SEPT.1,2020_表面について

 季節というやつはとてもまじめな性格をしているらしく、日付がちょうど9月に入った今日の深夜から朝方にかけて急に涼しくなって、秋の訪れを感じる日となった。今年は信じられないくらい時間がすぎるのが早いのだけれど、これは自宅で過ごす時間が長いからなのか、住む場所や働く場所が変わったからなのか、それとも単に年齢のせいなのか、わからない。

 今月上野で展示をおこなうから、最近はその準備に追われている。あるひとつのトピックに関して、共同制作者たちと時間をかけて話し合ったり、あれこれ悩んだりしながら、わけもわからず何かをかたちにしようとしている。不安と疲労と期待でないまぜになりながらも、この作業にはどこか充足感がある。暗闇のなかから、手探りで、どうにか光を見つけようとしているような感じだ。

 そういえば今月の現代思想がコロナ禍での日常生活を特集していて、展示のテーマとも関連するので読んだのだけど、そのなかに収録されていたバトラーのテキストが非常によかった。表面について。

私たちは世界の表面を共有している──以前は知らなかったとしても、いまはそれがわかる。あるひとが触れた表面にはそのひとの痕跡が残る。表面はその痕跡を受け入れて伝播し、次にそこに触れたひとに影響を及ぼす。表面といってもさまざまだ。プラスチックは長く痕跡を残すことはない。だが、多孔性の素材にははっきりと痕跡を残すものもある。人間やウイルスのようなものは、短時間あるいはより長く、私たちが共有する世界の物質的な構成要素となる表面に残り続ける。 人々を結びつけるときにモノがどれほど重要なのか──以前は知らなかったとしても、いまはわかるだろう。今日、商品の生産、流通、消費によってウイルスを感染させるリスクが生じている。荷物が玄関に届く。置いていった相手の痕跡は見えない。荷物を受け取って家に持ち込むと、その痕跡や広範にわたる見知らぬ他者と接触する。荷物を置いていった作業員も、モノを作って梱包した人々や食品を扱った人々の痕跡を持ち運んでいる。彼らはひときわ密度の高い移動現場で、包装された食品の受取人が回避しようとするリスクを背負っている。〔...〕にもかかわらず、なぜ働き続けるのか。多くの場合、彼らが直面している選択は、病気──場合によっては死──のリスクを冒すか、あるいは失業かというものだ。

ジュディス・バトラー: 世界の表面の人間の痕跡, 清水知子訳, 現代思想8月号, p.172, 2020 

私たちの社会的諸関係を描き出すモノは商品でもある。だが、それは手摺り、階段の踊り場、建築物のすべての接触面、飛行機の座席、しばしのあいだ痕跡を受け入れ伝染させる表面でもある。この意味において、世界の表面は私たちを結びつけている。それどころか、物質的なインフラストラクチャーを通り抜け、物体の表面に付着するものに対して私たちを等しく可傷的にし、私たちのあいだを行き交うモノの表面で生きるものに対して、私たちはこれまで以上に危険な影響を受けやすくなっているのだ。私たちはモノに依存していきている。〔...〕モノや他者への意図せぬ近接性は公共生活の特徴であり、公共交通機関を利用し、人口密度の高い都市の街路を移動しなければならない人々にとって当たり前のことだろう。狭いところではぶつかるし、手摺りに寄りかかったり、行く手にあるものに触れたりする。だが、その接触が病気の可能性を増大させ、その病気が死の可能性をもたらすときには、偶然の接触や遭遇、相互のすれ違い、ちょっとした雑用といった状況が死をもたらす可能性がある。このような状況下では、私たちに必要なモノと他者は私たちの生命をとてつもなく脅かす可能性として現れる。 パンデミック的状況は、こうした労働上の諸関係だけでなく、労働、移動、社会性、住居に暗示される生と死の条件も含みながら、モノがどのように私たちの社会的諸関係を構造化し、維持しているかを再考するよう問いかけている。

Ibid., p.173

ウイルスはモノとその表面を通して、見知らぬ人や親しい人との親密な出会いを通して私たちを結びつけ、生そのものの見通しを条件づけ、危険にさらす物質的な結びつきを混乱させ、剥き出しにする。だが、この危険に満ちた潜在的な平等は、使い捨て可能な生の境界を明確に画定し、無数の不平等の形態を強いる社会的、経済的世界のなかで変容するものだ。私たちが築くケアのコミュニティは、来るべきよりラディカルな社会的平等を予示するものかもしれない。だが、それらがローカルなコミュニティ、言語、ネイションに縛られたままであれば、コミュニタリアン的実験をグローバルな政策へとうまく翻訳することはできないだろう。〔...〕ウイルスが道徳的な教訓をもたらすことはない。ウイルスは道徳的な正当性をともなわない苦悶なのだ。だがそれは、グローバルな連帯の相互接続という別のところから光を当てる視線をもたらしてくれる。それは自発的に起こることはないが、ロックダウン下で、生存の平等という名の下に、自らを一新する闘争を通してのみ実現するだろう。

pp.176-177

 バトラーが強調するのは、僕らが事物に依存して生きているということ、そして、すべての事物には社会的諸関係が織り込まれているということだ。たとえば今手元にあるタオルにも毛を刈り取られた羊がいて、羊毛から糸を作り糸を織り上げ布をつくる機械とそれを実行する人がいて、農場を運営する人がいて、ウールからタオルをつくる人がいて、それを商品として梱包する人がいて、それを陳列するお店があって、商品を私の家まで配達してくれる作業員がいる。あるひとつの事物には、目には見えないけれど、社会的な関係性と、そこでの無数の接触が刻まれている(そしてそこでは常に、「感染リスク」の不平等な分配が発生する)。

 事物に愛着をもつということは事物を物神化(フェティッシュなものに)するということである。それはつまるところ、モノに織り込まれた社会的諸関係を「忘れる」ということだ。このタオルに関わったすべての労働を、いったんなかったことにすること。それによってはじめて、僕はタオルの質感を純粋に享受し、私自身の生を刻むことができる。ところが今日の危機的な状況は、素朴にモノの表面を愛で、愛着をもつということを容易でないものにする。感染症が暴き出してしまうのは、モノの表面には常に一定のリスク=他者との不可避の関係性が存在しているということ、だけではない。僕らは目に見えない身体の痕跡を日々モノに残し、仕事と生活のなかで、他者の痕跡を運んでいるということも、だ。

 だからこそ、僕らは視覚=イメージと音声=言語を最大限に用いることによって、触ることなく他者とコミュニケーションをとることを日々心がけている(その範例はZoom等を用いたオンライン・ミーティングだろう)。触覚的なコミュニケーションは現在危機的な状況にある。それは比喩的な意味ではなく素朴に「危険」なのだ。たとえコロナが収束しても、触覚がコミュニケーションの手段として追いやられてしまったというこの事実は、僕らの日常に大きな爪痕を残すような気がしている。

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 これは先週末の猛暑の日、朝5時前くらいに目が冷めたときに撮った写真。喉がカラカラ、頭フラフラ、軽くめまいがするという熱中症一歩手前の状態だったが、窓から朝日が森に差し込んでいて、とても美しくて、しばらく眺めていた、そのときの。ふと我に変えって、水道水をがぶ飲みしてから、また寝た。

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