OCT.24, 2018_カサ・デル・ファッショほか

イタリアで撮った写真⑨

 

 引き続きコモ。《ノヴォコムン》の周辺をうろちょろする。すぐ近くにテラーニ最後の実施作品である《ジュリアーニ・フリジェーリオ集合住宅》(1939-40) があるのだけど、それはまた個別の記事で。まずはコモ湖周辺ででみたものをざっと紹介していこう。

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△ Giuseppe Terragni: Monumento ai Caduti, 1931-33, Como, Italy

 

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△ Giuseppe Terragni: Stadio Sinigaglia, 1932-36, Como, Italy

 

下はテラーニ設計の建物じゃないのだけど、戦没者慰霊碑の近くにあった建物。きれいだった。

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△ Gianni Mantero: Canottieri Lario G. Sinigaglia, 1931

 

コモ湖畔のカヴール広場には、テラーニ最初の実施作品であるホテルのファサード改修がある。基部のみの改修で、正面には「ノヴェチェント(1900年代派)」のスタイルがまだ残っている感じだったけど、側面(下の写真)をみると、いわゆるテラーニっぽい雰囲気が既にあるなということがわかる。白い大理石+木サッシ。

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△ Giuseppe Terragni: Hotel Metropole Suisse, 1926-27, Como, Italy

 

コモのドゥオーモへ。下の写真の左に写っているのがドゥオーモで、おくにチラッと《カサ・デル・ファッショ》がみえる。ちなみのコモのドゥオーモはロマネスクのとっても魅力的な建物で(内部は撮っていないけど)、側面の半外部空間もとても素敵だった。

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 テラーニが「民衆のための家」というテーマで設計した《カサ・デル・ファッショ》(1932-36) は、ドゥオーモの身廊の軸線から引く円弧に沿うように配置され、建物正面の軸線はドゥオーモ脇へ通じている(ふたつ上の写真)。一辺33.2メートルの正方形平面に高さがその半分という直方体で、ファサードの分割には厳格な幾何学的処理がなされている。事前の連絡でこの日は内部見学ができないことは分かっていたので、外観のみ。これまでずっと紙面上でみてきた非常に影響を受けた建物のひとつなので、最初はうまく直視できなかった。

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  立面上の厳格な幾何学的規則と平面での非対称性の折り合いの付け方がやはりおもしろい。この単純ではなさ、創造的折衷が高度な抽象性を保ちつつ成立しているところがテラーニっぽいと思うのだけど、しかし、テラーニのそういう面での良さは、《カサ・デル・ファッショ》以外の建物のほうがよく出ているかもしれない。たとえば次回とりあげる《ジュリアーニ・フリジェーリオ集合住宅》と《サンテリア幼稚園》。《カサ・デル・ファッショ》は、どちらかというとテラーニ自身の個性は抑制されている感じ。

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  とはいえ、面白くないわけはない。この妙な野暮ったさと、高度な抽象性の同居。相変わらず表面は徹底した大理石による仕上げだ。不思議な建ち方をしている。小規模建築がもっているプロポーションがそのまま維持され、アロメトリーを無視した規模の拡大をおこなった感じ、と表現すればいいだろうか。換言すれば、重力による「つぶれ」を無視している、というような。立面の分割の徹底した幾何学的処理とあいまって、大理石の塊に独特の“ふんわり感”をもたらしている。硬いけど柔らかい。この立面のプロポーションの操作によって、部分がけっこう変な影響を被っていて、それも面白かった。住宅レベルでの部材のプロポーションがそのまま「拡大」されている感じなので、たとえば下のようなニッチが生まれている。

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 ジュゼッペ・テラーニを語るときに、ファシズムと切り離して彼を語ることは難しい。(《カサ・デル・ファッショ》は直訳すると「ファシストたちの家」である)。当時の政治的状況にそこまで深く立ち入ることはしないだけど、この建物が建設された前後の状況については簡単に振り返っておこう。

