SEPT.24,2018_ブルネレスキのクーポラ

今日から、アップしそびれていたイタリアにいったときにとった写真をアップしていこうと思う。
ICGGという国際学会のための渡航で、8月1日から10日までの滞在だったのだけど、ぼくの発表は6日の午前。当然学会には参加したかったから、1日かけて出かけられる日というのは限られていた。ミラノ自体まだまともに体験していない状態だったのだけれど、スケジュールじょう、南下できるのはこの日だけだったので、えいやと思ってユーロスター(イタリアの新幹線)に乗った。ユーロスターは日本の新幹線よりも地面に近くって、体感スピードがかなり出ている感じ。値段もそんなに高くないし、空いているし、快適だったのだけど、帰りの便には足元にゴキブリがいたので、かなり緊張感があった。イタリアには日本でもみかけるような雑草がその辺で咲いているし、セミは鳴いているしで、なんだか異郷という感じがしなかった。

フィレンツェに直行した理由は、フィリッポ・ブルネレスキ、ピエロ・デッラ・フランチェスカ、そしてマサッチオを見るためだった。ブルネレスキは初期ルネサンス様式を切り開いた革命的な建築家であったと、なんとなく前情報としては知っていたのはそれくらいのもので、彼がどんな思想をもってどんな空間をつくっていたのか、なんてこと、ぼくは想像もできていなかった。ヨーロッパの重厚な歴史と都市空間を身体化できていないから(むしろその真逆の環境で日々暮らしているので)、図面をみても、写真をみても、いまいちぴんとこない。結果からいうと、ブルネレスキはかなりすごかった。近代をぶっとばしてかなり現代的だなと感じる部分が多分にあった。


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ひとまずブルネレスキの代表作であるサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂(以下、デル・フィオーレ)に向けて歩きはじめた。この日のフィレンツェは40度近い気温で、地獄のような暑さだった。おれの知っているフィレンツェはこんな過酷な環境じゃなかったぞうちくちょう……、と、(多分広告的に刷り込まれていた)ぼくのなかのフィレンツェイメージに、心のなかで文句を言いながらも歩く(時差ボケもあるしで、ぶっ倒れるかと思った)。あと、でこぼこの石畳を長距離歩くのはなかなか堪えるもので、とくにぼくは腰痛持ちだから、第五腰椎あたりにズーンとくるようなダメージがあった。 いずれにせよ歩けば進む。デル・フィオーレに到着する。





でかい。よく知られているように、デル・フィオーレでブルネレスキが設計したのは、上部のクーポラ(ドーム)だけだ(上記の写真の一番上の部分)。基部 / 主部 / 頂部という伝統的な建築の三分法でいえば、ブルネレスキが手がけることのできた箇所は頂部だけということになる。

1296年、アルノルフォ・ディ・カンビオにより始まったデル・フィオーレの建設プロジェクトは、150年近くの歳月をかけて完結する。アルノルフォの死後は、ジョットをはじめとした数々の彫刻家・建築家にプロジェクトが引き継がれ、幾度もの設計変更・工事中断をはさみながら工事が進行していた。大きな変化があったのは1367年で、市民投票により石工と画家による5人の委員会による案が選出されることになるのだけど、以前の模型と図面はこの時点でほぼ全てが廃棄され、設計デザインは委員会案で決定、これより後にはこの委員の承認なしには石ころ一つ動かせない状況が生まれる。1418年の段階で残すところはクーポラ(ドーム)の建設だけというところまで工事はこぎつけていたのだけど、そのクーポラが問題だった。基部および主部の段階で高さは55m。この上に50mのドームを建設するなんて計画は、たとえば100m越えの足場や巨大な型枠が必要になるわけで、常軌を逸している。技術的な裏付けなしに建設を進めてきたツケが最後の最後で現れ、工事はストップしていた。
コンペで採用されたブルネレスキの建設案は驚くべきものであった。コンパス状の治具を持ちいた矢筈積み(渦巻き状に旋回しながら煉瓦を積んでいく手法)による型枠なしの組積、クレーンや照明装置の開発、二重のドーム構造、煉瓦および石材のためのジョイント金具の開発、等々、ブルネレスキのおこなった技術的な革新は枚挙にいとまがなく、このクーポラの建設だけで建設技術が数世紀ぶん前進したんじゃなかというくらいだ。しかし、1418年に行われたこのコンペは、クーポラの架構の技術提案のみを求めるものであって、デザイン案を求めるものではなかった。デザインは委員会案のもので既定路線。60年前の決定は絶対だった。誰もがミケランジェロのように、前任者のデザイン箇所を容赦なくぶっ壊すことができるわけはない(ローマのサン・ピエトロ大聖堂)。じっさい間近でデル・フィオーレに対面して目にするのは、主部および基部(身廊部)の圧倒的なゴシック感である(おまけにファサードは19世紀に完成したネオ・ゴシック様式)。そこにブルネレスキはいない。

