JULU27,2018_オブジェクト指向存在論④

○そろそろイタリアにいってしまうので、OOOを読んでいく作業は、中途半端なところでストップするかもしれない。発表練習しなきゃ。。

f:id:o_tkhr:20180727231447j:plain

Canon AE-1 Program, FD F1.4 50mm, Fujifilm SUPERIA PREMIUM 400)

 

/////////////////////////////////////////////////////

 

3. ハイデガーの道具分析と実在的対象

 

 ハイデガーの道具分析をラディカルに読み替えることで、ハーマンは対象のもつ「あらゆるアクセスから引きこもった秘密」を一般化する。OOOにおいては、眼前性が現存在への依存を意味する一方で手許性は退隠する道具の独立を意味するという、独特なハイデガー解釈が展開されている。ややこしいハイデガー存在論にはそっと目をつぶってハーマンを読み進めてみてもいいのだけど、自分の理解を深めるためにも、少し遠回りになるがここではハイデガー存在と時間』のまとめから始めることにする。それを通して、難解なハイデガーの哲学を換骨奪胎し、それを極めて単純な図式に落とし込んでいくハーマンのあざやかな手付きを見届けることにしよう。

 『存在と時間』でひとまずおさえておくべきは、「現存在」「世界内存在」「道具連関」の3点だろう。これら、たった3つの公理的な概念から出発し、あらゆる概念を順繰りに制作していくという作業の痕跡が、本書にほかならない。この最も基本的なタームの整理から始めよう。

 

○現存在(Da-sein)

 現存在とは、「存在論的に正確に定義された主体概念」と捉えておいてひとまず問題ないだろう。「自己の了解」によって規定される存在、すなわち、自分にとっての自分の存在、が現存在であり、ハイデガーは「現存在とは、みずから存在しつつこの存在に向かって了解的に態度をとっている存在者である。」*1というような仕方で表現する。現存在は、自己が現に存在しているわけだから、その実在性が保証されている。ゆえに存在論のスタート地点となるものだ。

 現存在のいくつかの性格を確認しよう。現存在はひとごとでない自己の存在を、ある意味でひとつの「事実」として、事実上現実に存在しているという意味で了解している。ハイデガーは、各々の現存在がそのつど事実として確かに存在しているということを、現存在の「事実性」(Faktizitat)と名付ける(Ibid.)。さらに、現存在には各自性(Je-meinigkeit)という性格がそなわっているので、人称代名詞を要求するものであるが(SZ, §9)、一方でそれは、ときとしてたんなる客体的存在者として受けとることもゆるされる(SZ, §12)。

 ハイデガーにとって、1: 「それがなんであるか」に先立ち「それは存在している」、さらに、2: 各々の存在者は各々自身を事実とみなしている。ハイデガーは世界において客観的に存在するものーー客体的存在(Vorhandensein)ーーを議論からひとまず排除し、現に存在する私ーー現存在ーーを絶対化するのだ。

 

○世界内存在(das Inder-Welt-sein)

現存在には本質上、「なんらかの世界の内に存在する」ということが属している。したがって、現存在に本属している存在了解は、同根源的に、「世界」というようなものの了解と、世界の内部で接しうる存在者の存在についての了解とにも及んでいるのである。(SZ, §4)

 私は、私が存在している絶対的な事実を認識する。そして自己を認識する際にあらわれるのは、そもそも自己が、よりも包括的な「世界」の内部に属している、という事実である。世界が私を包摂しているという構造そのものを、ひとまず認めなければならないだろうと。このとき、認識が「主観」と「客観」(「私」と「世界」)を作るわけではないことに注意しよう。「私」は“そもそも最初から”「世界」の内に存在しているのであり、認識というのは、「世界」にもとづけられた現存在の一様態にすぎない。ハイデガーの議論において、「世界」とは、あらゆる存在者を包摂する領域の名称ではなく、事実としてある存在が現に「その内で」「生活して」いる“ところ”を意味している。ハイデガーは「世界内存在」というタームによって、世界に私が包摂されているという事実的な構造そのものを表現しようとするのだ。

 

 「世界」に関する認識という点に関して、ハイデガーは以下のように書いている。

かりに隙間がゼロであったとしても、机は原理的に、壁に触れることができないからである。《触れる》ことができるためには、壁が椅子に《向かって》出会うことができるということが、前提条件になるであろう。(……)世界の内部で客体的に存在していて、その上、それ自体において「無世界的」であるようなふたつの存在者は、決して《触れあう》ことがありえないし、一方が他方の「もとにある」ことはありえない。(SZ, §12)

