MAR.6,2020_増田友也

 コロナの影響で大学図書館が3月いっぱい休館、さらには国会図書館まで休館になってしまった。大学図書館には博論の参考資料が数十冊あって、もうほんと勘弁してくれよという感じ。2020年度の前期(7〜8月あたり)に審査・公聴会をしてもらおうと思うと4月半ばには初校を提出する必要があるのだけど、このままでは絶望的だ。昨日、建築学会図書館にいったときは、そういうこともあって、普通に開館していてとても安心した。いまのところ閉館の予定はないらしい。せっかく田町まできて、閉館でした、だなんてことにならなくてほんとうによかった。いまは美術館なんかも閉まっているし、代わりに寄るところもないから、ほんとうに骨折り損のくたびれ儲けになってしまう。

 図書館で増田友也(戦後の関西を代表する淡路島出身の建築家。「東の丹下健三、西の増田友也」といわれるくらい)の博士論文『建築的空間の原始的構造』(ナカニシヤ出版, 1978; 博論提出は1955)をたまたま手に取って読んだのだけど、とてもおもしろかった。オーストラリアのアボリジニと南インドのトダ族を対象に両者の儀礼、居住、生産の空間的な形態を分析した、すごく人類学的な研究。一周回って現代的って感じ。以下は、前半の人類学的な分析から後半の空間論に入るところからの引用。

空間は実に対象でもなければ、対象化へと向う主体のその結合作用でもない。空間はあらゆる観察に先立って、既にして前提されているのであるから、観察されうる事がらでもない。それ故にいわゆる形而上学は、時間とともに空間を、あらゆる経験の経験に先立つ先験的な(apriori)形式とするのである。しかしここで言われる形式とは、そこにおいて経験が、もしくは諸現象が成立しうるそのところ(Worin)にほかならぬであろうから、そのような事がらとして、そのような事がらに基づけて、空間や時間が記述されなければならぬということを、そのような通説が、逆に指摘していることになるであろう。apriori という用語もさしあたっては、いわゆる主体に先行的に所属している空間を、主体の外に投げ出すというようなことを意味するのではなく、それはそのそこにおいて(Worin)と言われるときに、そのところとして常に既に与えられているという、その先行性を言うのであって、空間はあるのではなく、このような仕方で見い出されるのである。

 Heideggerによれば、空間(Raum)なる語は空開すること(Räumen)をいうのであって、Räumenとは開墾することであり、すなわち荒地や森を切り開らすくこと、したがってこの語は在所(Ort)を明けはなすことにほかならぬ。

 空開するとは、このようにして或る生起することを言うのであるが、同時にその生起がそれ自身を内蔵してしまうのである。そこでいわゆる物理学的 - 技術的空間が、総じて空間と見なされ、そのような空間において、空間としてあること(Raumhaft)のすべての徴標が現われているかのように見なされることにもなるのである。空開するとはまた空けわたすこと(Einräumen)であって、それは生起せしめることと、生起へと方向づけることであり、生起せしめるとは、そのそこにそのそことしての開らけを保証し、そのそこに現前しつつある物たちをその出現へと向わしめ、同時に人をしてそのそこに安住せしめることであり、さらに方向づけることにおいて、物たちをその都度のそのそこへ(Wohin)と属せしめ、同時にそのそこからこのここへと共属せしめるという可能性を、前もって備えるのである。空けわたすことにおいて、このような仕方で、在所の授与が生起するのである。つまり生起するということの性格は、在所の授与にほかならぬ。

 ところでその在所(Ort)は、その都度その方面(Gegend)を開らき、その方面において在所は物たちを、それらとの共属に基づいて、それ自身のうちに集摂するのである。このGegend なる語の古形は会域(Gegnet)であって、そのそこで物たちに出会いうるところの、その開らかれた広がりを名づけ、この広がりによってその方面の開らけが確保され、そのそこでそれぞれの物を、物としてそれ自身の休らぎのうちへと立ちのぼらせ、それと同時に物たち自身の集摂のその相互帰属を護持するのである。物たちもまた、このようにして明けはなされつつ、その集摂においてそれ自身を内蔵するという意味で、そのた在所で遊動するのであるが、そのような遊動(Spielen)が、実にはその方面の開らかれた広がりから、物たちとの共属への指示をうけているのである。したがって物たちが単に或る在所に所属しているのではなく、物たち自身が在所にほかならぬのである。