建設開始から100年、何人もの建築家・彫刻家の手で設計が変更され、その計画のバラバラさがまさに地層のように堆積していた。その上で、後任者は何ができるのだろうか。ブルネレスキがおこなったのは、クーポラを建設するための単なる技術的提案(架構システムとその生産体制の開発)にとどまるのであろうか?(それだけでも十二分にすごいにしろ)。彼が意匠的におこなったのは、クーポラをたんに付け加えただけなのだろうか?ブルネレスキがおこなったのはそれだけではない、というのが、岡崎乾二郎の『経験の条件』で論じられていることだ。

建築家がまず直面するのは、相互に無関係に分離した無数の事物群、断片化した建築群という、きわめて都市的な現実であり、その与えられたばらばらに離散した事物間にいかに秩序を与えるかということが建築家の仕事であって、決して更地=白紙に還元された敷地上に自分の理念に従って、建築を一つの全体として、ゼロから立ち上げるなどということではなかった。事実、当時のフィレンツェなどの都市は、中世以来、何百年も継続し、改築し続けられている建築群でごったがえしていたのであり、その膨大な石の堆積をそう簡単に破壊し撤去できるはずもなかった。
建築家、芸術家という個人的な職能意識が、十三世紀以降ルネサンスにかけて生まれたのだとすれば、この膨大な全体なき部分の累積、言わば無意識的累積に対する自意識の発生にそれは相当するだろう。つまり芸術家と呼ばれる個人的主体は、断片から失われた全体を復元するという考古学的な作業でこそ、はじめて出現しえたのである。当時隆盛しはじめたという人文主義(ヒューマニズム)の起源は、そもそもこのようなものだったはずであり、いずれにせよ、この時代に突然、先験的な理念に従って何かが作りだされたなどということがあったわけではない。むしろ、すでに出来上がっているものの集合、その混沌の中から事後的に、それを統制しうる理念を見出さなければならない必要が生じてきたのである。*1

ここには、ぼくらが普段当たり前だと思っている建築家の職能とは真逆なことが書かれているように思える。しかし、更地=白紙に還元された敷地の上で、自分の理念に従って、建築を一つの全体としてゼロから立ち上げるなんてことは、「モダニズム」という歴史的に特異な環境によるところが大きいのかもしれないとハッとさせられる。建築とは特定の敷地を取り扱うが、その敷地には既存の歴史が絶対的に存在するのであり、つまり建築家とは圧倒的に受動的な状況を相手どる職業なのだ。だからたとえば、「リノベーション」というくくりをことさら特殊なジャンルのように扱う態度そのものが、そもそも近代的なドグマに陥っている象徴なのかもしれない。建築家という職能は、もとより改築、回復、修復に賭けられていた。とすれば、ブルネレスキがデル・フィオーレで直面した問題は、何も特殊な与件というわけでもなく、彼らにとっては当たり前の状況であり、であれば、天才的な建築家・彫刻家であったブルネレスキがここで「たんにクーポラの技術的提案だけをおこなった」とは考えずらいのではないか。

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ヒューマニズム建築を特徴づけるのは、純粋幾何学だ。たとえばパラーディオは次のように述べている。

最も美しく、釣り合いのよい脇部屋の形式、そして比較的具合よく成功する脇部屋の形式には7種類ある。すなわち、脇部屋の平面は稀にではあるが円形、あるいは正方形、あるいはその長さが幅を一辺とする正方形の対角線に等しいもの、あるいは、正方形ひとつと1/3、正方形ひとつ半、正方形ひとつと2/3、あるいは正方形ふたつ分、のいずれかにつくられるべきものだからである。*2

