(ライト・サイズ)という発想には、驚かされるかもしれない。問題は、スケール効果を考慮に入れると必然的に、絶対的大きさという概念にゆきつくかどうかである。それには、ガリレイが1638年にあらわした『新科学対話』のなかでしるしているスケール効果にかんする論述にふれておかなければならない。

この書は、物体の耐久性と地上の物体の運動をあつかったもので(……)対話のかたちをとり、登場するのは、ガリレイ自身を代弁するサルビアーティ、凡人の見解を代弁するサグレド、アリストテレスの擁護者として悪役を演じるシンプリチオである。大きさの問題は、はやくも初日に提起される。小さな機械で実証されることは、かならずしも大きな機械には当てはまらないとする技術者たちの意見をもとにして、サルビアーティは、ある物体の大きさの増大は、その強度の減少をともなうと指摘する。(……)サルビアーティはこう結論する。動物が無限に体長を伸ばそうとすれば、「通常の物質よりはるかに強靭で耐久性のある物質がつかわれ、骨が変形させられなければならず」、そうすれば、「形態も様相もひどく醜悪なものになってしまうでしょう」。つまり、サイズを変えることは、形をかえることを意味するのだ。

Ibid., pp.22-23

ガリレイの果たした役割については、すでにダーシー・トムソンが強調していた。このスコットランドの動物学者は、アリストテレスの著作にも三角関数にも精通していて、『生命のかたち』と題した著作をあらわした。(……)ダーシー・トムソンは、その著作の第一章をスケール効果にさいている。(……)彼が参照しているジャン=フランソワ・ラモーとフレデリック・サリュはそれぞれ医師、数学者だが、彼らの代謝に関する共同研究は、1838-39年に発表された論文で知られている。それによれば、放射による熱の喪失は表面積に比例し、長さの二乗にしたがって変化するが、生態による熱の生成は容積に左右され、長さの三乗にしたがって増減する。(……)肝心なことは、長さと、表面積と、容積との関係から、大型の生体と小型の生体は、おなじ力には左右されない世界に生きていることを、理解させることであった。こうして、それ以上でも以下でも、これらの生物の存在が考えられないという空間的なスケールの輪郭がみえてくる。

Ibid., pp.24-25

これに似た考察は、すてにその数十年前、アントワーヌ・オーギュスタン・クルノーの著作『唯物論、生気論、合理主義』のなかにみることができる。タイトルから予想されるものに反して、この著書は、唯物論や生気論や合理主義の影響を受けた形而上学的思考にとりくむというよりも、物質や生命や理性を対象とする科学についての哲学的分析を展開する。スケールの問題については、「純粋幾何学」の観点では、「物体の大きさ(……)は相対的なものにすぎない」。こうした抽象的次元にとどまっているかぎりは、「大きさの絶対値も、小ささの絶対値も存在しえない」とクルノーは言う。そこから出てくるのが、私たちが相似と呼んでいる概念で、クルノーは、「同じ形状は、無限に異なるスケールでつくりだすことができ、その場合、相似していると言われる」と説明する。彼が「哲学者や文学者」と呼ぶ人たちが、「こうした抽象的な考察を物質の現実の領域に」移しかえてみたとき、「楽しいおとぎばなし」になったり、「雄弁な論述」になったりする。

Ibid., p.25

クルノー、そして、その数十年後のダーシー・トムソンは、実在するさまざまなものにはそれに合った大きさというものがあり、その枠をことえたところでは、架空のものとしてしか存在しえないと主張したのだった。(……)地動説の歴史に足跡を残したように、ガリレイがスケールに関する発見の歴史にもあらわれるということは、この二つの思考法をむすぶことへとみちびく。あたかも17世紀の科学革命がふたつの断絶をもたらしたかのように、すべては進展していた。ひとつは、何度もくり返して語られたことだが、地球の脱中心化、そしてもうひとつは、ほとんど認識されていないが、ものごとのそれぞれの領域に、絶対的大きさの概念をみとめたことである。

Ibid., pp.26-27 

そんなわけで、微小ではあるが、あくまでもマクロの分野に属する現実に接近するのに、昆虫の世界に依拠することがいかに貴重であるかが分かる。それによってもたらされるフィクションを創りあげる可能性は、詩的な壮大さのほかに、さまざまなかたちの思考の展開をうみだし、私たちがいまの状態の百分の一、あるいは千分の一だったとすれば、私たちの世界はどのようなものだろうと、問いかけてやまない。

 Ibid., p.30

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PENTAX 67, SMC TAKUMAR 6×7 105mm / F2.4, FUJI PRO400H