ハイデガーによれば、存在を理解するという働きには、「いつでもそれについてそれの《……として》(als)が浮かびあがりうる」(SZ, §32)という構造を指摘することができる。ハイデガーによる有名なテーゼを思い出そう。①石は世界をもたない。②動物は世界が乏しい。③人間は世界を形成する。ハイデガーは存在を、「…として」理解する構造を、「現存在」という術語が与えられた人間に固有のものであるとして、石や動物の世界と人間の世界を分かつ。これはまさにOOOとは対比的な世界の認識であるといえよう。しかし、いったいどうやってハイデガーの議論を引き継ぎつつ「石そのもの」の方へいけるのか。その秘密は次の道具分析の項目に隠されている。

 

○道具連関

 まず、「われわれは、配慮 *2 において出会う存在者を、道具(das Zeug)となづける。」(SZ, §15)。道具を道具としてあらしめる性質(道具性)は、次のように輪郭づけられる。少し長いが、重要な箇所を引用してみよう。

厳密な意味では、ひとつだけの道具は決して「存在」しない。道具が存在するには、いつもすでに、ひとまとまりの道具立て全体がなければならない。(……)道具というものは、本質上、《……するためにあるもの》である。この《……するためにある》ということは、有用性、有効性、使用可能性、便利性というようなさまざまな様態があるが、これらがひとまとまりの道具立て全体の全体性を構成している。《……するためにある》という構造のなかには、「なにかをあることへ向けて指示する」ということが含まれている。(SZ, §15.)

道具というものは、ーーその道具性に応じてーーいつもほかの道具との帰属にもとづいて存在している。インク・スタンド、ペン、インク、紙、下敷、机、ランプ、家具、窓、ドア、部屋は帰属している。(……)一番さきに出会うものは、主題的に把握されはしないが、部屋である。そしてそれも、幾何学的空間の意味で「四つの壁の間」としてではなくーー住む道具としてである。この部屋のなかから、備えつけられた「調度」が現れてきて、そしてこの備えつけのなかで、それぞれの「個別的」な道具が現れてくるのである。個別的な道具に気づく以前に、いつもすでに道具立ての全体性が発見されている。(Ibid.)

ハンマーがたんなる事物として眺められるのではなく、それが手っ取りばやく使用されればされるほど、ハンマーに対する関わり合いはそれだけ根源的になり、ハンマーはそれだけ赤裸々にありのままの姿で、すなわち道具として出会ってくる。(……)道具がこのようにそれ自身の側から現れてくるような道具の存在様相を、われわれは“用具性”(Zuhandenheit)となづける。(Ibid.)

 たとえばハンマーは釘を打つためにあるが、ハンマーや釘が共に用いられるのは、制作すべき作品、たとえば靴や時計があるからである。そして靴や時計といった制作物は、歩く“ため”、時を知る"ため”など、「使用可能性が向けられているところ=用途」をあらかじめ含みこんでいて、これがハンマー・釘・私の関係性を有機的に結び合わせる。さらに靴や時計といった制作物は同時に、「材料への指示」(靴が材料である靴・紐・釘に依存している)もある程度持ち合わせている。また、当の道具であったハンマーや釘もまた「制作物」であり、鉄や木材、鉱石を指示する道具である。さらに、制作された靴や時計は利用者への指示を含み持っている。

道具を使用し操作する交渉は盲目ではなく、それには固有の見方がそなわっていて、これが操作をみちびき、それに特有の即物性を与えている。(……)道具=用具的存在者との様々な交渉は、道具が《……するためにある》という多様な指示によって規定されている。(Ibid.)

道具は、こうした「指示」が複雑に交錯するネットワークのなかに位置づけられている。事物がこうした道具連関のなかにあり、存在者が用具的であることを、ハイデガー存在論的=カテゴリー的規定とみなす。あらゆるものがある種の道具である、と。ぼくらは目的に応じて、こうした各々の道具の「指示」を読み取り、(自らも「道具」としてそのネットワークに組み込まれながら)適切に道具を扱うと同時に、ある種の制作行為として、こうした道具の指示のネットワークを組み替えたり、変化させたり、意図的に切断したり、意外なところでつなぎ直したりしているのだ。