しかし、デル・フィオーレのクーポラは決して純粋幾何学的な形態ではなく、ルネサンスの純粋幾何への還元指向からすれば、むしろ不完全な形態であるように思える。単体でみる限り、ブルネレスキのクーポラが後のルネサンス建築の契機となり模範となったということは、不思議にも思えてしまうくらいだ。いったん身廊部から離れて、遠くからドゥオーモ観察してみる。

ぷかぷかとした風船のような曲面をもった軽やかなクーポラは、街のいたるところから見ることができる。遠くからみると、大きさが捉えられないような、なんとも不思議な印象をもったかたちということが分かるだろう。近くでみるとすごく巨大なのだけど、離れると妙に穏やかで、かわいくて、サイズがもつ暴力性が見事にキャンセルされている。
ブルネレスキが形態上おこなった操作は、クーポラのおおまかなデザインはそのままにそのスケールとプロポーションを既存の設計案から微妙に変更すること、そして、ランタン(頭頂部のとんがり)のデザインのみ。繰り返しになるが、彼に許されたのは頂部の設計変更だけで、基部と主部には手をつけることができなかった。

この前提をもとに『経験の条件』で岡崎が展開している推理は、ぼくにとってはかなり説得力のあるものだった。岡崎によると、この些細な操作(といってもクーポラの高さが既存案から20%くらい引き伸ばされているので、そこまで些細な設計変更でもないのだけど)、すなわちクーポラの曲面形態とランタン先端部の位置が適切に配置されることによって、バラバラに建設されていた身廊部には事後的に、幾何学的な補助線が引かれることになるという。あたかも、ランタンの頭頂部から順繰りに正方形および円形の補助線が導出され、それをもとに、身廊部の意匠およびヴォリュームが設定されているように感じられるように、だ。事実としての建設の順番と、完成物の知覚経験が反転するように、クーポラおよびランタンのスケールが決定されていると。 たしかに、ランタンの先端のあの金色のピカピカした丸いやつを知覚した瞬間に、部分の構成が「ピタッと合う」ような感触はあったように思う。

アルベルティ以降のルネサンス期の建築家にとって、円や正方形という純粋幾何学は「まずはじめに設定される秩序」であり(上記のパラーディオの言葉にしても)、まず対象を閉じた枠(フレーム)に規定した上で、その内部をある比例基準にそって分節していくという手法をとる。ブルネレスキはそれとはまったく逆方向に秩序を流し込む。上記の図面にみられる円や正方形といった純粋幾何学は、建設の最終段階で、事後的に引かれたものだ(あくまで岡崎さんの説によれば、だけど)。微妙にスケールを調整されたクーポラの設置は、所与の条件であった建設済みのヴォリュームに対して事後的な関係性を、事後的な生を与える。

ブルネレスキにとってコンパスは決して一つの中心から閉じた形態(円)を描く道具ではない。コンパスとは異なる二点を結びつけ、その等距離でもって複数の場所を繋ぎとめるものである。同様に比例とは、簡単にA : B=B : XとなるようなXを見つけ出すことであり、あるいはA : B=C : XとなるようなXを見つけ出すことである。これは二つの項の関係性を基軸にしてたえず進展していく原理であった。*3

遠くからじっくりと観察したあとに、もう一度ドゥオーモに近づいてみることにした。不思議なもので、先ほどとは打って変わり、ゴシック様式の身廊部のごついデザインにギョッとすることはなかった。遠くから見たときのぷかぷかした軽さが、あの不思議な均整が頭に残っていたかもしれない。岡崎さん記述で自分の印象の変化が全て説明できる気はしないのだけど、遠くからみたときの街との不思議な馴染み方、あのやさしさみたいなものをまとめて「建ち方」といってみると、少なくともその建ち方の妙がこの印象の変化の原因になっていることは確かだと思う。デル・フィオーレの建ち方はたしかに、ある調和を表現していたように思えた。そしてそれは、デル・フィオーレの主部および基部を超えて、周辺の建物、もっといえばフィレンツェ全体を秩序付けるような力をもっているようにも思えた。
クーポラの設置は、バラバラであった事物をつらぬく”整合性”を事後的に与えた。遠くからそれを眺める人々に、くだんの「補助線」を(意識的にしろ無意識的にしろ)知覚させることで、だ。おそらくクーポラをみたときの“風船のような”という印象がその補助線の効果であり、それは言語化以前の、なんとなくの感覚として残って、都市体験に大きく影響を及ぼすのだ、と思う。ブルネレスキのクーポラが「バラバラな事物に(事後的に)秩序を与える」ことを目指したものであるならば、なるほどそこでの“整合性”は建物単体を超え、周辺環境へ、波及に波及を重ねていく可能性を持ち合わせていてもおかしくない。