テッラーニは工科大学卒業直後の26年から27年にかけて〈グルッポ7〉の一員として合理主義建築に関する宣言文を発表し、また、同時期にエンジニアである兄のアッティリオとともに、コモで設計事務所を解説する。28年に《第1回合理主義建築展》に参加し、後にコモの《カサ・デル・ファッショ》に発展する計画案にとりかかる。(……)31年に《第2回合理主義建築展》、32年に《ファシスト革命記念展》に参加する。この展覧会のムッソリーニ訪問を契機に、テッラーニはいくつかの計画案についてドゥーチェ([=総帥: ムッソリーニ])と面会する機会を得る。また、同年、コモの《カサ・デル・ファッショ》の設計を正式に依頼される。*1

テラーニはイタリアのファシズム期をまさに生きた建築家だ。ムッソリーニ率いるファシスト政権が誕生するのは彼が建築を学び始めた翌年であり、彼はファシスト党に関係する建物を多く設計しながら、1943年7月19日に亡くなる(これはムッソニーニ失脚の6日前)。鵜沢さんも書いていることだけれど*2、この完璧といっていいほどのシンクロから、彼の設計した建物をすべて「ファシズム建築」とみなすのは無論おかしな話だ。個人住宅やアパートメントなど、イデオロギーというよりは建築的なアイデア、あるいは近代建築への情熱が先行する作品のほうがむしろ多いのではないか。とはいえファシスト党の本部であった《カサ・デル・ファッショ》はまた別の話で、歴史的事実と切り離して、この建物の建築的なアイデアを素朴に評価してもいいものかという気持ちも確かにある。

ローマ進軍10周年にあたる32年に、《ファシスト各面記念展》が開催される。(……)ニコローゾによれば、ドゥーチェは、テッラーニを含めた若手建築家と党役員が協力して作業する場に居合わせ、その様子から芸術が政治的に大衆の感情を刺激することができるだろうと評価した。 おそらく、この頃からムッソリーニは、テッラーニの建築への熱意に関心をもったのだろう。そしてテッラーニもまた、ドゥーチェとの面会によって、彼が近代的なファシスト建築を支持し、つまりファシズムが近代建築を擁護するといった幻想をもったようである。(……)ところで、コモの《カサ・デル・ファッショ》において、テッラーニはムッソリーニの「ファシズムとは誰もが見ることのできるガラスの家である」という言葉を建築的に解釈する。しかし、その作品に関してはドゥーチェの訪問も称賛の言葉もなかった。*3

当初はファシズム及びムッソリーニへの強い幻想を持っていたテラーニだったが、《カサ・デル・ファッショ》がムッソリーニ本人から評価されることはついぞなく、徐々にテラーニのなかでのムッソリーニへの神話は崩壊していくことになる。

ムッソリーニにとって、テッラーニはドゥーチェを信奉する建築家として操りやすい人物のはずだった。ムッソリーニは、テッラーニの作品、そして彼の建築に対する真摯な姿勢に関心をもち、計画の依頼をしその提案をある段階まで承認する。しかし、テッラーニは近代建築の実現のためには妥協しない建築家だった。ムッソリーニは《E42設計競技》において、リベラら当選建築家たちに円柱とアーチといった様式建築に設計変更を強制させていた。しかし、彼は《ダンテウム計画案》などの依頼を通して、テッラーニがリベラらのように従順ではなく、自らの近代的な提案を放棄しない建築家であると気づいたのだろう。結局、ドゥーチェはテッラーニの提案を一つとして実施させるまで強く支持しなかった。 テッラーニにおいては、ドゥーチェに直接計画案を説明し、時に評価を得ることはあっても、そういった機会が彼の政府主催の設計競技の勝利につながることはなかった。テッラーニは、先述の計画案および設計競技を通して、次第にドゥーチェに不信感を抱くようになったのだろう。*4 

 強調しておきたいのは、テラーニは観察者(あるいは技術者)として政治に関わっていたのであり、あくまで所与の「ファシズム」という条件に対して、専門家である自分がいかに建築的な構成や空間性を与えることができるのか、という視点で試行錯誤をしていた人だったということだ(がゆえに、極端なイデオロギーに絡みとられてしまう危険性もあったわけだ)。翻訳家的な振る舞いといえばいいだろうか。たとえば《カサ・デル・ファッショ》に、彼自身による強い政治的意志が込められてはいない、ということには多くの人が同意するのではないだろうか。注目すべきはこの翻訳の過程、関数の如何であり、むしろなんとかしてここから、「ファシズム」を悪魔祓いしなければいけない、と思う。でないとテラーニは救われないのではないか。