 ぼくらは、こうした事物の道具的な連関を「見ること(Sicht)」によって認識し、道具同士の指示関係を判断して、日々それらと交渉している。この、道具の指示作用を見抜くようなモードを、ハイデガーは「配視(Umsicht)」と表現する。例えば友人の家をはじめて訪ねるとき、ぼくらは玄関の前にたち、ドアらしきものを確認して、そこに取り付けられた金属でできた何かを発見する。ぼくらはそれをドアの開閉を用とするモノ=取っ手であるとみなし、それが含みこむ「時計回りにひねる」という指示を了解した上で、それを実行する。ぼくらはそれを「見て」いる(道具の眼前性)。このときハイデガーは視覚を特権的に扱っているわけではなく、嗅覚でも触覚でもなんでもいいのだが、とにかくなんらかの感覚器官による意識的な、あるいは理論的な道具の使用を扱っていると、ひとまず考えておけばいいだろう。

 しかし道具と交渉するときのぼくらは、いつでも道具の存在を意識しているわけではない。むしろうまく機能している道具ほど、ぼくらはそれを無意識に使う。自宅のドアの取っ手をことさら意識することはあまりないように、道具が手許でうまく機能しているとき、それは控えめであり、しばしば無意識に使用される(道具の手許性)。ぼくらは普段、心臓やコンタクトレンズを意識し続けて生活しているわけではない。それらは普段、ぼくらの意識から退隠(withdraw)しているのだ。

 「眼前性」と「手許性」という対比的なモードは、道具に限らず様々な存在者に向けて、非常に広範な応用範囲をもった重要な概念であり、この対比により理解することができる現象は多い。たとえば壊れるということと、記号の役目である。

①壊れた道具

 手許でうまく機能するモノが、突如として強烈に意識されることがある。それは、道具が“壊れる”ときである。

「手近なものごとにたずさわっているうちに、それらの用具的存在者のひとつが使用不可能になっていることに気づき、その特定の用途にそぐわないことに出会うということがある。(……)使用不可能性を発見するものは、それらの事物の属性を眺めやって確認するという態度ではなく、それらと使用的に交渉する配視である。それが使用不可能性を発見するときに、その道具が目立ってくる。その目立たしさが、用具的存在者をある意味の不用具性において現示する。それは、役に立たないものがただそこにある、ということである。」(SZ, §16)

②道具としての記号

 道具は控えめであり、目立たないのだけれど、それゆえうまく機能しているものだ。しかしだからこそこのとき、無意識下に置かれた事物を「目立たせる」工夫として、「記号」が道具的に制作されることになる。

記号とは(……)ひとまとまりの道具立て全体をことさら配視に浮かびあがらせて、それと同時に、用具的存在者の世界適合性が通示されるようにする道具である。(……)世界の内部で身近に存在しているものの存在には、われわれが上に記述したように、自分を控えていて立ち現われてこないという性格がある。それゆえ、環境世界の内での配視的交渉は、その道具性格上、用具的存在者を目立たせるという役目をひきうける手許の道具を必要とするわけである。このような道具=記号の制作にあたって、それの目立たしさに留意しなくてはならないのは、このためである。(SZ, §17)

 

○「近さ」と「布置」による空間へのアプローチ

 ということで、「現存在」「世界内存在」「道具連関」というもっとも重要な存在の条件を、かなりざっくりだがまとめてみた。ハイデガーはこの3つの概念を組み合わせ、思弁的に展開させていくことで、他の様々な概念を説明していくことになる。たとえば「時間」について。まず、現存在はそもそも世界に存在している。一方で、ある瞬間には自分で自分自身の存在を認知している。たんに存在している地点から、自身を了解する地点へ、この明確なワンステップに、「時間」の一様態をみることができるだろう。また、現存在と世界内存在の間に道具連関を挟み込むことで、「他者」の解釈もおこなわれる。「私」(現存在)と「あの人」(他の現存在)は、道具連関によって接続されながら、世界に共同存在しているのだと(第4章)。では「空間」はどうか。最後に、『存在と時間』での空間へのアプローチを詳しくみていくことで、ハイデガーが「現存在」「世界内存在」「道具連関」という概念をどう具体的に組み合わせて、新たな概念を彫琢しているかを確認し、今回の目的、すなわちOOO読解の前提となるハイデガー哲学の復習を終えようと思う。

 

 ハイデガーにとって空間は、決してあらゆる存在の前提となるアプリオリな条件ではなく、上記の3つの概念を駆使して解釈されるものだ。このような空間へのアプローチは、「コギト(思惟する私)」からスタートして、「空間」と「時間」をアプリオリな前提として用いることで「私」を延長し「世界」へとアクセスする、デカルトがおこなったような方法とはまさに真逆の発想であるといえる。そして、こうしたアプローチで定義される空間性もまた、デカルト座標のようないわゆる「絶対空間」とはまったく異なるものである。