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ブルネレスキの建築形態がロマネスクと親和性があるということはよく言われることだと思うのだけど、同時に彼の時代にはそこまでアンチ・ゴシックの感情が強かったわけでもなかったし*4、また、ブルネレスキはローマの遺跡探査で多くのヒントを得ている一方で、ルネッサンス以降の建築様式に連続する(かつ現代建築まで射程に入ってくるような)萌芽的な空間的・技術的実践を行っている。これ、すごいことでしょう。推移的な歴史に分化されざる建築的実践を、ぼくらはブルネレスキに見るのだ。脱-歴史的な、過去と未来の両方に接続するプロトタイプとして。また、彼の大きな業績である遠近法の発見に至っては、絵画のみならず、射影幾何学の発見へと至る後の数学分野の発展にも多大な影響を及ぼしている。ひとりの建築家がこれだけの偉業を成し得たということは想像もできないくらいすさまじいことだ。

新築が建てられない、かなり厳しい環境に現代の建築家はいる。がしかし、建築家ってそもそもこうだったんだよ、とふんぞりかえることが大事だとぼくは思うのだ。その状況を嘆くのはお門違いだ、と。リノベーションも、コンテクストの重視なんかも、そんなものは建築家にとっては当たり前のことであり、むしろ伝統的な態度ですらあって、それがあたかも現代独自の表現・方法にみえるのは近代以降の建築家の幻想だ。ぼくらはその先の調和のあり方を目指さなければいけないのであり、そこではブルネレスキと堂々と肩を並べ、彼らとの方法上の差異を本気で問題にしていく必要がある。と、そう考えていけば、600年前の実践を、うんと現代的な問題として捉えられるようになる気がする。

何も数的な比例をその根拠としなくても、バラバラなものに事後的な調和を与えるということにはいろいろな方法があってよく、それは建築家が何世紀もかけてずっと継続している実践の形式であり、ぼくらもそこに接続している。たんなる立面の数的な比を「建築におけるプロポーションの実践」と呼ぶのはもうやめて、むしろ、バラバラな事物に事後的に与えられるなんらかの秩序を「比例」と呼ぶべきかもしれない。「1 : 1.618」みたいなものだけを比と呼ぶのではなく、人間同士の関係性でもいいしエレメント間の関係性でもいい、「宿命的に切り離されたペアにおけるなんらかの事後的な秩序」をプロポーションと呼んでみよう。対称軸はいたるところにある。建築経験における「比例」は、権利的には決してファサードにも、物理的な実体にも限定されないはずだ。昨日感想を書いた奥村さんの作品にしろ、その前に書いたリー・キットの作品にしろ、たぶんぼくはブルネレスキと連続する問題意識をそこにみているのだと思う。

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Filippo Brunelleschi: Dome of the Florence Cathedral, 1419–1436, Florence, Italy
(Canon AE-1 Program, FD F1.4 50mm, 記録用フィルム100)

*1:岡崎乾二郎: ルネサンス 経験の条件, 文藝春秋, 2014, pp.90-91.

*2:Palladio: I quattro libri dell'architettura, Venezia (D. Franceschi), 1570 / 桐敷真次郎: パラーディオ「建築四書」注解, 中央公論美術出版, p.112, 1986

*3:岡崎乾二郎: ルネサンス 経験の条件, 文藝春秋, 2014, p.116.

*4:ハインリヒ・クローツはパッツィ家礼拝堂の傘型ドゥオーモとサンタントーニオ・ダ・パードヴァ聖堂(Basilica of Saint Anthony of Padua)の類似を指摘している。