 在所は物理学的 - 技術的空間のあり方で、前もって与えられている空間のうちに、それ自身を見い出すのではない。このような物理学的 - 技術的空間はむしろ、この方面の在所の、在りどころなる統一からのみ展開してくるのである。芸術における作品と空間との内的相互遊動(Ineinanderspielen)もまた、これらの在所と方面との経験から考えられなければならぬ。つまり空間は、空間としてある前に、在所もしくは方面として探求されなければならぬのであり、これらのことこそ根源的な空間的現象にほかならぬのである。

増田友也: 建築的空間の原始的構造, ナカニシヤ出版,  pp. 205-206, 1978

ここの記述、とても好きだなと思った。増田友也ってなんとなく小難しいことを大難しく書くようなイメージがあって読むのを避けてきたのだけれど、ぜんぜんそんなことはなかった。このハイデガーの解釈とかもすごい明瞭。空間をつくるということは森を開墾するように「在所を明けはなす」ことであり、物がその都度の属す「そこ」を用意し、それらが共属しうる可能性を前もって備えることだ、と。「そのそこで物たちに出会いうるところの、その開らかれた広がりを名づけ、この広がりによってその方面の開らけが確保され、そのそこでそれぞれの物を、物としてそれ自身の休らぎのうちへと立ちのぼらせ、それと同時に物たち自身の集摂のその相互帰属を護持する」っていう道具連関についての記述、痺れるぜ。さらに、

聖石の周りに形成されている空間的領域とは、心理学的には、空間の運動感覚的(kinesthetic)な表象の図式的実現にほかならぬのであるが、そのような領域的空間が、現象的には、聖石そのものに固有のものとみなされている実体的な、ある意味でのtangibleな神話的作用力の遠心的(radial)な放射によって、具体的に形成されるものであること、したがってその空間的領域が、一般的には、同心円的構造をもつものであることが、その場所での儀礼的行動から明かにされる。同時にまたこれらのことから、聖石に秘められていて、それ故に一そう強くその場所を統べる威力ともなり得ているところの、その聖性が、空間的表象のその空間性に先立つことも明かになるであろう。すなわち、その象徴性において、象徴的意味として開示される象徴的空間は、その象徴的意味を受肉する具体的な聖石を中核として、その周りに実体化される威力の空間的領域として現前していることになるであろう。(……)聖石のradialな空間的領域は、個別的に特殊な自然の、神話的topographyに予め秘められている存在的意味において形成されているのであるが、それはなお同じような象徴的意味を担うべく制作されるreplicaによってもまた、形成されうる領域である。(……)儀場の場合には、それを単なる空間的replicaと見るよりも、むしろその一時的構成、したがって象徴的空間の仮設であると言うべきであろう。

Ibid., pp.217-220

ここも良い。象徴的空間の仮設。増田はここで、地形や方位といったものによって生まれた聖と俗を分別する構造、を記号的な操作によって模倣する態度──象徴性の制作──を見いだしている。これこそ建築的な空間の原始ということなのだろう。

 レヴィ=ストロースがはじめての論文集『構造人類学』を出版するのが1958年だから、増田の視座は構造主義にピタリと並行(というか先行?)していたといってもいい。この論文は人類学や現象学だけではなく、記号論やゲシュタルト心理学なんかも取り入れられていて、1955年時点での最新の学知を結集して書かれているのだけれど、つまるところそれは建築以外の専門分野の論文を英語はもちろん独語の文献もすべて原著で読んでるってことで(しかも実務もこなしながら)、当時のインテリは恐ろしいなと思った。身が引き締まる。そうそう、増田の『家と庭の風景』という本が気になったので、こんど時間があれば読んでみようと思う。

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