 さっそくみていこう。まず現存在は、自分がいる《ここ》を、より包括的な環境《あそこ》をもとにして了解している。身の廻りには種々雑多なモノがうごめいていて、私から隔たって存在しており、それらは目的に応じた指示連関のネットワークをつくっている。これがまず前提となる。

道具はその場所におさまっているか、さもなければ「散らかって」いる。(……)その道具全体の場所柄的な適当性の根底には、さらにそれの可能性の条件として、全般的な「所属」があって、道具連関はこの「所属」の内部でひとまとまりの場所を当てがわれるのである。(SZ, §22)

たとえば重力や太陽の位置はある特定の方向性を道具連関にあたえ、道具の「所属」を規定する強力な指標になる。ぼくら建築家はよく知っているけれど、日の当たる南側に庭を置き、東側にダイニングがあって、北側に水回りがおいやられるという典型的なプランニングは太陽の方向性に規定されたものだし、建築物の構造体の組成における様々な工夫は重力との長い間の闘いの結果生み出されたものだ。ハイデガーが一義的に想定する空間は、こうした道具連関の「方向性」を前提として、現存在によって相対的に規定される空間である。この空間性は「開離」と「布置」という概念で説明される。

開離するというはたらきは、さしあたりたいていは、配視的に近づけること、すなわち、調達するとか、整備しておくとか、手もとにそなえているとかいう形で、近みに組みよせることである。(……)眼鏡をかけている人を例にとると、その眼鏡は、彼の「鼻にかかっている」ほど近くにあるけれども、彼自身からみると、このように使用されている道具は、環境的には、向こう側の壁にかかっている絵よりもなお遠くに開離されている。(SZ, §23)

開離する内=存在として、現存在は同時に、“布置する”という性格をもっている。(……)現存在の「身体性」における空間化は、ここでは取り扱うことのできない独自の問題性をうちに含んでいるけれども、その身体的空間化はこれらの左右の方向という点でも顕著な特徴をそなえているたとえば手袋のように、両手の運動をともにしなくてはならない身体用の用具が、左右に布置される必要があるのは、このためである。(Ibid.)

ハイデガー独特の表現でとてもおもしろいと思うのだけど、眼鏡をかけた私が絵に没入しているとき、注意してみている絵は私にとって「近い」(眼前性)のに対し、無意識にかけている眼鏡は「遠い」(手許性)と。一方となりにいるBさんからすれば、眼鏡と私はとても近い。BさんはBさんの位置から、私と眼鏡の関係を位置づけている。

 各々の現存在は、身の廻りの環境に散らばっているモノとのユニークな「近さ」と「遠さ」をそれぞれにもっていて(開離)、そして各々の位置から、各々の仕方でモノを位置づけている(布置)。私は"ここ”にいて(現存在)、“あれ”を見る(配視)。私は私という視点から、空間の場所柄をその都度構成しているのだ。ハイデガーにとっての空間とは、ある環境の内部にいる私=現存在が、その環境を構成する道具のネットワークを私なりの仕方で読み取り、配置することで組み立てられるものである。

 

 長くなってしまったのでここまで。次回はいよいよ、ハーマンのハイデガー読解をみていく。これまで確認したように、ハイデガーは徹底した人間中心主義であった。一方でハーマンは、ハイデガーにおける人間中心主義的な議論を徹底してオミットし、そこからこぼれ落ちる、事物の実在性へ向かういくつかの認識を明確にし、対象そのものに向けた理論を形成していくのだ。 

 

www.ohmura-takahiro.com

*1:Heidegger, Martin: Sein und Zeit, 1927, §12 / 邦訳『存在と時間』, 細谷貞雄訳, 筑摩書房, 1994 / 以下SZと略記し、セクション番号を示すこととする

*2:「《なにかに関わりをもつ》、《なにかを制作する》、《なにかを整頓し、手入れをする》、《なにかを使用する》、《なにかを棄てたり、なくしたりする》、《企てる》、《やり通す》、《探す》、《問いかける》、《考察する》、《論ずる》、《規定する》(……)内=存在のこれらの様式は、なお立ちいって記述するような、配慮(Besorgen)という存在様相をそなえている。配慮の様式には、《やめる》、《怠る》、《諦める》、《休む》というような欠如的様態もぞくしており、またさまざまな配慮の様式に対応して、《ただ……するだけの》という様態もぞくしている。(……)われわれの考究では、「配慮」という言葉を存在論的用語として、なんらかの世界=内=存在のありかたを指すためにもちいる。」(SZ, §12)