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 ぼくらは個人の固有性と、場所の文脈と、時代の条件のなかで生きている。が、そこから生み出されるものには、そういったしがらみから離れ、有限性を超えて展開しうる潜勢力があるのだと信じたい、と思う。つまるところ時代や場所を超える“形式”を各々のしかたで道具化し、取り出す可能性を信じたいのだけど、しかし、この建物を実際にみて、それならば無理に政治的な抑圧下で設計された建物を扱う必要はないよなあ、と感じてしまった。というのも、この建物を見たあと同時期に設計された《サンテリア幼稚園》を見に行くことになるのだけど(次回のブログで扱うと思う)、政治的な文脈の薄いこちらの幼稚園のほうが、やはり良かったのだ(薄いと言っても仕事を取る上で実兄のコネ的なパワーは働いているのだが)。個人的には圧倒的に《サンテリア幼稚園》のほうが良かった。この感覚の差異は、政治的な文脈を完全にオミットして《カサ・デル・ファッショ》を分析することは自分にはできないな、という直感からきているのかもしれない。

 下は帰り際もう一度立ち寄ったときに撮った写真。《サンテリア幼稚園》の素晴らしさに打ち震えたあとで、この頃には、この建物を直視できるようになっていた。少しこの建物に対する気持ちの整理をつけることができた状態だった。写真というのはわかりやすいなと、数ヶ月前に自分が撮った写真をみて思う。

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△ Giuseppe Terragni: Casa del Fascio, 1932-36, Como, Italy

 

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 《カサ・デル・ファッショ》の裏手には彼の弟子であったチェーザレ・カッターネオの建物がある。合理主義建築の雰囲気たっぷりでいい感じだけど、建設当初は軒がなかったようで、より抽象的な造形だったみたい。そっちのほうがいいだろうな。でも軒がちょこっとついている感じも悪くない。とんがった若々しい近代建築というよりは、もう少し丸くなって、「おれも昔はワルだったんだぜ」とかいっちゃう可愛いおじさんみたいな感じになっている。

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△ Cesare Cattaneo: Uli Sede Unione Fascista Lavoratori Industria, 1938-43, Como, Italy

 

 カッターネオはテラーニの弟子の一人で第2世代の合理主義者ともいわれる建築家だが、早逝で、1943年に31歳の若さで生涯を閉じている。わずかながら8年という短い建築活動のなかでも、非常に魅力的な、”ヤバイ”(良い意味で)建築を残している人だ。たとえば《カーザ・カッターネオ》(1938-39) がそうで、コモ北部のチェルノッビオというまちに位置する住宅。ものすごく訪れたいと思っていたのだけど、ちょっと時間的に厳しくて断念した。今回はテラーニ設計の有名なお墓をみることもできなかったし、次回はぜひ見に行くこととしよう。ちなみに下の建物。手すりがすごい。

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https://www.espazium.ch/cesare-cattaneo-19121943-pensiero-e-segno-nellarchitettura

 

 

その他、マイナー目なテラーニ作品をいくつか。

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△ Giuseppe Terragni: Mercato comunale coperto, 1937, Como, Italy

 

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△ Giuseppe Terragni: Casa Predaglio, 1934-35, Como, Italy

 

 ファシズム絡みでないテラーニの設計は、ごくごく普通であることが多い。日常的で、過度に主張することなく、なんてことない佇まいで街なかに建っている。個人的に惹かれるのは、彼のそういう仕事のほうだった。これは今回の旅で得たひとつの確信で、個人的には大きな収穫だったものだ。

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(Canon AE-1 Program, FD F1.4 50mm, Kodak Portra 160)

*1:北川佳子: イタリア合理主義 ファシズム/アンチファシズムの思想・人・運動, 鹿島出版会, p.125., 2009

*2:ジュゼッペ・テラーニ――ファシズムを駆けぬけた建築, 鵜沢隆監修, INAX出版, p.116., 1998

*3:北川佳子: イタリア合理主義 ファシズム/アンチファシズムの思想・人・運動, 鹿島出版会, pp.132-33., 2009

*4:Ibid., pp.134-135.