DEC.27,2020_2020年、納まる(たぶん)

 昨日、国立でのトークイベントがあり、今日は展示物の撤収をして、いよいよ年内の仕事は納まった!(かな?本当に…?)という感じ。明日はひさびさに穏やかなのんびりとした日を過ごせると思う。といってもやることもとくにないので、洗濯したり、流し読みして積んでた本を読んだり、引っ越しの際に出てきた買ったことも忘れていた本に目を通したり(得した気分)、寝る前とかに途中まで見てた映画を見たり(すべてが中途半端すぎるぞ私の生活)、散歩したり、バラエティ番組を見たりすると思う。

 数日前、もう連絡がとれないだろうなと思っていた人から偶然が重なってふと連絡(のようなもの)をもらったり(奇跡的だなと思った)、様々なイベントを通して素敵な人々と出会えたりと、今年の後半は不思議な出会いや出会い直しが多かった気がする。土曜日のトークイベントもまさにそうした出会いが多くあった貴重な機会だった。観覧いただいた方々がかなり豪華で、ディスカッションがとても充実したものになったのだった。

 今回、共同した奥泉さんのこれまでの制作についてのプレゼンを聞くことができたのだけど(ほぼ初めてに近い)、その一貫性に感銘を受ける。すべての活動に一本筋が通ってる感じ。谷繁くんもいっていたけれど、通奏低音のように繰り返される「信頼できるもの」(「本当のこと」といってもいいのかもしれないと思った)という言葉が印象的だった。制作をめぐる個別のテーマの状況における「信頼できるもの」の捜索は、ふだん信頼していると思っているけど実はぜんぜん信頼できないよな、という諸問題を浮かび上がらせる。あるいは、フィクションとリアルの二分法はよりメタなフィクションの現れにより揺らぎ(リアル / フィクション→(リアル / フィクション) / メタフィクション、というふうに、より上位の構造に既存の二分法が包含されてしまう)、それまで嘘だったものがどこか現実味を帯びてしまう、ということもある。「ということにしよう」は可変だ。また、自分の身体や経験を通した「信頼できるもの」もあるし、より普遍的な類的人類にとっての「信頼できるもの」もあるだろう(たとえば「二本足で歩く」こと)。私にとっての「本当のこと」(私が経験した事実)と、世界にとっての「本当のこと」(経験の外側にある事実性)があるように。彼女の仕事では、一貫して両者がピタリと重なり識別不可能になる境位が探られているように思える。だからこそ、時間と空間は決して引き剥がして考えることができず、移動しつつ生起する時-空間という重要な問題が立ち上がってくる。

 僕は『私室についてのレクチャー』というテキストが淡々と流れる映像作品の内容をベースに発表をおこなった。この作品は、そもそも建物における「私性」とはなんのか、 いつ生じてどのように形式化されてきたのか、ということを歴史を追って30のパラグラフにまとめたもので、パンデミック下で送られる生(活)を少し俯瞰した視点から眺めることを企図したものだ(このような状況下でものを作ったり考えたりしていくための足場になれば、と)。今回はこのレクチャーの内容を振り返り、あらためて「私性」についての考えをまとめ、発表した。仮留めの結論ではあるが、歴史的に細分化・梱包されてきた私的空間の最後の領土は事物の布置とその可動性であり、事物らによって振り付けられる(ある順序をもった)動きである、ということを話した。これはもちろん、ぼく個人の考えというよりは、共同者たちとの対話のなかで少しずつ輪郭を結んできた見解だ。こういう角度で私的なものを考察できるようなったということ自体が、今回の作品制作でのかなり大きな収穫だとぼくは思っている。関連するかもしれないプロジェクトとして、倉賀野の別棟を紹介した。改めて考えてみるとこの建築物は(制作中はぜんぜん意識してなかったけど)、《私室の外観》とは根っこに同じようなモチベーションがありつつもまったく逆方向のベクトルを向いた鏡像的な取り組みなのかも、と思った。つまり、「モノの布置と行動が外観をつくる」ことの裏返しで、「(文字通りの)外観がモノの布置と行動を振り付ける」ということだ。『倉賀野駅前の別棟』では外観の操作を通した私的な身体と公的な身体の意図せぬ出会いや混合みたいなことを考えていた。ディスカッションでもあったけれど、これはのっぴきならない倫理性を帯びた「地面」(平面)に対して、外観(立面)にある一定の自由さみたいなものを見出したからだった。関連して、ある一定の距離で眺めたときにはハッキリとした強い印象をもつ外観だけれども、その強さは近づくほどにほぐれていく、ということも、このプロジェクトにとっては重要なポイントだと話した。

 あらためて、共同することは奥が深いなと思われた。マニアックなんだけれども他者に開示しうる、という思考が対話を通して練り上げられる気がする。複数人との個別の共同制作の継続を(ある年上の建築家には無謀だといわれたけれど)、自分はこれからも粘り強く続けていきたいと今回再認した。

 たぶん2020年は納まったはずなので、少しのんびりして、2021年に備えようと思う。1月からはぐっと集中して、論文一本に取り組んでいくつもり。気合入れてこう。そのために今は気合を入れてのんびりしよう。ひとまず今から、今日まで限定公開のダムタイプ新作公演を見て、寝る。毎回こういうときに、自宅にプロジェクターがあればいいのに、と思うのだけど。