ARP.15,2020_原論

 斎藤憲さんの『ユークリッド『原論』の成立: 古代の伝承と現代の神話』(東京大学出版会, 1997)がとてもおもしろかった。古代ギリシア数学に関する古今東西あらゆる研究を網羅しつつ、それらを批判的かつ厳格に精査しながら独自の論点を提出している。

 本書は分析対象を「現代の尺度で再構成しない」という態度で貫かれている。たとえば、詳しくは言及しないが、『原論』第6巻での不足および過剰を伴う面積あてはめ(与えられた直線上に特定の条件を満たす平行四辺形を作図する問題)の命題に関して。

(……)Neugebauerはバビロニアの数学文書を解読し、そこに2次方程式(正確には特別な形の連立2次方程式)の数値解法を見出した。その中には2-5、2-6によって解かれうる前述の問題もあり、しかもそれらの解法までが面積あてはめの解法と酷似していた。そこでNeugebauerは、彼が再発見したバビロニアの代数こそが、ギリシアの「幾何学的代数」の起源であると断定し、この後者を「幾何学の衣を着せた代数」と呼んだ(ただしこの議論を直接支える資料は存在しない)

 彼はギリシア人が代数に幾何学の衣を着せた理由を、非共測量*1の発見の結果、数(ギリシア人にとって数とは自然数とせいぜい正の有理数であった)の領域で平方根をとる操作ができなくなり、すべての操作を幾何学的なものに置き換えたため、と説明している。(……)さらに、プロクロスは面積あてはめの発見をピュタゴラス派に帰しているから、面積あてはめと『原論』第2巻は、「非共測量の発見に伴う代数的技法をピュタゴラス派が幾何学的に書き換えたもの」と解釈されることになり、この解釈は盤石の基礎を得たかに見えた。

斎藤憲: ユークリッド『原論』の成立: 古代の伝承と現代の神話, 東京大学出版会, pp.45-46, 1997

 しかしこうした代数的解釈は70年代に、イスラエルの歴史家Sabetai Unguruの主張によって揺さぶられることになる。

Unguruの論文の主張は明快である。歴史とは過去の出来事や思想を現代の枠組みにあてはめて理解することでなく、当時の文脈の中で理解する試みである。この現代の歴史学の基本的態度が、数学史家、とりわけ数学者出身の数学史家に欠けていること、そして現代数学の知識によってギリシアの「幾何学的代数」にわかりやすい解釈を与えるという探究の手続きそのものが基本的に誤りである、と論じたのである。Kuhnの『科学革命の構造』以来、科学史一般においても「理論の共約不可能性」(本書での言葉遣いでは「共測不可能生」)という標語によって過去の科学を現代科学の基準で解釈することが戒められているのに、数学史だけが「科学革命」から免れて数学的心理の普遍性の幻想を抱き続けていたことをUnguruは痛烈に批判したのだった。

Ibid., p.47

ここで書かれているような歴史に対する態度が、本書では一貫している。いうまでもなく現代の視点から過去の遺産を「再構成」することは実践的には重要なわけだけれど、それが可能となるのは、資料が成立していた当時の文脈を考慮した探究が前提としてあってこそである。上記の問題に関しては、現状では「面積あてはめ」を代数的に解釈する態度は疑問視されており、『原論』での「幾何学的代数」は与えられた図形を「そのままの位置」で議論している点ではやはり幾何学的で、代数的記号では汲み尽くすことのできないものであり、ユークリッド以降の幾何学者たちによる「幾何学的代数」は近代代数とは全く異なるテクニックであると評価されてはいるものの、とはいえこれらの技法が代数方程式を起源としないものであるとする決定的な解答はいまだに存在しないとのことである。

 その他、とりわけ個人的に興味深く思ったのは、『原論』においては「正方形」や「平行四辺形」といった図形をあらわす言葉が、そのまま図形の大きさをあらわしていることだ。例えば線ABを辺とする正方形の面積は「線ABの二乗」とは表現されず、「線AB上の正方形」と表現される。図形は一種の単位であり、尺度であり、いわば「ものさし」であるということだ。

ギリシアの理論的幾何学では、長さ、面積、体積などの幾何学量が数値によって表現されることはない。そして「平行四辺形」のような、図形を表す述語は、そのままでその図形の「面積」の意味でも用いられる。この言葉遣いは、「数(自然数)」と「量(幾何学)」とを峻別するギリシア数学独特の立場の一つの現れである。

Ibid., pp.25-26

さらにこのような態度は「非共測」と切ってもきれない関係にある。

この概念は我々の「無理数」にある程度対応するものだが、そこには二つの基本的な相違がある。一つは、「非共測」という性質はギリシア人のいう「数」には存在しないということである。「数」とは自然数(正確には2位上の自然数)のことであり、応用数学においてもせいぜいで正の有理数を含むだけである。これらの数は言うまでもなく、すべて「共測」である。そして「非共測」性の発見は、ギリシアでは無理数の導入をもたらさず、数と幾何学量の分離をもたらした。したがって、ギリシアでは「非共測量」は存在しても、「非共測数」ないし「無理数」は存在しない。第2の相違は、この「非共測」という性質が孤立した一つの量に関する性質ではなく、二つの量の相互関係であるということになる。いかなる線分もそれ自体として「非共測」ではない。他の線分と比較するときに「共測」あるいは「非共測」となるのである。

Ibid., p.28

これ、けっこう衝撃的な内容だと思う。代数的な、あるいは座標幾何学的な思考が染み付いてしまっているぼくらにとっては、想像がかなり難しいところなのではないか。でもこの辺の認識を前提としないと『原論』はもとより、たとえばユークリッドの数学的方法を確実に引き継いでいるだろうウィトルウィウスの建築書なんかも読み誤ってしまう気がする。記号を用いた数学というものは、ぼくらにとっては当たり前すぎるわけだけれど、この方法による(現在用いられているような仕方での)証明や計算が「創造」されたのは17世紀のことだ。中心にいたのはデカルトやライプニッツ。aやb、cといった記号を数と同様に扱った計算がなくて、証明といえば唯一確実に根拠のある理論であった(つまるところ直観的に把握可能であった)幾何学に頼るしかなかったような「記号のない世界」という視点をつねに意識するということが、数学のみならず、近代以前の建築の状況を正確に想像する際にも必須なのだと思う。

*1:√2や√3は無理数であり、共通の尺度(自然数)によって測ることのできない数である。ギリシア語では「アシュンメトロス: asummetros」といわれるこの性質はしばしば「通約不可能性」(incommensurability)と表現されるが、著者によればこれは原義を正確に伝えるものではない。そのため本書では「非共測」という訳語が提案されている。ちなみに「通約不可能性」という訳語にどうしても馴染みがあるのは、トーマス・クーンの『科学革命の構造』(中山茂訳, みすず書房, 1971)によってだと思われる。とはいえ、斎藤さん使う訳語のほうが正確な気がするので、数学的な性質としてincommensurabilityを扱う場合は「非共測」という訳を用いて、クーンが提示したような概念の翻訳に関する傾向(異なるパラダイム間である概念を完全に対応させることはできない)を指す場合は「通約不可能性」という言葉を使うことにしたいと思う。