JAN.1,2021_かそけきもの

 新年あけましておめでとうございます。新年早々、となりで畑をやっている野口さんから野菜をもらって、2021年は良い年になりそうだなと予感した。もらったのは大根と白菜なのだけど、大根がとにかく冗談みたいにおおきくて。大根がおおきいことが嬉しくて、家のなかのいろんなところに大根を置いて、グラビア撮影みたいな感じで、大根の写真をたくさん撮りました。そんな元旦でした。しかしこの大根、どうやって食べようかしら。

f:id:o_tkhr:20210101185425j:image


 先日から引き続き、ユリイカ戸田ツトム追悼号より。平倉(圭)さんが聞き手を務めたインタビューがすばらしかった。戸田さんの著書ぜったいに読もうと思った。

……鉢植えなどに目を遺ると、そこに植物の種子がある。その種子は巨大な表面積と時間を積分した反射的な情報量の凝縮としてそこにあり、そのなかに時間も空間も未来としてそこに入っている。(……)オオウバユリという花があります。その実の皮の表面はフェンスのようになっていて隙間がある。なかに種が見える。それを一度、ずっと見ていたことがあって、そうすると、風がふうっと吹くと、その実が揺れて、種がふわっと出るんですよ。全部は出ない。しばらくまた何日かして風が吹くと、またぱらぱら落ちる。ひと袋のなかの300個くらいの種子が、一ヶ月ちかくかけて散っていく。合目的的なメカニズムができています。時間の幅をとり、いろんなチャンスにアタックしていく。柔らかくて適度に堅い、冬になれば完全に朽ちて、粉々になるくらいの弱さ、フラジャイルな状態でなければいけない、とか、いろんな力の加減の仕方や、環境的あるいは経済学的な調整がそのメカニズムで動いているということがとても強く感じられる。(……)唐突ですが、戦後民主主義というのは、どうやらそういうことをちゃんとしてこなかった。暗いより明るく、小さいより大きく、薄いより厚い、というように、より強く現前させる指向に基づいたモノの作りかた、捉え方、生活の仕方を支持してきた。そこでは、ある種の「かそけきもの」の鋭敏さや暗示力の強さが切り捨てられた。

戸田ツトム: デザインと予感(聞き手: 平倉圭), ユリイカ 1月臨時増刊号 総特集 戸田ツトム, 青土社, pp.351-352, 2020

── 可能性の束のようなものを、リアルなものにしていくときに、失われるものがある。

戸田 可能性の束をそのままにしておく、という態度がおそらくデザインには必要なんじゃないか。そのために必要なのは、解釈を保留し、予期すること、予感をそこに投入するということではないか。デザインの作業のなかで「レイアウト」という作業があります。この作業が保留すること、歩進することの調整にあたります。

Ibid., p.352

── 「これだ」っていう瞬間ははっきりと分かるものですか。

戸田 わからないですね。

── 何によって決断が起こるのでしょう。

戸田 一人称において起きることはほとんどないです。その「場」が決め、それを読みとる感じです。いい加減、いい具合、と。画面を見て、出力して、本を巻いて、手にとって、棚に置いて。そういう環境との関係を見ます。ある種の造形の規範みたいなものも、その意味や場所によって変わっていくと思いますね。ですから、かならず普通の生活のなかに連れ出したうえで、社会化したうえでの検証が必要です。(……)この本がもつ固有の距離というのがあるはずなんです。このデザインが指定した固有の距離においてこれを手にしたときに、ちょっと落ち着かないね、みたいな。だから、読みやすいとか読みやすくないとか、見やすいとか見やすくないとか、いくらでも議論されるけれど、そんなことは分かり切っている。ところが固有の距離という空間性にもとづいた距離感なり、視る者、読む者、手に取る者との函数的連関なるものもある。一見妥当な指摘に感じられる「読みやすさ」は、たんなる集合意識が作ったパラダイムであるだけの場合が多いですね。

── 距離というのは文字の大きさだけにかかわるものではないですよね。

戸田 ええ。ますはやはりテキストがどこに赴こうとしているのか、です。そして、紙の肌理だとか、触感覚も重要です。それから文字の位置も。本を広く見せたりとか狭く見せたりとか、いろいろ考えます。どのデザインを見る人がいて、どう感覚されるか。理念的な美しさや読みやすさではあんまり考えようとしてこなかった。

Ibid., pp.354-355